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1月号 初荷 2014
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太陽の道
時空にえがく美意識
橿原にあがる太陽のもとには、天照大御神を祀る伊勢神宮があります。今月は「太陽の道」と呼ばれる北緯 34度 32分付近にならぶ、大和の三輪山〜室生寺〜伊勢の神宮をたどりました。
7世紀後半、大化の改新が進むなか壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、中国(唐)を規範とした条坊都市「藤原京」を計画します。藤原宮跡では大極殿院の土壇や、その門の跡を見られます。
甘樫丘から北(奈良・京都の方角)を見ると大和三山に囲まれたに藤原宮が見えます。藤原京についての史料は少なく実像は謎に包まれていましたが、近年の調査により平城京を凌ぐ規模であったことが明らかになってきました。南を正面にして、西に畝傍山、東に香具山、北に耳成山を飲み込むカタチで、東西 5.3km、南北 4.8kmにわたり碁盤の目状の街路が走っていたと推定されています。藤原京はわずか16年で廃都となり、藤原不比等などの主導によって北へと遷都され(平城京)、寺院や宮殿などの多くは移築されたと考えられています。
畝傍山耳成山天香久山
醍醐池と耳成山
遷都の理由にはいくつもの説があり、水量の少ない飛鳥川しかなく低湿地帯のため水の便も悪いこと、遣唐使が唐の都を見聞した際に藤原京と大きく異なっていたこと(中央に大極殿があり朱雀大路も短く狭い)。藤原不比等が藤原家の権勢を確立するためなどが挙げられます。役所の集中した大極殿院周辺では1200点以上の木管が発見され、今も奈良県立文化財研究所による発掘が続けられていました。
飛鳥川
正月早々、何ですけれど、昨今東京の二〜三十代の独身男女、「恋人いません」が大半なのだとか。心ひかれても、恋する気持ちを抑えこむ。仕事も忙しいし、面倒は避けたいし、周囲も皆おひとりさまだし ……寂しい話です。今回は、その正反対の世界のお話。舞台は十八世紀末、文化爛熟のヴェネツィア。ラグーンに浮かぶ歓楽都市は、深い霧のごとく怪しい官能の疼きで島全体が覆われていたのであります。
豪華な衣装を身にまとい、顔の半分を隠す仮面を着用し、頭全体を頭巾で覆うという、コンメディア・デラルテの登場人物の如き姿の男たちと女たち。これが、昼日中から幌付きのシックなゴンドラに乗って運河を行き来し、博打場リドットに出入りする。ここは元々大貴族の邸宅で、後に生まれる南仏や南ドイツの豪華カジノの原型だ。そこでは仮面舞踏会そのままにエレガントな上流の男女が日々賭場を賑わせていただけではなく、「夜の女達」もまた、凝った衣装に仮面を着けて、カモを探し回っていた。当時こうした女性が、島に約2万人。そ
の「最高の顧客」それは、船乗りなんかよりも、グランドツアーでやってくる、世間知らずで金離れのいい英国貴族の若殿様たち、欧州全域から甘い蜜に吸い寄せられてくる男爵様や伯爵様、さらには高僧たちだった。これらヴェネツィアの遊び人達は決して、カーニヴァルの時だけこのような「仮装」をしていたわけではない。一年の半分近くの期間、仮面と頭巾という姿で
出歩くのが当たり前で、上着をまとうように仮面を着用するのが日常だった。この仮面の力によって自由を得た男と女達は、素顔であれば考えられない大胆さで、誰は
15 %
ばかることなく、恋愛を謳歌していくことになる。
むろん、そんなことが出来たのは、旅人を除けば貴族階級と上層の町衆に限られていたけれど、ヴェネツィアで仮面の流行が頂点に達する十八世紀期末、このふたつの層だけで全人口の約 に達している。こうした仮面頭巾文化の爛熟は、いつしか「女装する男たち」という新種を出現させるに至って、このいかつい女装集団が酒場で乱痴気騒ぎを引き起こすことが常態化していた。男子ソプラノ、カストラートの美しき去勢少年たちは、この荒っぽい女装集団の愛しきアイドルとなっていて、あたかも僧兵荒法師と稚児のごときだ。その一方で、「男装する若い女たち」も珍しくなく、その中には女子修道院を密かに抜け出してアヴァンチュールに身を任せる「修道女」も混じっていた。これに同情したくなるのは、その「修道女たち」というのが実は、ご
▲ ゴンドラにのって、いざ仮面舞踏会へ。
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物の「脇」や「裏側」に回ってみると、これが、意外と素っ気ないというか、お粗末というか。舞台美術もしくは映画のセットみたいで、一言で言えば「仮面建築」だ。ヴェネツィアは欧州東方交易を独占する地位から転落した後、ムラノのガラス、豪華な織物、さらには書籍出版など、交易から製造業へと経済の重心が移っていく。その中で特に注目されるのが、 世紀に一時欧州一と呼ばれた「鏡の生産」だ。当時大きな鏡はヴェルサイユの「鏡の間」に象徴されるように、たいへんな贅沢だった。その贅沢な鏡を壁と天井さらには床に至るまで張りめぐらせた秘密の小部屋。ここでカザノーヴァは修道女と戯れ、その様子を部屋の主であるフランス大使が密かに覗き見したりしている。大使こそは修道女と密会するためにこの秘密の鏡部屋をしつらえた張本人なのだ。これを倒錯的と見るか、爛熟の洗練と見るかは、見方によるだろう。それはそれとして、多面体の鏡に映る男と女は、いずれが実像それとも虚像。女が真に愛しているのはカザノーヴァ、それとも、承知のうえで覗き見を許しているフランス大使。この驚くべき女の本性は、愛人それとも修道女。まさに虚と実、真心と戯れ、本性捉えがたき男と女、恋と官能入り乱れる中で、しかし誰もが、その一瞬に心をときめかせながら人生を濃密に生きたことは間違いない。これにひきかえ、自由あふれるはずの我が若き世代は、恋愛さえも、しり込みをする。しかし、なぜ?
貴族の子女や娼婦、高僧、修道女、入り乱れての饗宴。
本人の意志とは無関係に、十代前半で修道院に「強制入院」させられた、貴族の子女が中心だったからだ。そんな修道女が「ああ神様お許し下さい」と口ずさむ暇もないほどのにぎわいの中、男と女、男と男、女と女、何でもありのデカダンスの海に溺れる都、それが、フランスで大革命が起きつつある時代の、水の都の爛熟した実像だった。そして、この時代のヴェニスの先駆けともいえる人物こそが、蕩児カザノーヴァだ。この魅力的な男は、まさに時代と社会の申し子だったのだ。それにしてもヴェネツィアの仮面文化はエロス満開、成熟した大人たちの真剣な遊びだった。当時この島は、欧州有数の音楽都市でもあって、音楽と美術そして食はいずれも、男と女のエロスに直接つながる官能のゆらめく世界だということを思い出して頂きたい。絵画ならばティツィアーノ、音楽ならばヴィヴァルディー、そして恋愛ならばカザノーヴァ。ガラス工芸にしても服地の意匠にしても、このヴェネツィアの官能性が背景にあってはじめて産み出し得た洗練ではないだろうか。
一方この仮面文化は、ヴェネツィア独特の建築に通ずる要素がある。あの大運河の両側に立ち並ぶ見事な建築群。一歩陸に上がって、その「華麗なファサード」を誇る建
藤原京からさかのぼること 50年余り。蘇我氏滅亡ののち都となったのが、大阪城の南に位置する難波宮(なにわのみや)といわれています。藤原京から南西に約 30km離れた難波は古来から交易の要衝として栄え、大和へと続く難波大道・竹内街道・横大路の出発点でもありました。古代宮殿の原型となった難波宮の跡は広大な公園として整備され、大阪歴史博物館脇には古墳時代(5世紀)の倉庫も復元されています。難波宮跡では、GPSを利用したスマホアプリ「AR難波宮」で、大極殿をはじめとする宮殿の建物をバーチャルに体験できます。
大化の改新の諸政策は難波宮で練られたといわれています。やがて朝廷は百済の要請に応え日本から数万人の軍隊を派遣。白村江で唐軍と闘い敗れます。大陸の脅威が強まるなか壬辰の乱を契機に都は飛鳥浄御原宮へ遷都され、日本初の律令(体系的な法令)といわれる「飛鳥浄御原令」が発布されました。律令国家の体制を整えるべく、当時の近代都市・藤原京の造営をすすめたのです。
藤原京の東、大和川(初瀬川)の川岸に「仏教伝来の地碑」があります。古代に「海石榴市(つばいち)」という市がたち、大陸からの人や文物が難波の港から大和川を遡上してきたといわれます。シルクロードの終点ともいえ、欽明天皇の時代(500年代)には、百済の使者により金剛仏や経典がもたらされたと推測されています。古代ロマンを訪ねる散策路として人気の「山の辺の道」はここからスタートします。山の辺の道を北へ歩いた金屋集落に、第 10代・崇神天皇の宮跡と推定される磯城瑞籬宮があります。崇神天皇は 3〜 4世紀に実在した事実上の初代天皇ともいわれ、宮殿の跡は志貴御県坐神社になっています。当時、三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)は天皇と共にありましたが(「同床共殿」)、天照大神の力を畏れ、人の政と神の世界を分けようと考えた崇神天皇は、八咫鏡を宮殿の外に祀志貴御県坐神社の近くに、モダンアートを多数収蔵した田園の美術館「喜多美術館」があります。300年つづく大庄屋の家に生まれた故・喜多才治郎氏のコレクションを公開するもので、展示室にはルノワ.ル、ゴッホ、ブラック、ピカソ、ユトリロ、藤田嗣治、佐伯祐三、須田国太郎、ウォーホール、ジャッド、イサム・ノグチ、マグリット、キリコなど豪華な作品が並びます。他にヨゼフ・ボイスとデュシャンの部屋もあり、日本の近代洋画からヨーロッパ・アメリカのモダンアートを俯瞰する教科書ともいえる美術館です。赤瀬川原平氏のコラム「田園の孤独な目の軌跡」によると、大正時代に生まれ身体の弱かった喜多氏はサザビーズやクリスティーズのオークションを利用して、自分の気に入った作品を集めていったそうです。シルクロード東の果てにたどり着いた作品たちが、今日も静かに息づいています。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第5回
京都南座右 番
『そうだ京都、行こう。』のキャッチに乗せられて。京都南座「吉例顔見世興行」はじまりはじまり ……
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暮れの京都。テレビの CMに引き込まれ、一度は行ってみたいと思っていた南座の「顔見世興行」を観に行った。市川猿之助、市川中車の襲名披露も重なって、まねきの上がった正面玄関はごった返し。小雨のふる中を、南座横、鴨川沿いの列に並んで案内を待つ。歌舞伎をは
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じめて観たのは、随分前になる。友人のお母様のドタキャンで声が掛かり、前から数列目という贅沢な席だったが、演目も出演者も覚えていない。衣装が美しいことははっきりとしているが、セリフも舞台の流れも皆目見当がつかず、退屈の初歌舞伎鑑賞だった。それから大分経っての事、香川の金比羅歌舞伎を誘ってくれる方がいて、歌舞伎のおもしろさを知った。はじめて自分で買った歌舞伎のチケット、飛行機代も含めて相当高い観劇料だったので、見逃しのないよう、気合いを入れた。役者の息づかいや、衣装のほつれた糸まで見え、ど迫力の声量と大道具、小道具の細部にいたるところまで、目一杯楽しむ事ができた。その時の興奮が病み付きになり、金比羅歌舞伎と讃岐うどんを楽しむ会の仲間入りとなって、年 1度、金丸座へ通い続けている。そんなわけで、歌舞伎のおおよその流れはつかんでいるものの、京都の南座ははじめてである。手にした切符は、 2階席の一番前
「 」とある。真ん中のいい席である。開演まで少し間がある。荷物とコートをおいて、探索をはじめる。ここは、京都の南座である。金丸座とは少々異なる。いわゆる芸妓さんとおぼしき着物姿の美しいお姐さん方があちこちにいらっしゃる。それだけでも一見の価値有り、と思う。1階奥には、ご贔屓の役者さんへの付け届けをする受付があり、こちらもそれぞれ役者の名札の前には列をなして記帳をしている。幕間のお弁当もさまざま。吉兆のお弁当は五千円。ギョッとしたが、予約で完売。もの珍しさもあって、ぐるっと一回りしてお弁当を確保すると、開演 5分前のブザーが鳴った。急ぎ、席に戻ると何やら騒がしい。私の席に男性が立っている。「えっ」よくあ
つれづれなるままに 京都南座 右14番
るダブルブッキング ??、まさか。チケットを取り出し、 番であることを確認してもらった。間違いない !!。が、隣の紳士が、
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「でも右側ってありますよ。」
えっ ?右の 番 ?それ何処 ??それからが大変。すでにはじま
る直前である。自分の間違いだったことは認めるが、右の 番が
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わからない。ようやくみつけた 番は確かに一番前だが、右の席は遠く、すでに座っている人の前をまたいで行くのは容易ではない。どうしたものかと慌てふためいた様子は、おっとりとした京都には不釣り合い。「後ろの扉を出てから前に」という親切な人の声で、我に返り、急ぎ扉を出て、隣の扉をあけて右 番の席に無
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事到着。開演間際かろうじてセーフ。さぁ、はじまりはじまり ……途端に、疲れが一気にでたせいか、ほどなくして睡魔に襲われ、演目「御浜御殿」の見所である中車の長台詞は、ほとんど覚えていない。昔、金比羅歌舞伎を観に行ったとき、座敷席の後ろで舟をこぐ方をみつけ、なんとも気持ち良さそうと羨ましくおもった
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ことがあったが、その時にその方が、「これが最高の贅沢さ。歌舞伎は贅沢な遊びだから一生懸命観ようなんて思わなくてもいい。」
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と教えてくださった。その贅沢の胸中に少し近づいたのかもしれ
ないと、半分夢の中で、人気演目、元禄忠臣蔵の一コマを聞いて
いた。
分休憩の時間に華やかな歌舞伎座幕の内弁当を開け、ビールを
飲む。至福のひと時である。さてこのあとの長いこと長いこと。
休憩時間を含めて 5時間。口上あり、踊りあり。鳴りものあり。
次から次と演目が変わり、御浜御殿の続きかと思ったら、つじつ
まがあわず、あわててガイドを見るという有様だった。
歌舞伎には慣れているつもりでも、こんなに演目が多く、長時間
の歌舞伎は初めてである。顔見世興行とは、大勢の役者が沢山の
演目でちょこっと顔を出す、そのままなのである(今、話題の愛
之助も出ていたが、すぐにわかった)。京都の風物詩と言われる
「まねき上げ」の謂れを知り、痛くなるほど首を反らして、猿之助、
中車のまねきを見上げた。
それにしても、向いのお姐さん方は終わる迄、背筋を伸ばし着物
姿も崩さずにきちっと座っているのには驚いた。鍛え方がちがう。
さすがである。暮れの京都、こちらも京都ならではの風物詩である。
暫くは、歌舞伎はいい。(ノーサンキュ)とおもうが、 4月には、
また金丸座の金比羅歌舞伎が待っている。見栄を切る歌舞伎の世
界、サービス精神満載には、懲りない魅力が一杯なのかもしれない。
おしまい。
古来から信仰の中心となった大物主の聖地
古代から聖なる山として崇められてきた三輪山は、日本神道発祥の地ともいわれ、三輪山をご神体とする大神神社の参道には、三輪山を拝む巨大な鳥居が立っています。周辺の山々とは異なり斑糲岩(火成岩の一種)で形成され、山頂から山腹に築かれた三個所の岩石群(辺津磐座、中津磐座、奥津磐座)には大国主神、大己貴神、少彦名神が鎮まります。現在も登山は届け出制で、山中の飲食や撮影は許されていません。古来の信仰を今に伝える日本最古の神社・大神神社(「おおみわじんじゃ」と読みます)は、三輪山をご神体とするため本殿はありません。国造りの神である大物主神を祀り、特に酒蔵や製薬業者の信仰を集めています。大物主神は蛇の姿になってこの世に姿を表わしたことから、蛇のすむ木の前に卵を供えるのが習わしです(白蛇を見たという人もいます)。三輪山への信仰により大和には全国各地から人々がやってきて、大和で行われた季節の祭事や古墳のスタイルは全国各地へと伝搬していきました。それにより大和は王権の影響力を広めていったと考えられています。
江戸期に建てられた拝殿の先には独特の姿をした「三ツ鳥居」がおかれ神職も踏み入れない聖域とされています。三ツ鳥居は拝殿からは見えませんが、社務所に依頼すれば拝殿脇からの参拝も可能です。
大神神社に近い纏向(まきむく)遺跡群。伊勢神宮と出雲大社のつながりを立証するといわれる建物の遺構もTV放送され、近年にわかに注目を集めています。最古期(3世紀)の前方後円墳「箸墓古墳(はしはかこふん)」は、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓といわれます。大物主神が姫に憑依し「我を祀れば国は治まる」という神託を与えたことから、巫女的な卑弥呼のような存在だったと推察する説もあります。
厳寒期、周辺の農家では名物の三輪素麺づくりを行います。素麺を初めて作ったのは大神神社の神主であったともいわれます。
ケノス代表
ウイーン以外で聴くウイーンフィル
昨年、1 1月 8日から 17日にかけての金曜と日曜、計 4日間にわたり、サントリーホールで行なわれた「ウイーン・フィルハーモニックインジャパン2013」に通った。ベートーベンの1. 9番までの交響曲をすべて演奏するという、壮大な Beethoven Symphony Cyc leである。本来私は、弦楽四重奏のような小編成の曲が好きである。指揮者はおらず、たいていは第一ヴァイオリン奏者が指揮者をかねて、各パート奏者とお互いの息使いや音を聴きながらタイミングを見計らい演奏を進める姿にわくわくする。深いデリカシーがそこここに溢れ、またスリリングでもある。生演奏は気迫や思想がダイレクトに伝わってきて何とも美しい。各演奏者が主役となるからだ。交響曲などを演奏する場合は、楽器の種類も豊富で音色も多種多様、そして大音量で迫力もある。しかしオーケストラは少なくても50.70人編成のため、指揮者を中心に演奏を組み立てざるをえない。各演奏者は部分的な存在となってしまいがちで、必然的に指揮者が主役になってしまう。言い換えれば「音楽」は「指揮者のもの」になってしまう。だから交響曲などを中心とした演奏会には滅多に行かない。しかしウイーン・フィルだけは、その他のオーケストラとは何かが違うと感じていた。今回は 30回目の来日で、特に1990年代に入ってからは毎年秋に訪れている。だから聴きに行くチャンスはいくらでもあったが、「ウイーン・フィルこそ本場で、あのウイーン楽友協会大ホールで聴くもの」と決めつけていた。今思えば自分からチャンスを逃していたことになる。実は 1998年春にウイーン旅行をしている。ウイーン・フィルの演奏会日程を調べずに急に思い立って出発してしまったので、到着の翌日から 3日連続でコンサートに行ったが、ウイーン・フィルを聴くことは出来なかった。未消化のまま早いもので 14年も経ってしまった。今迄のウイーン・フィル来日時のプログラム構成は、例えば 2011年は日本人に人気のシューベルトの交響曲第 7番「未完成」を中心に、モーツアルト、マーラー、ブルックナーなどウイーンに馴染みの深い作曲家で構成されていて、クラシックを聞き込んだ人、聴き始めて間もない人双方に来場をうながすものだった。そんな中サントリーホールから今回の演奏会案内が届いたのは、春も終わりの頃である。それが何と「Beethoven Symphony Cycle」ではないか ! 日本人はベートーベン好きである。「運命」+「田園」や「英雄」+「運命」の組み合せや、年末の「第 9番合唱付き」演奏ラッシュは日本だけらしい。しかし今回の Beethoven Symphony Cyc leというプログラム構成には、日本人に合わせただけではない重さを感じた。本場ヨーロッパでの長いオーケストラの歴史の中でもわずか12回しか行なわれていないとのこと。そこで Beethoven Str ing Quartet Cycleをチャンバーミュージックガーデンで毎年こなしている Cyc le愛好家の私としては、これを聴きに行かないわけにはいかない。べつの言い方をすれば、一人の作曲家の曲形式やジャンルを絞り込んだカタチで、初期から終わりの曲まで、あのウイーン・フィルで全部聴き続けることは、一生に一度訪れるか訪れないかのチャンスであろう。初日第一曲目、指揮棒が振り下ろされ交響曲第 1番の弦のユニゾン(例えば複数のヴァイオリンが「同じ音符や旋律」を同時に演奏すること)が始まったとき、他のオーケストラとは全く違う「正にこれがウイーン・フィルの音なんだ!」という感動に震えた。イメージ通り洗練され切ったウイーンの音色であった。弦楽器の音色は世界に類を見ないと云われるウイーン・フィルの楽器は、個人所有ではなく、多分だがウイーン・フィルハー
モニー協会の所有・管理のようだ。今回は第一ヴァイオリンパートだけで 16名が演奏していた。しかし演奏中のヴァイオリンパートの音はまるで一人の演奏者が弾いているのでは思わせる繊細で見事に揃った音色である。これはウイーン・フィルでしか味わえない。きっと長い歴史の中で楽器を選びに選び、弾き込んでウイーン・フィル風の音色に育ててきたのだろう。それにも増して管楽器の音色も今まで聴いたことのない、柔らかく深い音色である。ウインナオーボエ、ウインナホルン、ウインナトランペット、ウインナバウケン(ティンパニーのこと)など、このオーケストラ独自の古いスタイルの楽器が使われ、個性的で独特の音色を作り上げている。深い満足感を味わった晩秋の 4日間であった。
「ウイーン・フィルは本場で、あのウイーン楽友協会大ホールで聴くもの」という想いはまだ心の何処かに疼いている。日本との違いはホールやホワイエの雰囲気である。前回のウイーン行きで二度、ウイーン楽友協会大ホールで演奏を味わった。恒例のニューイヤーコンサートでも放映される大ホールが醸し出す雰囲気には、そこに行かなければ感じられない桁外れのオーラがある。そして沢山の来場者が休憩時間につくり出すホワイエのざわめきには、そこでしか味わえないお洒落で伝統的で、文化的なものがある。今回は「日本で…」はあったが、意を決して正解であった。 Beethoven Symphony Cycleの体験は「やはりもう一度ウイーンに行って楽友協会大ホールで聴くのだ」という決心を強く後押しした。
大宇陀は製薬会社発祥の地としても知られます。古くは「阿騎野」と呼ばれ推古天皇による薬狩が行われました。寒暖差の激しい薬草に適した地の利と、不老長寿の妙薬とされた水銀が採れたこと、鹿などの鳥獣に恵まれたことから、薬づくりが盛んになったといわれます。江戸期に大宇陀で最も栄えた薬問屋・細川家は「薬の館」として公開されています。
江戸期、大宇陀には 50軒以上の薬問屋があったそうです。細川家は江戸期に流行した「人参五臓圓」(万能薬)や「天寿丸」(腹薬)で財を成し、金融業も営んでいたようです。明治期に藤沢薬品工業(現アステラス製薬)を創業した藤沢友吉は細川家の血縁にあたり、他にもロート製薬や津村順天堂(現ツムラ)など宇陀とゆかりの深い製薬会社があります。
5つも連なったカマドから、往時の繁栄ぶりをうかがえます。
慶応2年創業の「いせ弥」は、昭和初期まで造酒屋を営んていた店です。今は自家製の米こうじ(甘酒や味噌作りに使う)や奈良漬(瓜、キュウリ、スイカ、守口大根など)を販売しています。元造酒屋だけあって奈良漬は酒精分の強い味わいでした。
450年以上前、南北朝の時代に創業した森野吉野葛本舗は、伝統的な吉野葛の製造販売元として知られます。11代・森野藤助により、享保14年(1729)にひらかれた森野旧薬園は日本最初の民間薬草園で、今も四季折々の薬草を 250種以上栽培しています。
葛はマメ科のツル性植物で、吉野本葛は極寒期にその根に含まれる澱粉を地下水で精製・乾燥させる「吉野ざらし」という製法で作られます。大和朝廷以前から山間部に暮らす人々は国栖人(くずびと)と呼ばれ、葛粉を売るため里に降りて来たといわれています。
▼屋根をかけた人参小屋のなかでは朝鮮人参も育てられていました。春先から夏にかけては、薬草として有用な花々も愉しめます。
急な階段を上がり森野旧薬園へ。11代・森野藤助は葛粉製造のかたわら薬草の研究を行い、幕府見習いとして近畿一帯の薬草調査に尽力します。ときは徳川吉宗の時代で、薬草や朝鮮人参の栽培が全国で奨励されていました。藤助は褒美として譲り受けた薬草で薬草園を興し、その当時から伝わる薬草・薬木が今も大切に守られています。
[ pm5:00 木村 ]
い、夏姫に薬を流しているのは、県警の荒川だ][くスッと上がる。男は竦むように目を逸らした。逃げるよ
病院のベッドから起き上がった。どっかのガキからの電
うにその場から去って行く。設楽を殺った件はロックに][ ?知ってるのか ?。クロは ……そっっっ、あの野郎
話に血液が沸騰していた。復讐したいなら豊岡神社に来
知ってる。荒川に豊岡神社まで来いと呼び出しくらってるかぶってもらう。狙うのは荒川とロックの共倒れだ。荒
い……だと?策略の匂いがプンプンする。上等だ。ボ
らしい ][ いつだ ? ][ 今日の 6時だそうだ ][ ……あ川は頭が切れる。だから彼を混乱させる不確定要素を
ストンバックを引き寄せた。グズグスに砕かれた頬骨が疼
と一時間しかない][クロからの伝言だ。後ろから動き放り込まなくてはならない。木村はその役を見事に果た
く。ロックマンに壊された顔面。麻酔が効いている。2.3
を止めてくれ ……とのことだ ][ ・ ……県警に手を出すのしてくれるだろう。クロはそう言った。クロがそう言うの
時間は動けるだろう。手で触った。途端の激痛に声が漏
れた。バックから取り出したトカレフを口に咥え、点滴
の容器を取り外す。スプーンとライターで悪魔の液体を作
り、スプーンごと容器の中にぶち込んだ。クロ、ロック
マン……。「待ってろよ……」こっちはもう失くすものなん
て何もねーんだよ。
「必ず殺してやる! この命に代えてもだ」
木村は心の中で昏い雄叫びを上げた。
[ pm5:00 静君 ]
静君はウサギとグリとマリオネットシアターで談笑してい
♯24悪夢の前夜 2野田豪(AREA)それでも地球は回ってる
か ?][クロのことだ。後のことは考えているだろうさ]なら、絶対そうなのだ。思索にふける黒い不可視の炎
当たり前だ。][行くに決まってる、 ?[どうするそうか]……[
が凪の毛穴のあちこちから吹き出していた。チロチロと。
夏姫を傷つける奴は許さねぇ、それが刑事でもだ ]携帯を見る。時間だ。凪は静かに立ち上がった。
静君は携帯の電源を切った。
[ pm5:00 カレン ]
伝えたぞクロ。口の奥でつぶやいた。
カレンは、部活の途中で抜けたナツの後ろ姿を見送る
[ pm5:00凪 ]
と「私だって行きたいよ、お祭り」と呟いた。「行ってく
凪はカフェのスツールに座り、取り出したニットを目深に ればいいじゃん、先生には適当に言っとくよ。夏姫もカ
かぶった。ブラックコーヒーを一口含む。ガラスの向こう イトもナツもいないんじゃ、リレーの練習も出来ないで
の夕暮れの街。途方もなく幸せな風景。ああ、体中に力 しょ」横にいた先輩が言ってくれた。「うん ……じゃ、
を感じる。こんな感覚は生まれて初めてだ。心にクロを 考えて ?」「なにそれ ……行こうかな。うーん、うーん
た。荒川の聞き込みの話だ。もっとも2人は荒川が刑
事であることなど全く気づいていない。ウサギは 「 」
感じる。今なら何でも出来るような気がする。クロの手るふり?わざとらしい」「へへ。行ってきまーす!!」
と答えグリは 「 」と答えている。 「あの人なんなの ?」
が私をあの薄暗い穴から引きずり出してくれた。もうあそ[ pm5:00 夏姫 ]
「さあ、何かの調査じゃないかな、最近事業始めたし」
こには戻りたくない。だから私はこの手を死んでも離さな森の中は落ち着くな。本殿の裏道から裏山に続く遊歩
そう言い終えると同時にメールが着信した。ロックマン
い。切れ長の双眸に光が灯る。隣で凪を盗み見ていた大道の途中。夏姫は大きな山石の端に腰をおろして目を
からだった。[ 静君、裏取れたか ? ][ ああ。間違いな
学生にその焦点を合わせた。凪の美しい唇。その両端が 閉じている。廃れた道だ。獣道に近い。この先には朽
ちて使われていないお堂がある。地元の人間しか知らない。犬神様を祭っていた場所だそうが、今は草に囲まれ、森の一部と化している。薬は抜けている。しかし ……、痩けた頬。クマに落ち込んだ目。美しかった少女の名残りは髪の細いリボンぐらいにしか残っていなかった。それでも夏姫は、今、幸せに満ちている。[ 6時に犬神様の手前の山石の所で待ってろよ、話聞いてやるよ]カイトからのメールの返信。優しさに満ちたその一文字一文字を何百回読み返しただろう。きっとカイトは助けてくれる。今日全部を話そう。私の身に起きたこと。暴力に巻き込まれてこんなことになってしまったけど、カイトなら ……きっとなんとかしてくれる。薬ももうやめる。また昔の私に戻って、カイトと一緒に[左の道]から学校に通うんだ。洋服を買いに行ったり、映画見たりしたいな。カイトは SFとか好きだけど、私はあんまりだけどがまんできるとおもうな。みててあきたらかいとの横顔をみてよう。あとかいとはお好み焼きすきだけどわたしつくれるかなくっくぱっどでしらべなきゃおかあさんにも教えてもらおう。おかあさんとかいと。おかあさんありがとうおかあさんかいとありがとうございますだいすき。無意識に注射針を腕に射す夏姫。夕暮れが山を覆う。
[ pm5:45 ]
木々を縫い、森を走るロックマン。山笹の葉擦れもしない。人の能力を越えた体重移動が可能にする駿迅のフットワーク。と、その動がピタリと止まった。まずロックマンが荒川と轟を見つけたのだ。荒川は考えている。あらゆる角度で一つの仮説を検証している。ソーマの木は荒川が確信にいたる前に確信する。そうか、なるほど ……見抜いたぞ。俺にロックマンをぶつける気か !!! 「クロ ~~~」
「はい ?」「轟、本部に連絡だ」「ほへ ?」「ノロノロすんな」「だってアラさんまだ内定段階だって ……」「いいから早くしろ。俺たちが危な ……」その瞬間、怪鳥の声が 2人の耳を劈いた。頭上。太い楠木の枝がザッと鳴った。ブンッッ。ものすごい早さでロックマンの足が荒川の耳元をかすめた。避けられたのは偶然だった。Siiiiii。背後っ。振り返ると夕暮れの闇が凝り固まったように、ロックマンが立っていた。「轟っ逃げろっっ」四つん這いになった轟が身を起こして走り出す。荒川との距離 3メートル。目測するやいなやロックマンがその場から助走無しの跳躍。その距離を一気に縮める。警視庁の出稽古。柔道の腕には自信があった。究極の最短距離を迅るロックマンの左腕を右手で弾いた。ほぼ同時の右。ギコッ。胸骨が嫌な音をたてた。返す左が同じ場所を抉った。そのまま荒川は後ろに飛んだ。着地の右足を最大限に捻って、そのままロックマンに背を向けて走り始めた。走りながら絶叫する。ロック ! 騙されるなっクロの策略だっっ !!! 声の代わりに大量の血が飛び散った。追いつき、荒川の足にローを叩き込む瞬間、ロックマンの動きがピタッと止まった。斜面の先の小道。大きな石の影に夏姫を見つけたのだ。そこに向かう男の姿。大柄な男とすれ違った。振り返り背中を見る。何かから逃げているようだ。カレンは肩をすくめて、先を急いだ。神社からの近道だ。山石の所で立ち止まった。「カイト?」そばにいるのは ……夏姫 ?
[カイト君と手をつないでその左の道を行きたいな]夏姫の言葉を思い出す。あれがカイト君か ……。良かったじゃねーか、夏姫。遠目にもわかるぜ。Goodmanだな。薄く笑った。んじゃー俺はお前らの幸せにチャチャ入れる元凶を排除しなきゃなんねーよな。再び修羅のごとく追走を始める。森が途切れた。廃墟のお堂の境内の裏に回る。荒川は大きな柱に半身を預けて必至に息を整えた。上着の内側からニューナンブを取り出す。22口径。こんなものがあの化け物に通用するのか ? ……無理だ、止められるわけがない。どうする?轟が増援を呼んでいるはずだ。遅くとも20分あれば到着するだろう。くそっ鬼ごっこか。しかし逃げ切るしかない。裏山を見下ろす。この森を突っ切れば国道だ。胸を押さえる。くそっ痛えなー。泡の吹く音といっしょに吐血する。肺をやられているのだ。ちくしょう。重い足をようやく動かした時、背後でミシリと音がした。ロックマンだった。血を吐いているな。当たり前だ、荒川。当然の報いだろう。まあ今楽にしてやるよ。荒川の黒い瞳孔が見開かれる。怯えるな。一瞬だ。左足に力を込めたその時、ロックマンの体が横薙ぎに吹っ飛んだ。突然ロックマンが視界から消えた。 乱入 ?だれだ ?一瞬、轟かと思った。違った。もっと大男だ。誰だ ?穴だらけの境内の上を2人がもつれて転がって行く。「黒すけがーーー」独特のだみ声。顔が包帯で埋まっている。木村だ。右手のトカレフ。こいつの身体能力は桁外れだ、距離を少しでも取ったら絶対外す。だったら簡単だ。もつれあって超至近でぶっ放せばいい。そらっ。耳元の銃声。一発、二発、そして三発。脇の間、首の横、腰の裏。あたらない。四発、五発。瞬身で体を動かすロックマン。木村は驚愕する。簡単なはずなのに、なぜ出来ない。当たらない当たらない当たらないぃぃ !!!ロックマンのショートが木村の砕けた頬骨を叩く。肩の入らないパンチだ。その程度ぉ。痛覚が薬で飛んでるんだ。効くわけないだろう。何度叩いたって何度どど ……あがあっっ。最後の銃声。身の毛もよだつ断末魔の声に荒川はその場に座り込んだ。ロックマンの右手の掌が半分ほど木村の顔面に潜り込んでいた。皮膚を破り、崩した頭骨の隙間から中に潜り込ませたのだ。木村はそのまま動かなくなった。ゆらりと立ち上がるロックマン。だがすぐにその場に倒れた。ロックマンの腰から血が噴き出していた。最後の銃弾が当たっていたのだ。乾坤一擲。まさに執念の一発だった。荒川はだらしなく座ったままニューナンブを構えた。
ロックマンの額に狙いをつけた。しくじった。その時、ロックマンは自分と荒川の間に立ちはだかる後ろ姿を見た。その男が腰の後ろから小さな拳銃を抜いた。見たことのない銃だった。グリップの底のレリーフが垣間見えた。花? レイ? 。
右肩に衝撃を受けた。続いて右足。そして左足。荒川はその場に仰向けに倒れた。しっかり距離を取って荒川の顔を覗き込む男。「なぜだ ? ……轟」眠そうな目を荒川に向けたその男 ……轟が口を開く。「それ偽名っす」「な・・ん・・だと?」「俺の名はリオ(馬)っす。ずっと前から潜入してました。ジュニア守るのが僕の仕事っす。すんませんアラさん」ロックマンの父親。ハワイの黒組織。調べてはいた。結びつけてはいなかった。「焼きがまわったな、俺も」「いえ、アラさんはスゴいっすよ。洞察力半端ないっす。ウチの親父の親バカが異常なんですって。海越えて護衛なんてつけないっしょ普
通」気が遠くなっていく「大丈夫、死なないっすよ、そのくらいなら。俺、医者なんす。そっちの木村も見た目よりは・ ……まぁ大丈夫っしょ」轟が携帯で本部へ報告を始めた。「はい。場所動きました。すぐにコッチに向かってください ……」荒川の意識がそこで落ちた。
「さーて、そこで見てるお嬢さん。出てきて下さいよ」轟の言葉に少女が境内の奥から姿を現した。「クロの手引きでしょ?子供のくせにやることがえげつないねえ」凪は薄く笑っている。「ウチのジュニアはハワイにつれて帰りますよ」「 …………そうしてもらえると助かります」「アラさん死んで、木村も死ねば、ウチのジュニアが日本の警察の敵視取ったままだ。設楽殺しもまとめてクロはセーフティゾーンって算段ね」「・ … ロックなら余裕で片づけると思ってたわ」「で、ジュニアをハワイに戻す段取りも怠りなくってことな。いやー頭いいわ。スカウトしたいわ」銃口は凪に向いている。「でもね、アラさんも木村も死なないよ。もうすぐ大量の警察官が駆けつけるからね。で、この状況なら ……」ダンッダンッ。新たな銃声が響き渡った。轟がやにわに走り出した。「出てくるよねー !!クロッッ」茂みから飛び出した全身黒尽くめの男。両手の黒星(ヘイシン)。フェイントを織り交ぜながら巧みなフットワークで轟に駆け寄る。「でもね」狙い澄ました一発。クロの体がつんのめるように泳いで、倒れた。「こっちは本職なんで」 ……つづく
大宇陀から東へ、女人高野として名高い室生寺に向かいました。ふもとの大野寺からは宇田川の対岸に立つ「弥勒磨崖仏」が見えます。約 800年前絶壁に彫られた13m超の彫刻作品です。室生寺入り口の太鼓橋。たもとには土門拳の定宿だった「橋本屋」があります。室生寺の古い記録には「室生山には大日如来の宝珠があり、これが垂迹して天照大神になった」とあるそうです。そうした伝承と共に室生寺が北緯 34度 32分にあることは、この地がかつて太陽祭祀の聖地であったことを示すのかもしれません。
石段の正面に建つ金堂。釈迦如来立像を中心に十一面観音菩薩立像や地蔵菩薩立像などが、十二神像によって守られています。
弥勒堂は土門拳による横顔の写真で知られる、平安前期の「釈迦如来坐像」を安置しています。室生寺の各堂の屋根は、檜皮葺によって美しいラインを描いています。
都から真東に位置する室生山は青龍の地とされ、龍穴で雨乞いの儀式が行われていました。その後、興福寺の高僧「修円」により密教寺院の基礎がつくられ、江戸期には徳川綱吉の母・桂昌院などの援助により女人禁制を解いた「女人高野 室生寺」となりました。
奈良時代後期に建てられた五重塔。1998年台風 7号の倒木により甚大な被害を受けましたが修復工事により美しい姿をとり戻し、初期密教のもつ幽玄な美を諸仏とともに伝えています。
素敵な人たち 12吉田龍太郎(TIME&STYLE)
亡き父と親友
2014年、明けまして、おめでとうございます。本年も僕の汚文にお付き合いいただき、感謝申し上げると共に、皆さんの貴重なお時間の浪費に心よりお詫び致します。知りたくもないと思いますが、1月7日で50歳となりました。1945年の終戦の19年後の1964年、東京オリンピックの年に生まれました。このようなことを『コラージ』と言う公器を借りて誕生日をお伝えするのも大変おこがましいのですが、50周年記念と言うことでお許しください。会社の仲間からも祝福をしてもらい、誕生日オリジナル DRAGON&STYLE 50THと言う Tシャツを作ってくれたり、僕の好きなイタリアワインのBrunello Di Montalcinoをプレゼントしてくれたり、スペシャルバースディケーキを用意してくれたり、秀樹感激〜の 50歳の誕生日を迎えることができました。何よりもこんなスカタンポンコツの中年おっさんと日々仕事を共にしてくれて、真面目に取り組んでくれ
る会社の仲間達と一緒に人生を送ることができていることに幸せを感じています。会社ではなかなか照れ臭くて恥ずかしくて、気持ちを上手く伝えられません。どうか皆さんお許しください。50歳と言う年齢を迎えてそんな幸福感を持てるとは想像していませんでした。まさに神からのご褒美だと感じています。27歳の時にドイツで会社を創業してから24年、これまでは自分なりにずっと突っ走ってきたつもりでした。その間には多くの人たち、両親や兄弟、家族、そして仕事の仲間達、色んな人たちに沢山のご迷惑も掛けましたが、途中で立ち止まって考える余裕もなく、そのままブッチギって今日まで来てしまい、その間、汚物をたくさん垂れ流してきました。これを、あとの祭り、やり逃げと言うのですね。自分の 50年間の時間の中で色々なものが生まれ、また失いました。会社や仕事、お店や製品もそうですが、何よりも人生や仕事をともにする仲間達、友人、そして子供達が生まれ、また同時にいくつかのものを失いました。父を18年前に、そして大好きな親友も数年前に失いました。生まれ育つものと同時に失ってゆくものも多くなり、いつの日かは自分も存在を消すことになります。50歳と言う年齢は人生のこれまでを振り返り、そして、これからの残り時間を考える節目なのだと言うことを感じています。父が他界して 18年になるのですが、父が生きていた時よりも、年々より多くの父のことを考えるようになりました。自分と父が一緒に生きていた過去の時間のことを思い浮かべては、その頃の父の年齢に差し掛かる自分の今の気持ちと父の面影を重ねながら、父が何を思い、考えていたのかの想いに巡らせる時、父が生きていた時よりももっと近づいてきて、その時の父の僕への愛情や父自身の苦しみと言った想いを感じることができるのです。そして、父と自分の人生が重なってゆきます。そして自分の中に今でも父がそのままに生き続けているような、父と自分が同化するような、そんな感覚になってゆきます。しかし、僕自身はまだ死に対しての恐れがあります。若い時には感じなかった死に対する怖れを、今の年齢になって感じています。自分の人生の残り時間を感覚的に意識して把握することができる年齢となって、初めて死が身近な存在になって迫ってきます。まだ沢山、やりたいことがある。そして、まだまだ多くの時間を家族や仲間達と送りたいと切に感じます。それが自分の正直な感情です。しかし、7年前に45歳で亡くなった僕の親友の気持ち、生きたいと言う願いを思うとどうしても彼の無念の気持ちを僕自身に置き換える勇気が持てません。しかし、父も友人も亡くなった後に、残して行った者たちに本当に沢山の愛情や勇気を残し、そしてその感情や願いは今でもその友人の子供達や僕自身、そして周りの人々一人一人の中で育まれ続けています。人と人との別れは失うと同時に、そこから育むことへの出発点でもあると感じます。そして、父や友人達と接してきた一人一人が繋がって、彼らの生き方や願いを交換してゆくことで、幼くして父を亡くした子供達の中でも生き続け想いは育まれてゆくのだと思うのです。父や友人の願いを胸に秘めて、その思いを自分の中に育みながら、これからの人生を大切に挑んでゆきたいと思います。親父は酒が好きだったなー。友人も酒が好きだったなー。よし、今日も飲むぞー。
伊勢の山々を越え「太陽の道」東端の鳥羽湾に着きました。古くから大和朝廷へ海産物を献納してきた鳥羽の海。伊勢の山々から流れ込む水がリアス式の波静かな鳥羽湾に栄養を与え、伊勢エビやアワビ、ワカメなど多様な魚介類を育てる温床となっています。
鳥羽国際ホテル「シ.ホース」。地元の山崎俊和シェフが伊勢エビをはじめ海の幸・山の幸を堪能させます。野菜は自家農園で育てているそうです。昭和 39年開業の「鳥羽国際ホテル」は、皇室や海外からの国賓を数多くもてなしてきたホテルです。もんど岬の高台にたち、プレジャーボートで訪れる客を迎える桟橋も備えています。ロビーなどあちこちに名産の「伊勢型紙」が展示されていました。鳥羽にも近い伊勢湾岸の町 白子(現鈴鹿市)でつくられ、伊勢商人によって江戸・京都・大阪をはじめ全国に流通しました。もんど岬からの眺め。左に答志島、右に菅島、坂手島、遠くに神島、さらに渥美半島先端の伊良湖岬も望めます。神島は三島由紀夫「潮騒」の舞台となった島で海女漁も盛んです。坂手島には、伊勢へやって来た倭姫が遊んだ姫の浜もあります。泊浦と呼ばれた鳥羽湾は、伊勢神宮の社領でありながら海賊に支配されていました。16世紀、一帯を平定した九鬼嘉隆は海につきだした「浮城」鳥羽城を建設し、強力な九鬼水軍を率いて織田信長や豊臣秀吉につかえ関西の制海権を握ります。秀吉朝鮮出兵の際には全長 30m超の巨大船・日本丸を指揮しました。その末裔には明治の美術界をリードした九鬼隆一や息子で哲学者の九鬼周造がいます。
江戸時代の鳥羽港は大阪〜江戸航路の風待ち港として賑わいます。明治に入り新時代の先陣をきったのは、御木本幸吉による真珠養殖でした。神宮と連携した鉄道や道路、宿泊施設の整備もすすみ、昭和 21年戦後初の国立公園となる伊勢志摩国立公園が生まれます。昭和 26年には御木本真珠ヶ島が公開され、昭和 30年開館の鳥羽水族館開館や島々にたち並ぶホテル郡に象徴される風光明媚な観光地へと変化していきました。
鳥羽港の朝日。天照大御神の姿を感じつつ、伊勢神宮へむかいました。
チラシ大好き
BC工房 主人 鈴木 惠三
▲ 遷宮の際に大きなつとめを果たした神鶏。「遷御の儀」では、神職による鶏の鳴声と共に天照大御神のご神体が新しいお宮に移されます。内宮の別宮「風日祈宮(かざひのみのみや)」は、風雨を司る級長津彦命 (しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと )を祀っています。遷宮は今年の年末に行われる予定です。
風日祈宮へと渡る五十鈴川橋はすでに架け替えられ新しくなっていました。川には流木などを防ぐ木除杭を立てています。
20年に一度、遷宮の準備は遷宮の 8年程前から行われます。最初の行事となる「山口祭」は、御杣山(神宮備林)の神を祭る儀式で、その後、木曽の上松町にて「御杣始祭」を行い御樋代(御神体を納める容器)に使う檜を 2本伐採します。神木は木遣り唄に送られ上松町を出発。各地で出迎えの行事を受けながら伊勢に到着し、「御樋代木奉曳式」によって五十鈴川を曳かれ内宮へと運ばれます。
建て替えられた「御稲御倉(みしねのみくら)」。小さいながらも内宮と同様の「唯一神明造」で、その構造をつぶさに見られます。神宮の神田で収穫された稲は、抜穂(ぬいぼ)のカタチでここへ納められます。
「荒祭宮(あらまつりのみや)」。鉋掛けされた素木の表面は輝いて見えます。遷宮に必要な1万本以上の檜は主に木曽で伐採されていますが、神宮を囲む御杣山でも100年先を見越した育成を進めています。
新連載神々のデザイン石井利雄(写真と文・旭川在住)大雪山国立公園高原沼の秋 水草やまわりの木々が沼に深く溶けこんで、その静寂とあいまって自分の存在を忘れるひとときでした。雪解け水をたたえた沼はヒグマの水呑場でもあるのです。
内宮と同時期に遷宮を終えた外宮も沢山の参拝客で賑わっていました。御祭神の豊受大神(とようけのおおみかみ)は天照大御神の食事を司り、農業から産業まで衣食住すべての守り神といわれています。江戸時代から年間数百万人の参拝客で賑わった伊勢では、旅の利便性をはかるため日本最初の紙幣ともいわれる「山田羽書」が伊勢商人により発行され、幕末まで全国で流通していました。
須賀さん、鈴木さんの案内で、内宮と外宮の間にある倉田山に向かいました。ここには大正 12年にひらかれ、倭姫を祀る皇大神宮別宮「倭姫宮」があります。人影も少ない森閑とした山道を登ります。
倭姫は第 11代垂仁天皇の第四皇女と伝えられ、天照大御神の「御杖代(みつえしろ)」となり、大和の三輪山から伊賀・近江・美濃などの諸国をまわり、神託により約 2千年前に神宮を創建しました。後に代々の天皇は未婚の皇女を伊勢に送り、天照大御神に奉仕させ「斎王」制度が確立されました。
倭姫は新嘗祭をはじめとする祭祀や神領を定め、神宮を支える組織や運営方法などを確立したそうです。
黒心なくして、丹心をもちて、清く潔く斎り慎しみ、
左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし右を右とし、
左に帰り右に回る事も、万事違う事なくして、大神に仕え奉る。
元を元とし、本を本とする故なり。
『倭姫命世記』より