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時空にえがく美意識
12月号 極月 2013
http://collaj.jp/
大和しうるわし
古来から聖なる山として日没の象徴とされてきた二上山は、河内(東大阪)と大和を結ぶ交通の要衝でもあります。河内側からは「ふたごやま」、大和側からは「にじょうさん」と呼ばれました(石舞台古墳からの風景。2つの山の間に夕日が落ちていきます)。
大阪・天王寺駅から近鉄南大阪線 [橿原神宮前行 ]に乗りました。大阪の街中を抜けると、河内と大和を隔てる山々が見えてきます。山並みの手前は、聖徳太子ゆかりの町として知られる太子町です。二上山のトンネルをこえ、列車は大和に入ります。
當麻寺参道の途中に、相撲開祖といわれる當麻蹴速(たいまけはや)の塚があります。『日本書紀』によると、垂仁天皇の命で日本初の相撲天覧試合を行い7日間の死闘ののち敗れました。その領地は対戦者の野見宿禰に与えられたと伝えられています。
「虫籠窓」をもった古い商家の並ぶ参道。すすむにつれて、當麻寺に残る2つの塔が見えてきます。
7世紀頃、用明天皇の第 3皇子 麻呂子皇子(聖徳太子の弟)によって建立されたと伝えられる當麻寺。日本最古期の梵鐘や弥勒仏坐像、綴織當麻曼荼羅、東西の塔など数々の国宝をもつ寺院です。現在の山門は東を向いていますが、当初は南面していたと考えられています。
金堂と講堂の間をとおり曼荼羅堂に向かいます。寺に保管される「綴織當麻曼荼羅」の原本は非公開ですが、堂内では1500年頃に複製された文亀本曼荼羅や曼荼羅厨子を見られます。
東塔(国宝)は 2、3層部分の「間」(柱間の壁部分)を 2間とした珍しい構造で、奈良時代末の作とされています。
冬ごもり
BC工房 主人 鈴木惠三
『當麻寺』(當麻寺奥院刊)より
国宝「綴織當麻曼荼羅」。南向きに建てられた「金堂」はかつての本堂で、本尊「阿弥陀如来座像」や「四天王像」(持国天、増長天、広目天、多聞天)をおさめています。大陸的な風貌の四天王像は百済から伝わったという説もあります。曼荼羅の人気で寺の正面は曼荼羅堂へと移っていきました。
當麻寺では役行者の妙薬「陀羅尼助(だらにすけ)」が作られてきました(現在は製薬会社製)。製薬につかわれた大釜がのこる當麻寺中之坊では、僧侶の祈祷をうけた陀羅尼助を入手できます。
▲「二十五菩薩来迎像」『當麻寺』(當麻寺奥院刊)より ▼ 浄土庭園
二上山山麓の坂道を上がると當麻寺奥院があります。京都・知恩院(浄土宗総本山)の奥の院として創建され、南北朝の騒乱で荒れた京都から、元祖法然上人像などの寺宝を疎開させたといわれています。宝物庫では當麻曼荼羅や極楽浄土へと誘われるさまを立体ジオラマ的にえがいた「二十五菩薩来迎像」などを拝観できます。
創建時からの東西両塔が残る古寺は當麻寺だけといわれます。
ケノス代表
City Commuter が建築環境を変える日
コミューターとは鉄道等による通勤者のことをいう。コミューターカーは 2人乗り程度の通勤(通学)用自動車のこと。シティーコミューターというと、主として都市内の移動や近郊からの通勤等に使われる小型自動車のこととなる。日本人の悪い癖で何でも言いやすい様に言葉を縮めてしまうので、本当はおかしな使い方なのかもしれないが「コミューター」という言葉を「街乗り自動車」として一般的に使ってしまっている。私もその一人で、今回確認の為に辞書を引いて初めて正確な言い方を理解した。先日11月 21日(プレスデー)に、東京ビッグサイトで行なわれたThe 43th Tokyo Motor Show 2013「世界にまだない未来を競え」を取材した。モーターショウは本当に久しぶりである。中学のとき同級生にバイクの好きな奴がいて、今とな
ホンダ「UNI-CUB」を試してみた。両手が空くのは便利。
ってははるか昔の懐かしい晴海見本市会場にいき、そこでHONDAの新型 CB250の精緻な空冷エンジンフィンと軽快なパイプフレームの美しさに見とれた。その時の印象があまりにも強烈だったためか、車好きであるにもかかわらず以降の印象はほとんどない。今回のモーターショウの中で、まっさきに私の目指した展示は「Smart Mob ility City2013」だった。ゾーンのサブタイトルは「KURUMA NETWORKING くらしに、社会に、つながるクルマたち」である。展示テーマの説明が分かりやすかったので引用すると『これからのクルマは、様々なテクノロジーの革新により、私たちの暮らしや社会と”つながり”、新しい役割と価値を持ち、大切な友達、そして社会の一員になろうとしています。そうしたクルマの未来、人々の暮らしや社会への夢を体験できる、東京モーターショウ2013のシンボルです』というものだ。10月号の本欄では、2020年のスーパーマーケットの未来像を予想してみた(『未来予測の楽しさ、難しさ』)。そのなかで店舗施設環境を変える外的要因に一つに、シティーコミューターの発達があると述べた。言い換えればお客様の来店手段が変わるということだ。今回展示されたシティーコミューターは、車種の多さももちろんのこと機能の洗練ぶりが私の予想を大きく上回っていた。各メーカーとも独自のデザインと新しい機能を盛り込んだものばかりである。コンビニ最大手である「セブンイレブン」は、すでに各店からの宅配にシティーコミューターを採用している。もう見た方も多いと思うが、大半はこのようなタイプの EV(電気自動車)と思えば分かりやすい。街乗りだから多くは1〜 2人乗 Vで、2人乗りは前後に座るタイプが多い。当たり前だが日本の店舗は海外に比べて敷地も狭いから、車幅を出来るだけ狭くして駐車時の効率を上げているのだ。その中から今回は、スマートコミュニティ内の近距離移動を想定した HONDAの超コンパクト2人乗りEV「MC-β」に試乗した。後部座席を前の運転席とずらしたオフセットレイアウトをとっており、後部座席に居ても運転手の頭が前方を遮ることなく視界も広がって快適である。また後部座席をずら
▲ ホンダの「MC-β」に試乗。後席に座らせてもらった。
▲ キャベジンでお馴染みの興和もコミューター事業に参入。
▲ヤマハの四輪車「MOTIV」。ボディにはゴードン・マーレイの i-Stream技術(フレーム構造の一種)を利用している。
▲ ホンダの次世代スポーツ「Honda S660 CONCEPT」。ライトウェイトな 2シーターオープンカーは各社から出展されていた。
した空きスペースは荷物置きになっていて便利である。加速感も良好、スムースで気分よく運転も楽しい。近所への買い物やちょっとした用足しなら十二分だ。クルマの利便性を享受しながら目的を果たせ、その上 ECOに(CO2排出削減に)貢献できる。時代や技術が、自分の思い描いてきた店舗環境や地域環境の姿にやっと近づいてきたと感じ、乗っていて心もときめいた。他にも走行中、バイクの様にリーン(傾く)して走行する
「TOYOTA i-ROAD」(3輪の EV)にも試乗したかったが、展示だけで残念だった。このクルマはバイク並みの使い勝手とクルマに近い安定性を両立させた構造で、新しいジャンルを開拓するかもしれない。今後の開発経過が期待される。ただしこのような超小型車は、法的な整備がまだすすんでいないようだ。FCEV(水素による燃料電池電気自動車)の発展を振り返っても、初期は法規があまりにも厳しく公道すら走れなかった。このさき地球環境保全を優先的に考慮することで、シティーコミューターに対する法改正も行われるだろう。
さて、これらのクルマが街中を走り始め、ある割合を超えると、店舗の駐車場も大きく変わることになる。まず第一に駐車場
▲ 「TOYOTA i-ROAD」。後輪(1輪)が舵をとりバイクのようにリーンしながら曲がる。自動運転システムとも協調するらしい。
▲いつかは愛車にしたいボルシェ 911の 50周年記念モデル。▲ VOLVOらしい北欧風インテリアでひとやすみ。
の設計が変わるだろう。クルマを停めるラインは幅 2.5m、奥行 5mが日本では一般的だが、このサイズをどうするかである。暫くの間、自転車、バイク、シティーコミューター、軽自動車、一般車等が入り交じることとなり、駐車ラインの決め方や場所の選定等が非常に難しくなる。自身のプランニング力を試されるので、車体サイズなどを勉強しなければならない。また当然サービスの一環として、EVの駐車ゾーンには充電設備もある程度の台数設置を求められることになろう。
会場では走りを楽しむための 2シータースポーツを各メーカーが挙って出展する一方、フォルクスワーゲンの超低燃費ハイブリッド車やアメリカ TESLAの 500km走る EV等、ゼロエミッションを目指した高性能車が各国で開発されていた。2011年の展示は 3.11の事態を受け、クルマと家のコンビネーションで生活エネルギーを安定的に確保しよう、または非常時に備えようという展示が多かったと聞いた。それに比べ今年は、やはりクルマは楽しく利便性の高い乗り物だという原点に回帰したと思う。この暮らしに欠かせない道具を使い続けるため、地球環境へのインパクトをいかに低くするかという課題を、メーカーが改めて強くアピールし始めたと感じた。
▲ EVメーカーTESLAの「モデルS」は7人乗り(大人5人+子ども2人)の大型セダンで、最大航続距離約500 km。シンプルなアルミシャシーにモーターやリチウム電池(パナソニック製)を内蔵。家庭用急速充電機も低価格で販売するようだ。
▲ダイハツは昨年に続き液体燃料電池車を出展。液体燃料電池を利用した家庭用&ポータブル発電機も展示していた。
▲ 0.9Lの燃料で100kmを走行可能なフォルクスワーゲンのプラグイン・ディーゼル・ハイブリット「XL1」。限定販売される予定。
當麻寺から裏道をたどり、司馬遼太郎「街道をゆく」の原風景ともなった、竹内街道へ向かいました。
竹内街道は難波大道(大阪)から堺をへて、二子山山麓の竹内峠を越え飛鳥へと結ばれた日本最古の「官道」といわれ、日本書紀にも登場します。當麻寺から竹内街道へでた所には「史跡の丘」があり、古墳の連なる丘の上から遠く飛鳥の地を見下ろせました。
大和側最初の宿場町だった「竹内集落」。糸屋、綿屋、鍛冶屋、竹屋、麹屋、造り酒屋、醤油屋、料理屋などが軒を連ねた町が往時のまま残り、司馬遼太郎が幼少期をすごした原風景の町としても知られています。大雨をさけ造り酒屋を改装した「芭蕉館」で雨宿り。綿弓や琵琶に慰む竹の奥(芭蕉)。綿弓はワタをほぐす弓状の道具で、琵琶のような音色に旅の疲れを和まされる様を描いています。
竹内街道は遥かヨーロッパ、中東へとつづく極東のシルクロードともいわれます。小野妹子の遣隋使をはじめ、仏教の教えや数々の宝物、仏師など大陸の人々が堺の港から街道をへて飛鳥の地を行き来しました。「芭蕉館」の裏には、松尾芭蕉を顕彰した「綿弓塚」があります。
ヴェニスの海鮮小皿とポレンタ
食文化ヒストリアン
大原千晴英国骨董おおはら
それ以外では、マグロ、各種エビ、タコ、そして、ウナギとアンコウも定番に入るのが面白い。ウナギは日本で一般的なものよりも明らかに大きく、アンコウは逆に小ぶり。タコは東京のおでん屋で見るイイダコによく似たものがあって、この煮物が串に刺されて出されたりするのを見ると、銀座の「おたこ」を思い出してしまう。大抵の店ではテーブル席の「野暮な客」向けに、壁にその日のオススメが書き出されている。一応、前菜からドルチェ(デザート)まで区別されているが、酒樽屋台でコースに従うなど、ナンセンスだろう。それにしても、東京からやってきた野暮の目は、彼の地の野暮の卓上に並ぶ料理の皿数に驚く。それくらい彼らは、よく食べ、よく飲む。ワインは北隣のフリウリ県のものが一番目立つ。ソアヴェの白をのぞけば、日本ではめったに見かけないフリウリのワイン。この四半世紀の間に大幅に品質が高まっていて、たとえば、ドイツでも美食都市と
星ら上卓のきた
ヴェニスで気軽に食べるなら、なんといってもバカロ( bacaro)と
ち第30回 呼ばれる居酒屋が一番。中でも特に、小皿料理チケッティ (cicchetti)が楽しい。店に入れば、デパ地下の惣菜売り場同様、カウンターのガ
ラスケースに様々な料理がズラリと並ぶ。素材は、エビ・イカ・タコ・
カニ・イワシ的小魚類やタラそれに貝類がメイン。唐揚げ、煮物、ド
レッシング漬け、トマトソースやマヨネーズ和え等々、おつまみ風が
勢揃いで、これが小さなパンに乗せられて楊枝で止めてあったりもす
る。魚貝の他には、生ハムや卵、肉団子、ナスやアスパラなどの野菜
料理、また、小ピザやパスタ料理もあり、店の個性によりいろいろだ。
お昼時ともなれば、カウンター前には、若い OLたちを含めた常連の
列ができる。好みの品をあれこれ指さして小皿にもらい、ワイン片手
に立ったままおしゃべりしながら食べるのだ。奥には着席のテーブル
席が大小5.6卓ほど置かれ、客が 20人も入れば一杯、という小さな
▲ バカロの風景。美味しそうな魚介類のフライが並ぶ。
店が大半で、この狭さが、なぜか心地よい。もともと運河港湾の肉体
労働者向けに酒樽屋台的な形からスタートしたとのことで、立ったま
ま手早く空腹を押さえると
いうのが本来の姿。ここで
腰を据えてワイン一本空け
るなどというのは田舎者の
野暮ということになるはず
だが、その野暮もまた少な
くない。
食に関心の深い人ならば、
これら小皿海鮮料理の素材
となる魚介類を知るに最適
な場所がある。ヴェニスで
も有数の観光名所リアルト
橋の目と鼻の先にある魚市
場だ。ここで目を引くのは
イカの種類が多いこと。ヴェネツィア人は驚くほどのイカ好きだ。魚
で一番目立つのはイワシ・アジ・サバ系とタラ・ヒラメ・カレイの類。
して知られるミュンヘンでは、この「フリウリの赤」が高級ワインの代名詞となっている。南ドイツとヴェニスは古来交易路で結ばれていて関係が深い。ミュンヘン以南で見られる様々な「ドイツ風」パスタ料理。ボローニャでさえパンがダメな北イタリアで、おいしいドイツ風パンやストゥルーデルが手に入るヴェニス。こうした事実を「意外」と思うならば、中世以来の交易史を探ってみるといい。ヴェニスでは陸上交
易路として昔から、アルプスを越えてアウクスブルクからブルージュへとつながる道、また一方でウィーンから東欧へと向かう道、このふたつが重要だった。料理にも様々な形でこの交易路の痕跡が秘められている。胡椒やナツメグに代表される香辛料、金銀や高級工芸品、絵画や音楽と並んで、酒と料理もまた、この交易路に沿って人が運んだものなのだ。海鮮の他にヴェニス料理で目立つ特徴のひとつ、それは、パスタよりも、ポレンタとリゾットの存在感がはるかに大きいということ。ポレンタとはトウモロコシの粉を水で伸ばしてチーズその他で調味したもの。リゾットとは、お米のスープ煮つめ、とでも呼ぶべきもの。この島に二.三日しか滞在できないなら、パスタは忘れてこちらを食べるべきだ。特に魚貝のリゾットは、上手に濃厚に料理されると、米食刺身食民族
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として不明を恥じたくなるくらいオイシイ。一方ポレンタは、付け合せとして料理に添えられることが多く、ねっとりと調味されたものは素晴らしい。ヴェニスでは黄色ではなく白色が基本で、さらに特別なものとして、そば粉を混ぜ合わせた暗灰色のものもある。もともと小麦の生育が難しい貧しい山村の貴重な主食なのであって、キビやアワやソバで作られてきたものが、 世紀以降、新大陸からもたらされたトウモロコシへと徐々に切り替わっていったという歴史がある。ではなぜ、山村の料理がヴェニスで広がったのか。この島の歴史は 世紀前半、フン族の来襲に追われたフリウリの人々が住み着くことで始まる。当然ヴェニスの料理はフリウリ色が濃厚であって、その基礎の上に、活発な交易でもたらされた東方トルコやギリシアや中東系の料理やお菓子、アドリア海沿岸ダルマチア等の要素、さらには、アルプス北方のゲルマン系の料理が混ざり合って現在に至っている。ポレンタの場合、フリウリの山間部では、一週間に一.二度大鍋に作り置きし、これを数日掛けて食べるという暮らしが、二十世紀半ばまで珍しくなかったというほど重要な基本食だった。というわけで「ヴェニスといえば海鮮」と思いがちだが、先祖伝来の「山村料理」もまた重要なのだ。料理に歴史の痕跡を探る食文化ヒストリアンにとって、ヴェネツィア料理は、尽きることのない面白さに満ちている。
▲小エビにあわせたポレンタは歴史の語り部。
竹内街道を東にすすんでいくと横大路から橿原にいたります。飛鳥の中心駅「橿原神宮前駅」から歩いて5分ほどで、初代天皇・神武天皇をまつる橿原神宮の巨大な鳥居が見えてきます。明治 23年、畝傍山山麓に創建された神宮の敷地面積は15万坪以上。橿原の皇居では神武天皇即位の礼がおこなわれたと伝えられています。
橿原神宮の巨大な拝殿。橿原神宮の設計は築地本願寺や大倉集古館で知られる伊東忠太ともいわれます(当時はまだ帝国大学工科大学の学生でした)。その数年後、大学院時代には古代ギリシャ建築の影響を法隆寺に見出した有名な「法隆寺建築論」を発表しています。
甘樫丘(あまかしのおか)からみた緑に包まれた畝傍山。この山麓に橿原神宮はあり、遠方には二上山が見えます。
本殿は明治天皇の思し召しにより、京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。
素敵な人たち 11吉田龍太郎(TIME&STYLE)
Orin&Keisu (おりん・磬子 富山県高岡市 シマタニ昇龍工房)
我が社では 12月 26日から、寺院でお坊さんが祈りながら『チィーン』と音を鳴らす、すり鉢型の真鍮の仏具、磬子の販売を東京ミッドタウン店で始めることになりました。通常は家庭内で使用する小さなものを鈴(おりん)と呼んでいますが、寺院で使用される 6寸以上の大ものは磬子(けいす)と呼ばれています。富山県高岡市の伝統工芸士シマタニ昇龍工房の 4代目が鍛金技法によって金槌や金床を使い真鍮の板を叩き伸ばしながら、焼鈍加工を30回以上も繰り返し焼締め、根気よく金属を鍛え長い時間を掛けて作っています。『チィーン』『ゴォーン』同じ大きさの磬子でも色んな音色があります。磬子の大きさは 6寸、7寸、8寸、9寸、10寸、11寸、12寸の 7サイズとなります。6寸と 12寸ではもちろん大きさも違いますが、鳴る音も違ってきます。現在、鍛金技法によって職人が作っている工房は全国に 4軒しか残っていないそうで、その内の 2軒が京都、そして 2軒が富山県高岡にあるそうです。日本の磬子製造の約半分はシマタニ昇龍工房が担っていて、福井県・永平寺本山や神奈川・総持寺、京都・南禅寺など全国各地の重要な寺院にて使用されています。おりんは日本独自の仏具で日本以外の国には存在しない日本発祥の仏具なのです。しかし由来は明確には分かっていないそうです。6世紀に仏教が伝承して以降、永い時間の中で日本国の土壌から誕生した固有の仏具なのです。磬子が日本のどこで、誰によって、どのようにして生まれたか ? とてもロマンのあるルーツに想いを馳せます。高岡の磬子製造のルーツは江戸時代中期頃に遡ります。加賀藩であった高岡は当時、鉄銅鋳物業が盛ん
で鍋や釜、花瓶、仏具などを鋳物によって製造していました。それに伴って鍛金などの高度な技術を用いた製造が盛んとなり、最盛期には 30人近い磬子職人がいたそうです。ところで、何故、家具屋である我が社が仏具である磬子を東京ミッドタウンの店舗で販売することになったのか ? その理由は「音」です。磬子は鍛金技法により金槌で真鍮を叩いて形を作り出してゆきますが、最も重要なのは形を作るのではなく、音を作り出すことです。音律の高低や波長を調整することを『鳴りを出す』と言い、この音色を生み出す作業が磬子作りの最も重要なところです。この調音作業は仏教伝来の技を現在まで継承していて、職人の経験と勘のみを頼りに口径部分の内外を金槌で叩いては、音を聞き、また叩いては音を聞き、その繰り返しによって調和のとれた音を導きだします。この作業には長い修行が必要で、サイズによる音の違いを地道に叩き込むために、師匠が調音する作業に耳を傾けること 5〜 7年、その後の 7〜 15年は自分の感覚の中にリズムを思い描きながら正しい音に近づける修行を行い、その後は師匠が正しく調音できているかを確認、修正してもらうそうです。それから 2年くらい継続して修正が無くなれば、ようやく一人前の磬子職人として認められます。本格的な寺院用の仏具をインテリアショップで販売する ?タイムアンドスタイルの連中は頭がおかしくなったのではないか ? どこかの宗教にやられたのではないか ? そんな想像をする人たちもいるかもしれません。しかしこの慌ただしく早い流れの世の中にあって、心を深い場所に沈めてくれる、自分の時間を瞬間でも取り戻させてくれる音が自分の近くに存在したら。仏教伝来から人々の心を癒し導いてきた音を手元に置けるのであれば、体裁や形式など重要な問題ではありません。もちろんシマタニ昇龍工房の 4代目と皆さんの大きな心と未来に向かって伝統を進化させようとする想いが無ければできないことであり、そのような協力があって実現できるのです。磬子本体はそのままですが、磬子を乗せる座布団は当社でデザインしオリジナルで制作していますし、磬子を叩くためのバイと言う棒状の道具もデザインから起こして、旭川の木工場で制作したものにシマタニ昇龍工房で最終仕上げをしています。本気で磬子を販売しますので、どうか素敵な音を聞きにきてくださいね。チュッ ♥
橿原神宮から山田道を通って明日香村の「飛鳥資料館」に向かいました。途中には、孝元天皇陵や古宮遺跡(推古天皇・小墾田宮の伝承地)、雷丘(いかずちのおか)等々、今も新発見の続く遺構が次々と登場します。
須弥山石(復元)。明治時代に資料館近くの石神から掘り出されたもので、7世紀頃、斉明天皇の迎賓施設で客をもてなした噴水だったと考えられています。中は空洞で下部から水を噴出し、仏教世界の中心とされた須弥山を表現しています。
石人像(復元)
▲ 資料館を案内してくれた学芸室研究員 成田 聖さん。
▼ 7世紀の瓦(檜隈寺)。古い瓦は平瓦と丸瓦を組み合わせています。
古代飛鳥中枢部(南北1650m×東西 900m)の1/500模型。北から南(山側)を見たところです。飛鳥寺や橘寺をはじめ宮殿や寺院が点在し「天子南面」(大王は南に面して君臨するという大陸の法則)に従い、建物は南を正面にしていたと考えられています。仏教伝来の地・飛鳥は日本ではじめて瓦の焼かれた場所で、当時は寺院にしか使われない貴重なものでした。
▼漏刻施設の推定図(絵・穂積和夫氏)
発見された数々の遺物が、飛鳥への想像力をかき立ててくれます。酒船石遺跡で発見された亀形と小判形の石造物は、水を使ったた祭事のための道具とも言われますが定かなことは分かりません。宅地から偶然見つかった「飛鳥水落遺跡」は特殊な遺構で、高密度に配置された礎石同士を地中梁で結合した頑強な構造や木樋、漆の皮膜などが発見されました。これらから中国から伝わった漏刻(ろうこく・木箱の管から流れる水により時を計る装置)が設置され、時刻を鐘で伝えていたのではないかと推定されています。石室の東西南北に描かれた青龍、白虎、朱雀、玄武の絵で有名な「キトラ古墳」は、古墳から寺院建築への過渡期に築かれたものと推定されています。資料館では、復元された石室のなかに入り精緻な壁画を間近に見られます。フレスコ画と似た手法で、生乾きの漆喰にヘラなどで下書きしてから顔料を一気に塗っています。北面に描かれた玄武は、亀と蛇を合わせた生き物で、陰陽五行説における「北方・冬・黒」を象徴しています。そのほか朱雀は「南方・夏・赤」、白龍は「西方・白・秋」、青龍は「東方・青・春」と五行説にのっとった忠実な描き方をしています。また四神を川や道、湖、山に見立てた「四神相応」は、平城京、平安京などの都市計画にも影響を与えました。白虎(左)はトラにしては胴体が長すぎるように見えますが、トラは龍に出世するという考えから描かれたようです。朱雀(上)は後世の華麗な鳳凰にくらべ、山鳥のような素朴な味わいがあります。下書きの溝や漆喰の剥がれた跡、盗掘の穴なども忠実に復元されています。2014年1月17日〜26日「発見30周年記念キトラ古墳壁画特別公開」では実物の「白虎」「玄武」が公開されます。天井に描かれた星座。北斗七星やオリオン座などを確認できます。
資料館の見どころのひとつが、オリジナルの部材で再現された山田寺東回廊です。蘇我倉山田石川麻呂によって 641年に建設をはじめた初期仏教寺院で、1982年の調査によって部材が土砂に埋もれた状態で発見され、樹脂を含浸したのちに当時のまま組み立てられました。法隆寺と同時期の寺院で形の残るものは山田寺だけで、その比較史料としても重要だそうです。全体にズングリとしていて、柱はギリシャ建築のように真ん中が膨らんでいます。蘇我の一族でありながら蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)に参画した石川麻呂は、後の策謀より山田寺で自害しています。山田寺の本尊は興福寺へ渡り、いまは国宝興福寺仏頭として知られています(上はその複製)土砂に埋もれた部材(主にクスノキの柱や瓦)が生々しく残ったのは奇跡的なことで、部材の寸法やホゾなどの仕組み、組み立て方などの調査により、法隆寺とは異なった建築様式の存在が判明しました。
▲飛鳥周辺で発掘された新羅など舶来のやきもの。
▲山田道で発掘された盛土に小枝を敷いた地盤改良工法。
▼疫病を運ぶと信じられた馬の土器を壊す習慣がありました。
▼各地から海産物や米、器、絹糸、漆などが運ばれました。
竹内街道など、飛鳥・藤原京へと続く「道」を特集した企画展がひらかれました。堺から大和を結ぶ竹内街道は東西に伸びた横大路へ続き、南北には上ツ道、中ツ道、下ツ道という3本の街道が等間隔に走っていました。これらの街道を通じ、日本全国の産物や舶来の品々がもたらされることとなります。大和をめぐる見知らぬ旅人同士、古代史談義に花が咲きます。
飛鳥資料館から歩いて 10分ほどの「神籬(ひもろぎ)」は、茶粥懐石で知られる店です。茶粥は千年以上前からの日常食で、ほうじ茶を煮だした湯に洗い米を入れて炊きます。さらりとした食感が大和の茶粥の特徴で、炊きあがったらすぐに食べるそうです。
▲ 河村容治教授(上)とチームリーダーの3年生・山口さん(左上)。
▼ 川崎市・宮崎台のマンション。写真提供:東急リバブル
▼想定される住民像を 200名分あげていきました。
毎年秋に開催される Bu ild Live Japan。ゼネコンの設計チームや大学
の研究室が参加し限られた時間(今年は 100時間)で、BIMを利用し
た設計作業を行います。今年の課題は川崎市・宮崎台のマンション建
て替え計画でした。様々な世代・職業・家族構成の114戸が入居した
築 40年のマンションです。
課題地の発表後に行われた現地調査では、福嶋さん(上)が中心とな
りマンション住民に突撃アンケートを行い、70人以上の意見を収集し
ました。その結果、お店がなくて不便、坂道がきついという声のほかに
「世代を越えてコミュニケーションできる場が欲しい」という意見が多く寄せられました。そこで1日目は想定する住民像を書き出した後に、建て替えの目的を「高齢者と子育て世帯が住みやすい住環境」というテーマに絞り込み、どのような共用施設が必要かを検討しました。
▼共用施設のアイデアをブレストしながら意見を出し合いました。
▼ 広報担当の工藤さんはフェイスブックで経過をレポート。
▼ 共用施設と居住棟を組み合わせた最初期のプラン。
東京都市大学等々力キャンパスのプロジェクトスタジオは、高性能なコンピュータを備えた 24時間使用可能な次世代型教室です。学生はここに寝泊まりしながら作業を進めました。共用施設を検討した結果、高 齢 者 → 異なる世代とのコミュニケーションできる「集いの場」子育て世帯 → 安心して子どもと遊べ、教育体験も出来るスペース社 会 人 → 休日などに趣味を楽しむ場(結果として住民交流)といった住民の欲求の具体像が固まってきました。これらを実現する共用部と住居部を分離するのではなく、全体が輪のように繋がるコミュニティを形成した「 Face Circle 」というコンセプトが1日目の終わりにまとまりました。2日目からは具体的な施設の検討に入り、ジャムジー(ジャグジー +ジム)やシェアキッチン、レンタルファーム、子育てサービスなど様々なアイデアがあげられました。それと同時に全体のデザインや各住戸の設計もはじりました。「Face C ircle」のフォルムは、増殖するアメーバのようなイメージとなり、各住戸を結ぶ渡り廊下やエレベーターホールに共用スペースを配置しています。また世代・家族構成・年収にあわせた 5プランの住戸を用意することとなり(20㎡の単身者用〜 100㎡の富裕層向きまで)、多様な住戸がプランされました。デザインには GRAPHISOFTの ArchiCADを使いました。柱や床などの構造から、タイル等の仕上げ材、サッシや設備機器、家具などが部品化されていて、プランに従って組み合わせることでデザインを進めていきます。グループ機能を使えば、ひとつのデータを共有し、躯体や仕上げ、内装を分担して進められます。部品にはコストや寸法などの情報を予め持っているので、見積りや延べ床面積も自動計算され、変更もすぐに反映され共有できます。
▼ 「CADの鬼」の異名をもつ本澤さんは黙々と作業を進めます。
3日、4日と学生たちの疲労も蓄積していきました。曲面で構成された間取りや共用施設のデザイン、地下駐車場の設置など、通常のマンションよりも設計要素が多く、限られた時間の中で試行錯誤が続きます。特に難航したのは予算計画で、建築コストと住民負担の算出に多くの時間が費やされました。しかし従来にない魅力ある機能を採り入れることで、住民の建て替えに対するモチベーションをあげ、新規分譲分の価値を高めることで、建て替えのスムーズな進行や住民負担の軽減を図れます。「こうしたコンセプトを充実させるのが、当研究室の特徴」と河村教授。同学部の卒業生は都市開発やマンションデベロッパーに就職することが多く、企画力を養うことに力を入れているそうです。すでに建物の具体像をアップし、各種シミュレーションをはじめたライバルチームもあるなか、じっくりとあせらないことが大切です。
▲予算担当の桃井さん。共用部のコストと新規分譲分の収益、住民負担のバランスに悩みました。
▼ シムトレッドを使った、住民の行動シミュレーション動画。
プランが完成に近づくと共に、各種シミュレーションも行われました。A&Aの歩行者シミュレーションソフト「S imTread(シムトレッド)」を使い、住民の行動パターンを予測します。シムトレッドは人の動きを動画で表現してくれる便利なソフトで、1階の共用施設が人の流れを中央付近に引き寄せ「Face C ircle」のコンセプトを果たせることが分かりました。やっとデータが完成し、主催者へのアップが終了しました。100時間に渡った挑戦も終わりを迎えます。山口重之教授も交えた、まとめ会がひらかれ、今後のスケジュールや反省点を話し合いました。
「次回はもっと完成を早めて、シミュレーションに時間をかけられるようにしたい。BIMの特性である竣工後の運用システム(メンテナンス)の構築についても検証してみたい」と河村教授。学生には少し厳しすぎる要求と思いますが、BIM社会に向けての飽くなき挑戦は続きます。
▼都市生活学部学生作品展「ライフスタイルをデザインする」(タチカワブラインド銀座スペースオッテ)にて、Bui ld Live Japanの活動報告を行いました。