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2月号 仲春 2014
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大島地球びより
時空にえがく美意識
東京都心の竹芝桟橋(JR浜松町駅近く)から、高速ジェット船で最短 1時間 45分の伊豆大島。春の陽気に誘われて、ぶらり散.にでかけました。波立つ海も、船体を浮き上がらせたジェット船に乗れば、ほとんど揺れを感じません。台風 26号(2013年10月16日)の復興支援として、東京都から片道1,500円の運賃補助(キャッシュバック)が行われていました(3月20日頃までの予定)。
大島の山・海・星空を案内するグローバル・ネイチャー・クラブの西谷香奈さん(森林インストラクター)に島巡りのガイドをお願いしました。まずは港の前に建つ「龍王神社」を訪ねました。近くの八幡神社と対になった神社で、八幡神社と同じ「テコ舞(東京都無形文化財)」をここでも奉納しています。海を見ていた方に聞くと、町を拓くためテコで岩を掘り起こす様子を表しているそうです。祈りの場の多い大島。木々に囲まれた民家の庭先にもお社が鎮座していました。
頭をぶつけそうな鳥居。その理由は謎です。風情のある岡田の町。海からの風を分散するため、道はくねくねと折れ曲がっています。石垣や礎石など使われる溶岩には、生成の違いでいくつもの種類があるそうです。庭に転がる大きな石は、力自慢の男たちが競いあって抱えたもので重量(五貫目など)が刻まれていました。関東大震災(1923年)の際は津波の被害を受け、それ以前の元禄地震(1703年)では廻船や漁船18艘、家屋 58件、男女 50人以上が流されたと古い記録にあるそうです。
大きな河川がなく水不足に悩んできた大島の人々。雨樋をつないで雨水をためる貯水槽(地元では井戸)が今も使われています。島の数カ所には清水の滲み出る水場があり、早朝の水汲みは「あんこさん」(島の女性)の日課となっていました。海に近い井戸は潮の満ち引きの加減で塩分が強くなってしまうため、時刻を見計らって汲んでいたようです。
▲真ん中がアーチ状の参道階段は溶岩の流れも感じさせます。
▼本殿裏の祠状の崖は古来の祭壇の痕跡を漂わせていました。
八幡神社は大島のヒーロー 源 為朝(ためとも)が、溶岩をテコで切りひらいて創建したといわれます。弓矢の達人として知られた為朝は、保元の乱(1156年)に破れ大島に流されますが、やがて国司に謀反を起こし伊豆諸島を支配したと伝えられます。奈良・平安時代には貴族や僧侶が流刑となり、島民に大切にされたようです。本殿隣に並ぶ「いぼっちゃ」は、各家の庭に屋敷神として祀られていました。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第6回
飛梅に誘われて
「こちふかばにおいおこせようめのはなあるじなしとて ……」最後がどうしても思い出せない。ネットで調べれば訳ないことだが、それではあまりに情けない。雪が溶けたらこの続きを確認しに行こうと思っていた。しかし、2週連続の雪でそれも叶わない。
毎年、この時期各地で梅まつりがおこなわれる。私は、小田急線の、その名も「梅が丘」の羽根木公園に出掛ける。一人暮らしをはじめた最初の地が、この梅が丘。公園のすぐ前という絶好の場所に住んでいたのに、当時は梅を愛でながら散策するという風情も情緒も持ち合わせなかった。普段はあまり人のいない駅で、大勢の人が乗り降りする賑わいぶりを見て、梅まつりが行われていることを知る程度。隣駅、下北沢の小劇場やごちゃごちゃした裏通り、横町の一杯飲み屋へ通った記憶が多い。
ところが離れてみると妙に懐かしく、この時期になると開催時期を確認して毎年足を運ぶ。決まって昔住んだアパートの前を通り、若かりしあの頃を思い出しながら、羽根木公園一杯に咲く梅を観に行く。
そこに、この碑がある。
「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花、主なしとて ……」ご存知、菅原道真の句である。太宰府に左遷させられた失意の道真に応え、京都から飛んできたという梅の木がここにはあるという。最後の句は、どうしても実物を見て確認したいと思う。思い出せない。それも案外いいこ
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つれづれなるままに 飛梅に誘われて
とかもしれないと、ちょっと気が楽になる。
広場では、地元商店街のボランティの方々から温かいお茶が振る舞われ、屋台も出る。そして、どういうわけか、群馬県から産地直送の野菜やこんにゃくが販売される。ここで春野菜を買うのも楽しみのひとつである。それからビルの間に富士山を遠く眺め、紅白の梅をゆっくりと堪能する。なかなかのものである。
実は、この梅まつり、もう一つ楽しみがある。それは駅前の花屋さんを覗く事である。
歳はとうに越えていると見受けられるおじさんがひとりで切り
盛りし、特別に愛想がいいわけではないけれど、実に丁寧なのである。店先の花はどれもイキイキとして色がきれい。4〜5年前に小さなピンクのつぼみをつけたシクラメンを買った。500円だった。1年物とおもいつつ、そのかわいらしさに衝動買いだったが、毎年この時期しっかりと花を咲かせてくれる。これには、毎年感謝である。そして、おじさんの目利きのすごさに驚いている。今年は特に愛くるしいピンクの色をつけて、「見てみて」と言っているようだ。
梅は凛と咲いている。誰が見ようと見まいと、毅然とした姿勢を保ってそこにある。
どちらもいい。
雪に足をとられてしまった2週間だったが、まだまだ梅は見頃である。春がやってくる前に、凛と咲く梅と、またあのおじさんに会いにいこうと思う。そして、飛梅の碑の最後の句をつないで、いつでも思い出せるようカメラに納めておくことにしようと思っている。
椿さく大島公園へ
60年ほど前から続く大島最大のイベント「椿まつり」は、1月下旬から 3月下旬まで、都立大島公園(昭和 10年開園)を中心に開催されます。
大島の陶芸家・渡邊昇次郎さんは、父・渡邊昇一郎氏の遺した貴重な写真を展示。あんこさんの日常風景と共に、ラクダに乗って三原山に登ったり、煙をあげる火口を覗いたり、今とは違う観光風景がありました。あんこさんの頭巾は、頭に水桶や薪を載せて運ぶためのものだそうです。
公園内の「椿園」では、約 450品種 3,700本の園芸種の椿を観察できます。
椿園の前では「復興花うえ運動実行委員会」の皆さんがプランターに花を飾っていました。1,000円の寄付でプランターにメッセージを描き、被災した農家から再生した花を植えられます。遠く東北から来た方もいて、力強いメッセージを寄せていました。プランターは復興住宅に贈られるそうです。
隣では「大島牛乳」代表の白井嘉則さんが、自ら牛乳を PRしていました。子供の頃から牛とともに暮らし町議会議員もつとめた白井さんは、島の主要産業であった牧畜を絶やしたくないと牧場経営を引き継ぎました。人肌にあたためた牛乳から甘い香りが漂ってきます。台風 26号の際は昭和 33年の狩野川台風を思い出したそうです。この時も山麓から山津波が発生し、元町で全壊 55戸、半壊 49戸、死者行方不明者各 1人、重軽傷 53名の被害がでたと町の記録にありました。
「椿資料館」が新築され様々な園芸種の生花が展示されていました。元は黒潮小屋(昭和 13年)と呼ばれた宿泊施設を利用していましたが、老朽化のため小屋に使われた建材を活かしながら再建したそうです。
岡田港と泉津地区を結ぶ橋の途中で、西谷さんが車を止めてくれました。橋から見える旧道は土砂で埋まり、崩れた山肌は皮をむかれたように見えます。島のあちこちで土砂崩れが発生していたことを、現地で初めて知りました。
ケノス代表
コンビニから世の中の変化が見えて来る -3
小売業界では日本最古参の出版社「商業界」から毎月でている業界誌に「月刊コンビニ」がある。そこにデザイナーズ・アイ「新店ウォッチング」というタイトルの連載を昨年1月から続けている。毎月溢れるほどよせられる新規出店情報から、編集部が特徴のありそうな店を選び、それをコンビニに詳しい(?)デザイナーの目でレポートするものだ。
「コンビニなんか何処へ行ってもみんな同じじゃない? 」という声が聞こえてきそうだが、実はここのところ、コンビニ業界は猛烈な勢いで変化し続けているのだ。コンビニの陳列商品は1〜 2週間で見直しが入る。単品管理というビッグデータに基づき売れ筋商品を残し、売行きのはかばかしくない商品をどんどん入れ替えていく。このように新商品がでれば、いち早くコンビニに導入されることは、皆さんが既にご存知のことなのだが、今回の「変化」はもっと大きなうねりの様相を呈している。私がいま注目しているのは「業態を超えた融合ストア」の登場だ。話を進めるのに少し専門的な流通用語で申し訳ないが『業態』の意味を一応説明しておく。業態の対極に業種という概念がある。業種店とは八百屋さん、お肉屋さん、魚屋さん、パン屋さんというように、限定された種類の商品を専門に販売するマーケットすなわちお店のこと。それに対して業態店の代表がスーパーマーケット(言ってみればいろいろな業種を集約して、その集約の仕方に独自性を盛り込み、食材や商品を販売する、マーケットを超えたスーパーな存在ということで、通称スーパーと呼ばれている)だ。またドラッグストアも一つの業態であるし、一番お馴染みのコンビニエンスストアも当然その一つの業態である。どの業態もお客様の利便性を図るため、様々な商品の組み合わせを考えて「業態」を作り出し、商業者は地域の人々の暮らしの利便性を図り、社会発展の為にいつも新しい試みを行なっている。ドラッグストアもコンビニエンスストアも誰でも知っている確立された業態となり、その利便性は理解され地域の暮らしの一部となって来た。どちらもこの20年程は安定した商売を続けて来られたもののコンビニの市場飽和が語られるようになると、それを乗り越える新しい試みが始まった。例えば 3年程前にローソンは調剤のクォール薬局と組んだ店舗展開をはじめたが、あくまで隣同士に並んでいるだけの併設店のイメージであった。これには法律的な理由もあり、薬剤師の常駐義務や営業時間の違いなど、店舗一体化を阻む壁を解決できなかったせいか出店を加速することはなかった。デザイナーズ・アイ「新店ウォッチング」の連載を続けるなか、昨年秋頃からコンビニ業界の新しいうねりを強く感じさせる店が現われ始めた。すでに確立されたはずの「業態の維持のための売場や商品の入れ替え」とは明らかに様相のことなる「業態そのものの大きな変化の兆し」が明確になってきたのだ。一番顕著なものは、コンビニエンスストアとドラッグストアの融合である。一例を挙げれば「ファミリーマートと薬のヒグチ」の合体店が挙げられる。昨年、今年と都内の 2店舗を見てみた。最初の店は 2つの業態を何とか合わせた感が否めなかったが、今年観た店は見事にドラッグ売場とコンビニゾーンが融合しつつあった。店内を廻ってみても違和感が少ないのだ。コンビニエンスストアの中にドラッグ売
▲ ファミマ+薬のヒグチ ▼ サンドラッグのコンビニ融合店舗
場が自然に調和していて無理に合わせたという抵抗感がない、まとまりが出来上がっている。ここでは大手コンビニの醸し出す空間アイデンティティが店舗イメージをリードしている。もう一つの例は大手ドラッグストアチェーンが企画し、コンビニの利便性を取り込んだ両業態の融合店である。これも昨年、今年と都内の 2店舗を見てみた。こちらにはコンビニ資本は参加していないので、ドラッグストアチェーンが独自にコンビニ機能をゾーン割りで取り込んでみたという店づくりで、実験の域を出ていない未完成な感じである。幾つかの大手コンビニのアイデンティティ構築と店舗空間デザインを手がけた経験から見ると、ドラッグチェーンはストアデザイン構築が、言い換えれば企業のイメージ戦略が、ストアマネジメントにおける必要不可欠な要素であることに気付いていないようだ。ロープライス販売で薄利な業態であるゆえに、イメージ戦略などには取り合っていられないというのも本音であろう …… 。コンビニと他業態の融合は、小売業という業界の中で日本独自の形で始まったばかりである。社会のニーズ変化が新しい小売業を生みだしていくのだ。今日も「ローソンスーパーに参入 !小型店、都市部に来年度100店」の記事が新聞の一面に踊っている。今後 4〜 5年は、コンビニエンスストア、ドラッグストア、スーパーマーケットなど日常を支える流通業界そのものが変化し、再編あるいは業態融合という流れは、ますます激しくなると予測している。その変化が高齢化社会を迎える我々の利便性向上に寄与することを期待しよう。
かつて縄文人の暮らした「岩陰遺跡」。美しい海に面した洞窟で、黒曜石のナイフやヤジリなどが発掘されました。どのように海を渡ったかは不明ですが、信州でも神津島の黒曜石が発見されたことなどから、伊豆諸島をめぐる古代の海の道があったと推測されています。入江の中では波に揉まれた石が丸くなっていました。岡田の町で見た力比べの石や石垣には、こうした石を利用したのでしょうか?
新連載
神々のデザイン
写真と文 石井利雄(旭川在住)
雪 華
* * * * * *
朝、居間から鎮守の杜を見てハッと息を呑んだ。
風が止み静かに舞い降りた雪は、杜を日本画の
世界へと変身させた。
車で走ることに馴れ、歩くことを忘れ、佇むこ
とを忘れて、見つめることをしていない。
元町長の経営する「雑魚や紀洋丸」は地魚の美味しい店です。島唐辛子に漬けたべっこう(刺し身)やアシタバの胡麻あえ、魚のテンプラ(さつま揚げ)など地元料理を楽しめます。アシタバは名前の通り、島のいたるところにあって摘んでも摘んでも生えくるありがたい植物です。
明治 30年頃から純ホルスタイン牛を導入した大島は、高級バターとして愛された「大島バター」やチーズを生産する酪農の島でした。バターは今も手作りされ、幻の逸品として一流パティシエにも注目されています。大島牛乳の工場に隣接したぷらっとハウス(農産物直売所)では、作りたてのアイスクリームや地元の野菜・食材が手に入ります。富士山を望む贅沢な牧場を眺めながら、大島塩アイスを頂きました。伊豆大島郷土資料館では平安〜鎌倉時代の銅鏡や岩陰遺跡の石器などを見られます。高橋敏生さんが島の歴史を案内してくれました。耕作地の少ない大島では海塩を年貢としておさめていましたが、元禄時代から近代まで薪や椿の木炭が重要な産品となり、薪や炭を頭に載せたあんこさんの姿も記録されています。
頭に載せて運ぶことをササグといい、頭巾を輪にして物を載せたそうです。米一俵(約 60kg)をササグと一人前といわれ、長い髪を未婚者は「サイソク髷」、既婚者は「インボンジリ」に巻きました。資料館に隣接する家屋は150年ほど前の一般的な民家で、構造に大島の黒松を使っています。天井の梁に曲がった材を使い船底のように湾曲させるのが大島の特徴で、全体に骨太で台風にも強そうです。母屋をオーヤ、座敷をアラト、土間をジェド、軒下をヌヒバと呼び、便所や馬小屋は別棟にあります。
島の南部、波浮港に近い椿のトンネル。頭上をおおう椿に大島に宿る力を感じました。島の名物である椿まつりは、1986年11月に三原山が噴火して全島避難をした翌年 1月にも、中止することなく行われました。
土石流(大量の木々を含む)は濁流のように斜面をくだり、1〜 2mの高低差によって被害に大きな差がでたようです。
元町の市街地を上がり、ホテル椿園に行ってみました。コラージ 2010年 9月号の取材時にお世話になったホテルです。以前は鬱蒼とした木々に囲まれていた場所も、いまは三原山の外輪山がはっきりと見え、広範囲にわたる崩壊のあとが分かります。
1階を埋めた土砂を数百人のボランティアによって搬出した椿園。宿泊客には奇跡的に被害はなかったものの、再開のめどはたたないようです。近くの砂防ダムでは、土砂を取り除く作業を続けていました。大島各所の砂防ダムが機能して、土石流被害はだいぶ抑えられたともいわれます。
三原山を望む「大島温泉ホテル」の駐車場では、約 500年分の断層を見られます。噴火によって形成された大島の地層は、水はけのいい火山灰層や、透水性の低い細かな灰の層などが重なっていて、今回の土石流は大量の雨により表層の火山灰層が30cm〜 1mの深さですべったと推察されています。被災直後に土木学会・地盤工学会・日本応用地質学会・日本地すべり学会を中心とした調査団が派遣され、表層すべり型斜面崩壊を引き起こしたメカニズムの解明や、今後の防災対策が練られています。
島の南西部には、都道の拡張工事により露出した 2万年分の地層を見られる「地層大切断面」があります。巨大バームクーヘンとも呼ばれる地層の横を、土砂を積んだダンプカーが続々と通って行きました。
「東京 世界一」?
BC工房 主人 鈴木 惠三
どんなテーブルも、
作っちゃいます。
「人生はテーブルだ」
きらきら情熱 で作ってます モノづくりの現場 ぜんぶ見せます 語ります
いっしょに考え
いっしょにデザイン
その場で切ったり削ったり
「作る」をご覧にいれます
27 BCカシュー仕上げは塗り場が生んだオリジナル 春夏秋冬モノづくり日和安心と信頼の テーブルづくり 28
おびんずるさまの森
西谷さんの案内で枯れた沢の道をのぼり、地元で「おびんずるさま」と呼ばれている元町の薬師堂に向かいました。タブなどの木々は雨で流される崖の土を抱きかかえるようにして、縦横に太い根を下ろしています。
太古の自然を感じさせる神秘的な情景。薬師堂には 1552年の三原山大噴火の際、鎮静祈願のために下田から来島した修行僧が般若心経1万巻を読んで法華経を写経したことを記す木札の他、平安時代に彫られた沢山の仏像が納められていました(現在は大島郷土資料館で展示)。
地元では特に眼病を癒やすといわれる堂内の「おびんずるさま」。釈迦の弟子ビンドラ・バラダージャに由来する十六羅漢のひとりで、なでた個所の病を癒やすといわれ、全身を赤く塗っているのが特徴です。
お堂の前で木々を見上げると、大島と似た形の空が浮かんでいました。上は伊能忠敬の弟子たちによる大島の地図(1816年頃)。元町が新島村と呼ばれていたことや、沿岸部に多くの沢があったことも分かります。
コラージサポーターのご協力により、ショップやショールームなどで皆さ
まから募金して頂いた義援金全額を、窓口である東京都大島町役場福
祉けんこう課の谷口課長にお渡ししました。大島にとって観光は古くか
らの主産業であり、来島してもらうことが復興の原動力となるといいます。
旧北の山小学校校庭に完成し、入居のはじまった仮設住宅。スロープ付きのバリヤフリータイプなど 46戸に90人ほどの方々が暮らす予定です。
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性をその先端で象徴する人物だからだ。父親はドイツ系移民の子孫で、名門イエール大学をトップクラスの成績で卒業後、第二次世界大戦中のため兵役に。激烈な沖縄戦線で片足を失って帰還。エコノミストとしての仕事に就くものの、戦場で受けた体と心の傷の後遺症から立ち直ることが出来ずに、アルコール依存となり、 年に自殺。母親はイタリア系移民の子孫で、これまた頭脳明晰。 1938年に女子の名門スミス大を卒業後、雑誌で有名なタイム社に入社。大戦中は、敵国イタリア向け反ファシストのラジオ放送の仕事に従事し、戦後は、ポラロイド社の広報担当に。 年母親 歳のとき、この二人の間の三番目の子供として、未来の市長が誕生するも、 年に離婚。新市長は、その後の子供時代を母方の実家で育っている。長じて、ニューヨーク大学で学部、コロンビア大学で修士を修了。若い頃から政治活動に熱心で、今は昔の共和党レーガン政権時代、反米のニカラグア革命軍サンディニスタを密かに支援する組織で活動するという過激派だった。やがて民主党クリントン政権時代に党のボランティア活て重要な利点であること、言うまでもない。面白そうな人なので、このビッグな新市長について少し調べてみたら、これが驚くべき異色の人だった。限られた選択肢の中から渋々新都知事を選ばざるを得なかった我々は、ニューヨークの新首長がどのような人物であるのか、知っておいて損はない。というのもこの新市長は、彼個人の家族の成り立ちを含めて、多人種&多文化混合国家アメリカがこれから進んでいくであろう、ひとつの大きな方向チビの私は背の高さを話題にした新聞や雑誌の記事にはすぐに目が行く。今回はスパイスの話を書こうと思って準備完了、ちょっとひと呼吸のつもりでニューヨーク・タイムズの記事を見た。そしたら、昨年十一月 %を超える高い得票率で N YCの市長選に圧勝したビル・デ・ブラジオ新市長の「巨人ぶり」を面白おかしく紹介する記事に目が止まっ
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た。この新市長、身長 197㎝強という巨漢なのだ。歴代市長の中でも一番で、前市長ブルームバーグ氏よりも ㎝も大きい。その記事で嬉しかったのは、私よりも「ずっと小さい」 150㎝代の市長が過去にふたりも存在したということ。チビでもニューヨーク市長になれるんだぞ !これに対して巨人デ・ブラジオ氏、演説するときに演壇とマイクの位置の調整に苦労する、列車の座席が窮屈、デカすぎて時に間抜けに見える等々、チビには想像もできない「デカの悩み」がいろいろあるらしい。とはいっても、アメリカの政治家にとって、背が高いということは極め
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新時代を予見させる、ブラジオ NY市長ファミリー。
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移り住む。この町は圧倒的な白人社会で、彼女は学校で様々な人種差別と闘いながら少女時代を成長していく。その過程で、心の鬱憤をぶつける世界として彼女が選んだのが、詩作という言葉の世界だった。こうして内に闘志を秘めて勉学に励んだ結果、 年リベラル・アーツ系では全米一と評価の高い難関ウェルズレー・カレッジに見事合格。ここで黒人のレズビアンで構成される女性解放運動に参加し、詩作を通じて同性愛の世界の認知を社会に訴えていくことになる。卒業後ニューヨークに移り、著名婦人誌の仕事をする一方で、 年黒人女性誌上で、当時としては衝撃的な「私はレズビアン」という告白エッセイを発表している。その文才により 年、 N Y初の黒人市長ディンキンズ氏の演説を草稿するスピーチライターに就任。市政の中枢で働き始めることで、デ・ブラジオ氏と出会う。二人は一気に燃え上がり、なんと彼女はレズビアンから転向して 年に氏と結婚、一男一女をもうけている。当然のことながら二人は、米国社会の少数民族の差別抑圧に反対し、同性愛の認知を訴える同志である。まさに大きく変貌するアメリカ社会を先端的に象徴する新時代のカップルといえる。この N Y市長夫妻と、背後に控えるヒラリー夫妻の言行からは、当分目が離せない。それにしても、東京と NYC、市民の政治意識の違いは大きい。
家族を全面におしだして、厳しい選挙戦を戦った。
クリントン元大統領の前で宣誓するブラジオ新市長。
動に参加し、ニューヨーク周辺の貧困層向けの住宅問題担当の責任者を務めるに至った
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後、 N Y市会議員に当選し、特に貧困層の福祉問題に強い民主党左派の議員として活躍
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する。その後、社会的弱者たる少数派移民の窮状を救う独立公共機関の長、という重要な役職に立候補して当選。 N Y市長職への登竜門ともいわれるこの役職を経て、作年 月の市長選で圧勝する。注目すべきは今年の元旦行われた市長就任式だ。 N Yを拠点とするクリントン元大統領が司会進行役を務め、その脇に控えたヒラリー共々、新市長との極めて緊密な関係をアッピール。そこでの元大統領と新市長の演説がとても興味深いものだった。共に「拡大する一方の貧富の格差是正」と「多人種&多文化の共生」を強く訴える内容で、次期大統領選立候補を噂されるヒラリーの基本戦略を予感させる響きがあった。と、ここまでは、実は、話の前置き。驚くべきは、ここから先の話だ。デ・ブラジオ氏は 年 歳で結婚する。お相手は、 3歳年下で、マサチューセッツ出身のクリスティン・マックレーさん。両親は共に黒人で、父親は軍の基地で装備品倉庫の保管係。母親は電子部品組立工場に勤めるバルバドス系移民で、その先祖はアフリカのガーナからの奴隷だという。クリスティンさんが
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歳のとき、一家は同じ州内のロングメドウという町に
御神火の山へ大島温泉ホテルにて、朝日に照らされる三原山。カルデラには一面の樹海が広がっています。三原山噴火の火は、御神火とも呼ばれます。
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火口は今も水蒸気をあげています。
新火口展望台で、西谷さんが噴火の歴史を教えてくれました。標高およそ1000mあった大島は1300〜1500年前に起きた数回の大噴火により、山頂から下 300mが吹き飛ばされ外輪山に囲まれたカルデラ地形ができました。14世紀(1338?)の噴火では山腹から出た大量の溶岩が、町役場のある元町一帯を埋め尽くし平地を作っています。薬師堂の木札に記された1552年の噴火では、カルデラの北東から溶岩流があふれ出し泉津から大島公園にかけての地域に広がりました。そして1777年、安政の噴火によってカルデラの中央に小さな山ができ、それが今の三原山となったのです。長年に渡った降灰は、農作物や家畜に大被害をもたらしたようです。
1986年の噴火で流れでた溶岩のあとが、今もはっきりと残っています。休憩所ではジオパーク展を開催していました。
天候に恵まれ、三原山頂口から遊歩道を散策しました。以前はラクダや馬車で観光客を案内するコースもあり、遊覧馬車の復活も試みられています(遊歩道には一般車両は入れません)。
オオバヤシャブシ(上)やヘクソカズラ(左下)、ススキ(下)など、様々な植物が溶岩を覆っていきます。
「サクラッカブ」と呼ばれるオオシマザクラ。樹齢 800年ともいわれる巨大な株が台風などで分断され、それぞれの枝から根を下ろし生き続けているそうです。1552年大噴火の溶岩流上に立っています。
名勝「筆島」に近い、カキハラ磯のボムサッグ。波の浸食による天然の造形物は、テーブルや椅子にも見えます。奥の海岸には筆島が立っています。江戸時代、キリシタン禁令の罪にふれて大島に流されたオタア・ジュリアにちなんだオタイネ浦。十字架の脇には土砂で埋まった砂防ダムも見えます。オタイネ浦に見られる赤い岩肌は、数十万年以上前の古火山の中心部が波により削られたもので、海岸から150mほどの海上には、古来から神の宿る場所として崇められてきた「筆島」があります。
[ pm 5:45 山石 ]
夏姫を一目見た瞬間、カイトの顔が凍り付いた。「夏姫 ……」カイト?どうしたの? 夏姫は血だらけの顔を傾げて微笑んだ。眉の上から目を通し顎の下まで幾筋も皮膚が裂けて垂れていた。自らの爪でかきむしった痕だった。「カイト?」山石から立ち上がる。右肩右手を引いたまま左手を振りながらゆっくりと近づいてくる。カイトは口の奥でくぐもった悲鳴を上げた。後退る。「カイト?」15歳。少年の恐怖は当然だった。「どうしちまったんだよ夏姫」ようやくそれだけを言った。「話をね聞いて欲しいの。でね、左の道を」手を伸ばす夏姫。絶望の中の一筋の光へ、たった一つの希望へ、疑いのない赤子のように、ただ純粋に。しかし …… 本能的にその手を払うカイト。「あ …… 」火に触れたように手を引っ込める夏姫。その手を見つめる夏姫。口の中でブツブツと何かを唱えた。一秒、二秒。山が一気に昏くなった。三秒、四秒。トンビが2人の遥か遥か頭上でクルリと輪を描いた。 キャー!!!
それでも地球は回ってる
♯25 悪夢の前夜プロローグの終わり
野田 豪(AREA)
夏姫のものすごく高い声が山間に響いた。絶望の悲鳴に山中の動物たちがその身体を震わせた。カイトは尻餅をついた。薮に飛び込む夏姫。狂ったように山を転がり落ちた。
樫の木の影からカレンは口を手で覆い、その様子を見ていた。遠目すぎてよく分からなかったが。ひどく不吉で取り返しのつかないことが起こったことは本能的に感じ取っていた。
[ pm 6:00犬神堂 ]
横倒しに昏倒する荒川、木村を避けて、クロに近づく轟。「お前の悪に理由なんてない、そうだろ?」無造作に銃弾を打ち込む。右膝、左膝。的確な射撃だった。「お前みたいのはアメリカ本国でもなかなか見ない」目の前にしゃがみ込んだ。クロはギラギラとした目でただ轟を見つめている。「絶対的な悪だ」凪がゆっくりとクロと轟の間に立った。向けられた銃口に構わずクロの脇に手を入れた。担ぎ上げる。轟は2人の背中を見つめながら、マルボロに火をつけた。「お嬢ちゃん ……行かせるわけにはいかないんだわ」前を向き、クロに肩を貸したまま、凪が叫んだ。「何が悪で正義かなんて、そんなものは私たちが決める」その時、初
めてクロが口を開いた。顔を少しだけ後方の轟に向けた。その声を風が流した。見る見るうちに顔を蒼白にする轟。やがて眠そうな目に戻り、へっっ、轟はマルボロを横咥えのまま口の端で笑った。一度、二度。そして少し間を置いて三度目の銃声が虚空に響いた。
「15年前の 8月 15日。夏姫は自宅のベッドで死んでいる所を母
親に発見される。死因は薬物の過剰摂取。自殺とされた。私た
ちもそう聞いたわ。でも違った。あの手紙でそれが分かった」成
田発ホノルル行きの機内。通りかかった CAにバーボンを三本
頼んだ。小瓶のキャップを開け、プラスチックのコップに注いだ。
・・
一息に飲み干す。「犬神堂の荒川と木村の死体は地元ヤクザと警
官の小競り合いで片がついた。本家と察庁の裏取引ね ……私に
もちょうだい?」ブロンドのハーフが手を伸ばした。髪を短く刈り
込んだ大柄の青年が小瓶を手渡す。「轟 … リオは日本から姿を
消した。ロックマンも」機内アナウンスが機体の到着を知らせた。
周りの乗客が席を立ち始める。「そして ……クロと凪もその日か
ら行方不明」男は最後の一本を直接口に咥えた。顔を上に向け
て飲み干す。無精髭の顔から精悍で太い笑みが漏れた。「行くぜ、
カレン」細かい話はもうどうだっていい。あの日以来、ずっと俺たちの心に張り付いて離れなかった悪夢の元を取り除きに行くだけだろ?空港を出る。分厚い南国の大気が身体を叩いた。南国の抜けるような青空を仰いだ。夏姫、お前はこんな形を望まないだろう。でもな、俺たちはこれを断ち切らなきゃ前に進めないんだよ。大股で歩き始める。まずは手紙の主、ナツを探すところからだ。「カイト?」「ああ、聞いてる」「これで良かったんだよね?」カイトは振り返った。立ち止まったカレンが笑顔で見つめている。15歳のあの頃と変わらない、無邪気で一途な笑顔。「これは運命だ、キャズ」キャサリン花蓮は顎を少し上げてから、満足そうに頷いた。
美貌のニケが耳打ちをした。「Awesome ……。奴らの巣を見つけました」褐色の男が小さく頷く。カーテンを開いた。ホノルルのまばゆい日差しが部屋中に溢れる。「幕が上がるか … 第二幕の 」アリゾナからこの街に来たばかりのニケが首を傾げた。「どこの言葉です?」ビル最上階のペントハウス。眼下に人が小さく蠢いている。「日本語だ 」忘れないものだな。苦いものを思い出したように顔をしかめた。ダークグレーのスーツ。フラワーのバッジ。ロックマンはノキアを取り出し各所に細かい指示を始
めた。
日本で唯一「砂漠」の付いた地名をもつ、三原山東部の裏砂漠へ向かいました。山道入口への道路にある大きな段差は、1986年噴火の際に出来た、割れ目噴火の前兆だそうです。
まるで月面のような景色に、不思議な豊かさを感じます。台風で出来た溝は、だんだんと平らになっていくそうです。もく星号の遭難地(1952年の旅客機墜落事故)を通り、三原山を望むカルデラ上のポイントにつきました。遠くには富士山も見えます。
ジオパーク認定を機に、地元の若者や子ども達にも火山や災害の知識を伝えたいと西谷さん。日頃から自然を観察し楽しむことは、いざという時の備えや正しい判断につながると感じました。それは大島だけでなく、どの地域にも共通したことではないでしょうか。
素敵な人たち 13吉田龍太郎(TIME&STYLE)
Hasegawa Sigeru (長谷川繁 画家)
記録的な積雪のあった週末の午後、雪の重みによって無惨に両手をもぎ取られた木々がうなだれる公園を通り抜け、散乱する枝々の無念にやるせなさを感じながら近所のジャズ喫茶 Fat Mamaに来て文章を書いている。オーネットコールマンを聴きながら、エチオピア・モカとサンドイッチを注文する。このジャズ喫茶は60〜70年代の由緒正しいジャズ喫茶の匂いを今も懐かしく漂わせている良店、ジャズとコーヒー、この空間は僕の悲しい気持ちに少しずつ暖かさと落ち着きを取り戻してくれる。荒涼とした置き場の無い心を音楽とコーヒーと空間に同調してゆきながら緩やかで澄み切った感覚を取り戻してゆくことができる時間と場所。空間には2台のターンテーブル、壁面はジャズレコードで一杯となり、奥には大きなJBLが深みと奥行のあるジャズを奏でる。白髪に白シャツに黒のベストにネクタイ姿の初老のオーナーがカウンター上のネルドリップで静かにゆっくりとコーヒーを落としながら、お揃いの黒ベストを着た奥様がホールに目を配りながらカウンターで洗い物を静かにしている。ホールでは二人のジャズ好きな若者が黒ベストで背筋を伸ばし、静かに丁寧にオーダーを取っている。その若者の一人は今日始めての仕事だったのだろう、彼がテーブルに運んできたコーヒーカップはカタカタ、カタカタと彼の手の上で小刻みだが大きく震えて揺れながら、何とか僕の前のテーブルに無事着地した。こっちの方がドキドキしたが、何だかその彼の丁寧で純真な姿が微笑ましくて可笑しくて笑い出しそうになるのを堪えるのに苦労した。良いお店にはやはりそこに主人の人柄が写し出されている。その人の喜びや色んな経験が、まさに人そのものが凝縮してちりばめられているようだ。僕がテーブル席で文章を書いていると、白髪のオーナーから「奥の大きなテーブルに移動されますか、ご遠慮なさらないでくださいね」と声を掛けていただいた。ここにはオーディオ機器以外に高価な調度品は見当たらない。しかしお店の隅々まで全てに愛が込められていて、決して特別なものでは無いけれどきれいに整えられていて気持ちが良い、訪れる人々はそのお店の人たちの愛情に包まれるのだ。人生を動かす力を芸術は持っている。これは僕自身が身を持って経験してきた事実であり、その芸術から人生を動かされた一人でもある。FatMamaでジャズを聴きながら、これまで心を突き動かしてきたものが何だったのか、生業の根本にあるものは何なのかを考えてみた。複雑で有機的な人間の生業に対して単純に何が根本にあるかなどと言うことを、言葉にすることなどできるはずは無いだろうが、芸術に影響を受けたものにとっては人生を司る重要なファクターであることは間違い無い。その大きな影響はドイツ時代に出会った一人の日本人アーティスト、長谷川繁の存在。今から25年も前のことになるが、同じ年齢の長谷川とは20代半ばにベルリンの駅で偶然に出会った。その長谷川との出会いが無けれ