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昨年に引き続きドイツ・フランクフルト国際見本市会場で開催された国際消費財見本市「Ambiente 」(2014年2月7日〜11日)を取材しました。初日の朝、会場に直結したMesse駅は来場者であふれかえります。今年は世界 89カ国 /地域から4,724社が出展し、161カ国 /地域から約144,000名が訪れました。国連加盟国193カ国のうち8割以上の国々の皆さんが集うなか、パートナーカントリーとしてフィーチャーされた日本からも100社以上の出展があり、デザイナー橋本夕紀夫さんによる特別展示など、日本関連の様々なイベントが開かれました(下はオープニングセレモニーの様子)。
オープニングセレモニーでは、メッセフランクフルト代表のDetlef Braunさんをはじめ、フランク
フルト市議のMarkus Frankさん、ドイツ連邦経済エネルギー省のUwe Beckmeyerさん、経
済産業大臣政務官(参議院議員)の礒.仁彦さんなどによるウェルカムスピーチが行われました。
800年を超える見本市の歴史をもつフランクフルトは横浜のパートナー都市であり、100社を超える日本企業が進出し昔から活発な経済交流を行っていたこと、震災から立ち上がる日本の文化(伝統工芸やポップカルチャー)に期待していること、ヨーロッパ経済は復調の途上にありドイツ
でそれを支えているのは Ambienteにも多数出展してる中小企業であること、などが語られました。オープニングセレモニーのあとスピーチされた皆さんと共に、会場を巡るツアーが行われました。まず訪れたのは、橋本夕紀夫さんデザインの特別展示「Super Ennichi(スーパーエンニチ)」。日本製品の展示に加え、ワークショップや実演なども開かれ大いに賑わいました。
三条商工会議所の協力により、刀身に焼刃土(やきばつち)を塗る「土置き」が実演されていました。この作業の後に焼入れを行うことで、日本刀の波紋や反りが生まれるそうです。日本でもめったに見られない日本刀の制作風景を、来場者も食い入るように見つめていました。他に銅器の制作や磁器の印判絵付け、清水焼の絵付けなども実演されました。展示品の実物にも触れられ、日本を体感できる場となりました。
一行が向かったのはドイツを代表する陶磁器メーカー「ローゼンタール」。Big Citiesシリーズや VERSACEシリーズを展示していました。
イギリスの老舗「ロイヤルドルトン」は、ストリート系アーティストPure EvilさんとNick Walkerさんによる新作「STREET ART」シリーズを出展。ドイツのベーキング調理用品メーカー「Kaiser」社は流行のカップケーキを押し出し、アメリカン 50 'sを思わせるポップなシリーズを発表。
仕事で毎年かなりの期間をロンドンで過ごすようになって、既に四半
世紀が経過した。滞在場所は、かつてはアメリカ大使館のあるメイフェア地区。ここ十五年ほどは、ハイドパーク西側のケンジントン。この地域は近年とりわけグルメ度が上昇している。日常の食材なら食品スーパー「ウェイトローズ」(WR)グロスターロード店。オーガニックなら「ホールフーズ」のケンジントン・ハイストリート店。パンならパリの「ポール」の支店、お惣菜なら「オットレンギ」の小さな店など、地域の専門店をあれこれ訪ね、曜日によっては、ファーマーズ・マーケットという産直の楽しみもある。また、少し足をのばして高級デパート「ハロッズ」や「セルフリッジズ」の食品売り場にもよく行く。率直に言って、東京都心よりもロンドン中心部の方が、はるかに上質で多様な食材を安価に購入できる環境が整っている。食文化ヒストリアンという立場から見る
ならば、両都市の落差は今、泣きたくなるくらい、大きい。 ここで忘れてはならないのは、ロンドンは決して、パリやボローニャのような、昔からのグルメ都市ではないという点だ。初めて長期滞在した1970年代半ば、ロンドンの食事情は誠にお粗末だった。ドーバー海峡を渡って列車でパリに入った時、そのあまりの差にパリが天国に思えたほどだ。あれから四十年。しばらく前からロンドンは、パリに優るとも劣らない本物のグルメ都市となっている。ここで「グルメ」とは、 ★印レストランが多く
ある、なんてことじゃない。それよりももっとずっと大切な事、それは「一般市民が日常の暮らしの中で、どのような水準の食材を購入できる環境にあるのか」という点だ。より具体的に言えば、食品スーパーを筆頭に、各種食品専門店や惣菜店の棚にこそ、その都市のグルメ度数は真の姿を現す。 レストランからスーパーの棚の食材に至るまで、まさに「おいしくないものの大行列」だったロンドンが、目に見えて変化し始めたのは1980年代初頭のことで、その後の変わり様が凄かった。ではなぜ、突然、食の環境は激変し始めたのか? 複合的な要因が挙げられる。まず第一には、 EU域内のモノとカネと人の移動の自由化が、この時期を境に大きく進展し始めたこと。これが最大の要因だ。それまでは「遠来の高級品」というイメージだったフランスやイタリアの食材やシェフたちが、ごく当たり前のものとしてロンドンに登場し始める。次いで、庶民をも巻き込む形で進行していった、 TVや雑誌新聞メディア主導の「グルメブーム」。そして何より、そのブームを支えた好景気。1990年代初頭から2008年のリーマン・ショックまでの間、ロンドンのレス
リーマン・ショック後も成長を続ける WR。
その変化と結果には充分に納得がいく。 1980〜90年代半ばまで、 M&Sはロンドンのミドルクラスの間で最も人気のある食品スーパー(本来は衣料系)だった。この四半世紀に英国で起きたグルメ化前半期のスター企業だったのだ。その売り場に「ブレ」が出始めたのは1990年代末。以後売り場全体が、徐々に時代のトレンドからズレ始めていく。経営中枢の基本方針のブレが原因だと思われる。その正反対の流れに乗ったのが WRだ。90年代初頭から、当時としては新しい食のトレンドであったオーガニックに一定の売り場を割き、その存在を訴えることで企業姿勢を鮮明にする。ワインについては、伝統的な仏&伊重視をやめて、カリフォルニア・豪州・南ア・南米など「新世界中心」へと大きく舵を切る。広く欧州全域のビールを用意する。ハム・サラミ・ロースト肉類とチーズの対面販売コーナーを設けて、その量り売りを開始する。パンについては、フランス・イタリア・インド・中東などの要素を広くとり入れて多種類を並べる。また中華・タイ・インドなどのエスニック惣菜の対面販売開始など、挙げていけばキリがない。更に、グローバル化に伴う社会格差拡大を打破するひとつの可能性という点で、この会社の組織形態に新たな注目が集まっている点も見逃せない。
▲ WRの従業員持ち株制度も注目されている。
▲ イギリス流通業界の巨人「マークス&スペンサー」。
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トランとスーパーの食品売り場の水準は、停滞するパリを尻目に、大きく上昇した。この「グルメ志向」は、バブル経済を背景とした一過性のものではなく、本質的な変化だったと断言できる。なぜなら、これに伴って英国の一部農家が送り出す野菜や果物、ハムやチーズやクリーム類の種類が増え、そのおいしさも大きくアップしているからだ。この四半世紀の変化は、流通を含めて農業の変化を伴う本質的な構造変化だったのだ。
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こうした流れの中で、リーマン・ショックを乗り越えて、着実に業績を伸ばし続けている食品スーパーがある。冒頭にあげたウェイトローズ(WR)「ジョン・ルイス」
だ。(JL)
という有名なデパートと同資本系列にあり、従業員持ち株制度の徹底により、会社の真
のオーナーは従業員持株会そのものという資本構成で知られる。英国はビクトリア時
代末期に独自の社会主義思想がいち早く芽吹き、歴史に残る社会思想家を次々と輩出し
ている国だ。この会社は、そうした流れを受け継ぐ数少ない大企業のひとつで、最近大
きな脚光を浴びている。なぜかというと、 WR/JLグループの昨年度の売上総額が約
億ポンドに達し( 年で8割増)、あのマークス&スペンサー( M&S)を僅かに追い抜いたからだ。英国流通業界の一大ニュースだ。両者の食品部門を見ているだけでも、
昨年の3倍近い16社が参加したJAPAN STYLE 。日本の繊細な感性を発信する場となりました。
JAPAN STYLE
JAPAN STYLEのブースは日本の特別展示と同じく、橋本夕紀夫さんのデザインで統一されました。TIME & STYLEは新作 山中塗り (石川県)の漆器を発表。初日からバイヤーからの買い付けがあり、まずまずの出足だったようです。代表の吉田龍太郎さんは「山中塗りの試作品を10年以上使い続けてみて、初めて漆の良さが分かってきました。漆は日本の伝統工芸というけれど、日常で漆器を使うシーンは少なくなっています。まずは自分自身の暮らしに染み込ませないと、販売につながる説得力を得られないと感じました」といいます。
磯.政務官をはじめ日本政府の方たちがJAPAN STYLEを訪れました。「我々は自分たちの力で出展を続け、徐々に手応えを感じています」と吉田さん。山中塗りのシリーズには、あえて漆を塗らない素地のタイプもあります。先日発表した「磬子(けいす)」も、海外に衝撃を与えていたようです。
YOnoBIは、橋本夕紀夫さんデザインの鉄瓶「kabuto」の新柄や、曲げわっぱの技術を応用した新作 LED照明「ぐるり」などを出展。「ヨーロッパの人たちは杉などの木製品を好むことが分かってきました。こちらの嗜好やライフスタイルに合わせるということでなく、日本の技術を使って納得のいくものづくりを続けることが、日本らしさ表現する一番の方法だと思います」と代表の渡邉真典さん。
Ambienteに初出展した「今治浴巾」(丸栄タオル)は、2013年 東京ビッグサイトで開かれた「インテリア ライフスタイル」をきっかけに Ambienteを知り出展を決めたそうです。同社は 2000年初めからオリジナル商品の開発と直売化をすすめ、東京や横浜で直営店を運営しています。エジプト綿 GIZAを使った最高級ブランド「イデア ゾラ プレミアム」やベルギーのデザイナー・クリス・メスタさんとコラボレーションしたデザインシリーズを展示していました。「ヨーロッパはタオルの標準サイズが日本より大きいので、ヨーロッパサイズの製品を開発し出展にのぞみました。こちらの慣習に合せないといけない部分もありますが、日本独自の柔らかくコシのある高級タオルは、どこの国にも認めてくれる人がいます」と代表の村上誠司さん。注染(ちゅうせん)のてぬぐいで知られる「かまわぬ」は海外見本市に初出展。てぬぐいの標準サイズ(約33cm × 90cm)の長さを倍(180cm)にしたスカーフを発表しました。裏表のない日本独自の染め技法である注染を広く世界に知ってもらいたいと、ヨーロッパのライフスタイルにもフィットするスカーフを開発したそうです。イメージビデオを制作して、染工場の様子やスカーフの身につけ方を提案していました。
産業用紙バンドメーカー・植田産業のクラフト向け高品質紙バンド「Papies」は、バッグなどハンドクラフトの素材として国内で定着しています。昨年のインテリアライフスタイル(東京ビッグサイト)では、橋本夕紀夫さんデザインによる JAPAN STYLEのアトリウム展示(左)にも採用されました。フランスでは「Papies」を使ったハンドクラフトの本も出版されていて、海外への販路拡大のため Ambienteに出展したそうです。特別展示のワークショップでも、紙バンドの楽しさを伝えていました。
BC工房 主人 鈴木惠三
ふじのの 三太 たち
初日の夜、数千人のゲストを招いた「Ambiente GALA」。その昔、王族や諸侯の集った大宴会を思わせます。昨年のフランスに続き、今年はパートナーカントリーとなった日本がテーマとなりました。主催者陣や来賓も舞台の上でハッピに着替え、まずは鏡開きです。
ヨーロッパから見た日本はどんな姿なのか?興味津々で参加しました。舞台に登場したのはヨーロッパのコスプレイヤーたち。コンテストの受賞者も多く、メイドやアリス、RPGのヒーローなどなかなかマニアックでした。ただし本物の金髪だったり、青い目だったりするので、萌え感は ……。料理にはヤキトリやカラアゲ、ヤキソバなどが供され、ロンドンからやって来た太鼓の演奏も大迫力でした。
Raveは深夜までつづきます。
デザイナーとメーカーのコラボレーションによって日本の創造性を伝える「Japan Creative」は、ミラノサローネ、メゾン・エ・オブジェに続く3回目の海外出展でした。左上は川上元美さんと昭和飛行機工業による、アルミハニカムをガラスでサンドイッチした家具。美しい接着面にハイテクと工芸の融合を感じました。世界の目に問うことで様々な価値観を吸収し、さらなる開発をすすめたいそうです。
ポーリーン・デルトゥアさん(フランス)と柴舟小出(金沢)による和菓子は、材料や製造方法にも新しい試みを採り入れたそうです。コラージ 2013年 9月号で紹介した及源鋳造(水沢)とジャスパー・モリソンさん(イギリス)による南部鉄器「Palma」(右上)は、いよいよ販売が始まるようです。右下はセシリエ・マンツさん(デンマーク)と岩手の織物作家 舞良雅子さんによるホームスパン。
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r
2それでも地球は回ってる
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第二部「ジーノ編」 奇跡のマティーニ野田豪(AREA)
ホノルル a m 11 :00。明るい色のスーツをタイトに着た青年が、ストリートで泣いている少女に語りかけた。「どうしたの?」少女は男を見上げ、またすぐに泣きじゃくる。母親が困ったように肩をすくめた。「お気に入りの人形を忘れて来ちゃったのよね。大丈夫よ。お留守番しててもらおうね?」諭すように言った。「そのお人形の子はなんて名前なの?」青年が聞いた。「マーガレット」「ああ、マーガレットね、大丈夫だと思うな、彼女なら」しゃがみ込んで、少女の目を見つめてニッコリと笑いかけた。携帯を取り出して電話をかけるふりをする。「あ、マーガレット?一人ぼっちだけど大丈夫?うんうん、わかった。伝えとくね」
!
大げさに電話を切るふりをした。「本を読んでお留守番してるってさ」「うん。ホント」
「本当?」「ウソじゃない?」青年はジッと彼女の目を見つめている。「ホントだよ」女の子はパチパチとまばたきをすると、急にニッコリと笑った。「そっか」服をパタパタと叩いて立ち上がった。
「ママ、マーガレットお留守番してるって」「そ、そう。良かったわ」「うん 」母親が不思
議そうな顔を青年に向けた。青年は女の子にバイバイをしている。「ありがとうございます。
ミスター……」「ジーノ。ジーノ・ホワイト」青年はそう告げてクルリと背を向けた。
ジーノ・ホワイトはミラノの郊外で生まれた。幼少のころより、豊かな家庭に育ち、充分す
ぎる教育を受けたジーノは、それに見合う以上の成績を納め、ミラノ大学に進んだ。しかし、
歳の春の日、彼はそれまでの豊かで幸福な生活を一変させるほどの不幸に見舞われる。故
郷を追われたジーノが行き着いたのが、永遠の夏島ホノルルだった。リゾート地の片隅に自
分の工房を持ち、家具を作っては、ごく近しい者に販売して生活しているが……。
「裏の顔は故買屋だろ、凄腕って聞いたぜ?」 Ala wai park の裏手の雑居ビルの地下にある
B
[リロイ ] 。世界一うまい、奇跡マティーニを出すと有名な店で、世界中からカクテ
ルファンが集まってくる。「あんたがここにいるっていうから来たんだよ、俺の仕事をして
くれよ」テーブルに座ったローライフ風の男ががなり声をあげた。不釣り合いな若い女を連
れていた。毛並みのいいブラウンショートヘアだ。カウンターに座ったジーノにバーテンダ
ーのリロイが小声で言った。「相手にしないで」「どうしたんだい?あんなの入れる店だっ
たっけ?」リロイは大柄な筋肉質を縮めながら、悲しそうな顔をした。「ここのビルのオー
ナーなんだよ、来月には取り壊すんだってさ」「移転かい?」「いや、もう疲れちまってな、
やめようかって思ってる」「……まさか」
リロイのビルは彼のグランパの時代から続いた老舗だ。ビル自体も彼の所有だったはずだが、最近ホノルルマフィアにちょっかいを出されていると聞いていた。ホノルルの黒組織は無数にあるが、ビック・ブラックマーケットは二つ、笑う星 [ Laughing Hoku ]と、見えざる武器 [ Invisible Weapon ]だ。リロイのビルに手を出しているのは、「見えざる武器」の若いボスだったはずだ。 組織を大きくしているらしい。若いカリスマ
15
年前にこつ然と姿を現し、父親を押し退け、笑う星を圧倒し、俄然
……
名前は何と言ったか。
「よお、聞いてんのかよ」 [ローライフ ]が近づいて来て臭い息を吐きかけた。ジーノは肩に置いたその手を払った。「てめえ、俺の店でいきがってんじゃねーぞ」「俺の店?」ジーノはリロイの方を振り向いた。「旦那、そんな話は止しましょうよ、お客さんの前で ……そんな生臭い話は」「けっ、お得意のマティーニが作れないんじゃ、店をたたむのも時間の問題だろ」話が見えてきた。この男は仕事でここに来ているのだ。賃貸契約の早期解約を狙った嫌がらせ。簡単な話だ。店に陣取り、来る客来る客にとぐろを巻けばいい。原始的だが店を潰すには効果的な手だ。「どういうことだい、リロイ。マンハッタンが作れないって?」「ベルモットが ……急に手に入らなくなってな」「いつも言ってたご自慢のベルモットだね」「あ、ああ。アクィラ社のベルモットだ。あれがないと爺ちゃんの味は出せないんだよ」ジーノは [ローライフ ]に向き直った。「君たちかい?」「何だって?」「ルートを切ったんだろ?」「つべこべ言ってんじゃねぇ。お前には別の用があるって言ったろうが」「お断りします」柔らかい吐息とともにジーノは答えた。カウンタースツールから立ち上がる。背は決して低くないが、さほど高くもない。身体は細いが完璧なまでに均整の取れたシルエットだった。「なんだと?」[ローライフ ]は、頭一つ小さいこの男に気圧されていた。後退りする。「ウェポンやホクの仕事は受けるな。死んだ母親の遺言なんです」「てめえ ……」スーツの内側に手を入れた。
「アンタの店じゃないわ、スミス !」やにわに女の声が飛んできた。[ローライフ ]の身体が硬直した。ずっと座ってやり取りを眺めていた [ローライフ ]の連れの女が立ち上がっていた。薄い褐色の肌がアビシニアンを連想させた。「ここはパパの店よ。あなたが威張らないで」胸の前で両腕を組む。と思ったらいきなり駆け寄ってきた。「ね、ジーノさんってカッコいいね」ジーノに近づくと弾むような声で言った。「ブルーアイとブロンドで名前はラテン?まるっきり王子様で笑える」間近でジーノをじっと見上げる。よく見るとまだ相当に若い。せいぜいハイスクールだろう。「私の名前はナツキ。覚えといてね。さ、スミス、行くよ」クルっと背を向けた。「サンクス、お嬢さん」ジーノは彼女の背中に取りあえずそう言って頭を下げた。「今度お店に遊びに行くね、ジーノ」彼女はそう言って出て行った。
塗装場の扇風機をオンにして、すべての窓を開けた。ウォールナットのテーブルと椅子 6脚のウレタン塗装。ジーノは今日のノルマを淡々とこなしていた。小さな平屋の工房は、前面が大きくガラス窓で切られていて、たくさんの光が溢れている。外は南国の緑が柔らかい風に揺れている。陽の溜まる良い場所だった。そこにヒョイっと女の子が顔を覗かせた。デニムパンツにフリルのノースリーブ。「モーニン、ジーノ」屈託なく笑うショートカットの少女。「グッドモーニング、カマリィマヒネ」きょとんとした顔に笑うジーノ「それ、どういう意味?お姫様?」エアスプラッシュガンを置いた。奥に入ってマグカップを二つ持ってきた。「学校は?ナツキ」「今日は午後から」コーヒーを注いでナツキに手渡した。「で?何の用だい?」「別に用事はないわ」「ふうん」「ねージーノ」「何?」ふと見ると、薄く細かい雨が降っていた。天気雨だ。澄んだ光を浴びてキラキラと光っている。「友達になってよ」ナツキの肩の向こう、遠くの空に虹が見えた。「いいよ」「ホント?」「僕の仕事の邪魔をしないのなら」かまわないよと言ってコーヒーを飲んだ。「えーと」キョロキョロとあたりを見回すナツキ。「今はかまわない。休憩だ」「うん。そっか」「だけど、その前に、君がなぜあそこに居たのか教えて」「暇つぶし。パパには内緒。スミスがいいお店に連れて行ってくれるっていうから付いて行っただけ。私を手なずけたいんじゃない?点数稼ぎよ」嘘。ジーノには分かる。「君のパパは……」「ロックマン。有名人」悪い方で。ナツキは小さい声で付
u u u u
け加えた。これは本当。「ねぇ、怖い?」「なんで?」「私の周りのクラスメイト、みんなぎこちないのよ。小さい頃からだから慣れてるけど」「マフィアの娘だから?」「そうね。ジーノは?」「僕が?」「私が怖い?」「別に」ナツキは腰掛けていたデスクから跳ね降りた。「良
st.
かった」じゃね、と言って手を振った。「学校行ってくる」「ああ。いってらっしゃい」健康な体温を残して走り去るナツキ。ジーノはその後ろ姿を見ながら唇に指を当て何事かを考えている。やがて、椅子から立ち上がると、塗装作業を再開した。 ミニッツレインが上がり、気温が上がり始めた。彼女が近づいてきたのには何か裏があるのだろう。嘘と本音のバランスが不自然すぎる。しかしジーノには分かっていた。あの娘は悪人ではない。ジーノの特殊な能力がそう告げていた。
「助けて」ジーノの携帯にメールが入ったのはそれから一ヶ月経ったある日のことだった。工房の持ち主である大家のビッグマムのお茶話に付き合っている最中のことだ (彼女はジーノの垂れ目が大のお気に入りで、居座ると半日は動かない )。ジーノは彼女に丁重にお引き取りいただくと、壁にかけてあった黒いキャノンデールを降ろし、川沿いのアラ・ワイ・ブールバード をダイヤモンドヘッドに向かって走り始めた。グーグルマップの示す場所まで
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来ると廃屋の影にしゃがみ込む彼女を見つけた。「どうした?」ナツキが膝を抱えてブルブル震えている。「東洋人を見なかった?」「いや、見なかったな」「ずっとつけられているの」「どんな顔だい?」「狐みたいな顔の人」「年齢は?」「東洋人の年齢なんてわからないわよっ」叫んだ声音で嘘ではないことを確認する。ジーノはナツキの手を取り立たせてあげると、近くのスターバックスに落ち着かせた。「たぶん日本人だと思う」キャラメルマキアートを両手に囲んでナツキは言った。ホノルル在住の日本人は多い。ハワイの住人はリアルステーツのアメリカ人よりも日本人の生態には詳しい。「そうか。心当たりはあるのかい?」首を振るナツキ。まだ少し震えている。「ナツキ、うまく言えないけど、これは君の父親の範疇じゃないのかい?」予想していた通り、ナツキは大きく首を振った。「嫌。それだけは嫌なの」ギャングスターである父親、ロックマンが一人娘を溺愛している話はちょっと裏社会に詳しいものなら誰でも知っている。そして、その娘が実の父やその仕事をヘイトしていることも。
「しかし、危険を感じているなら父親に ……」「守ってよ。だったらジーノが守ってよ。だ
から近づいたのよ。私、ジーノに」ナツキはそう一気にまくしたてて指を噛みながら泣きじ
ゃくった。そういうことか。ジーノは黙り込んだ。狐顔の日本人につけ狙われている。それ
も今に始まったことではないのだろうし、そうとう際どいこともあったのだろう。そして、
それはこの娘の起因ではおそらく、ない。父親絡みは明白だった。「友達でしょ」しゃくり
あげながら小さい声ですがるナツキ。「友達でしょ?」泣きながら笑おうとして、失敗した顔。
ジーノはゆっくりと目を閉じた。
『ジーノ。本当はね、この世は幸福で出来ているの』『嘘だ。それなら、どうして母さんがこ
んなことに ……』『ねぇ聞いて、ジーノ。だから力になってあげて。』『力って誰の』『私に
は見える。これからいろんな人があなたを頼ってくるわ。その人たちを全員幸せにしてあげ
て』『これからなんてどうでもいいよ。僕は、たった今母さんを救いたいんだ』『私はいいの。
今言ったこと覚えていてね、約束よ』
閉じていた目を開くと、ジーノはナツキの肩を叩いた。「わかった。」え?ナツキもつられて顔を上げる。「できるだけやってみるよ」「ホント?」「ああ。本当だ」「嘘じゃない?」「ああ。その代わり報酬はもらう」「何?あんまりお金ないのよ、私」「エッグスンシングスのパンケーキでどうかな」安心感でヘナヘナになったナツキの向こう。ジーノは遠い故郷の街をじっと見つめていた。ジーノの朗らかな目元が昏く険しいものに一変していた。 ■
ローテンブルク行きのローカル線最新鋭列車は、フランクフルトの列車よりも綺麗でした。なお DBは意外と時間にルーズです。
レーダー門から城内に入ります。門の入り口は、とんがり帽子を載せた衛兵の小屋に挟まれていました。
ローテンブルクの駅から城壁の街の入口までは10分ほど歩きます。城壁外の教会からは、日曜日の祈りが聞こえてきました。今回ローテンブルクを訪れたのは、Ambienteをはじめとする国際見本市のルーツとなったマーケット(市場)の街を見たかったからです。ヨーロッパのなかでも中央集権化が遅れたドイツには、19世紀まで 300を超える大小の独立国があり、なかでも「帝国自由都市」は皇帝の直轄地という名目で領主や司教から独立した地位を保っていました。13世紀に帝国自由都市となったローテンブルクでも、有力市民から選ばれた市参事(ラーツヘル)による自治が行われ、マーケットを中心とした交易や手工業の発展により16世紀まで繁栄しました。狭い窓からは、堀を越えようとする敵を狙い撃ちできます。城塞都市はそれ自体が武器であったことが分かります。
レーダー門を入ると城壁の通路へ上がる階段がありました。街のまわりを一周する城壁は、外敵から街の自治や富を保護するためのもので「市壁」とも呼ばれます。城壁や古い街の一部は第 2次世界大戦の空爆により破壊され、戦後、世界中の寄付によって再建されました。壁には寄贈者のプレートがはめられています。街を囲む城壁の約 20カ所に、見張り台となる尖塔が立っています。中世のドイツでは、乱立する国家間の争いが絶えませんでした。
レーダーアーチをくぐり街の中心部へ。レーダーアーチ(左)はローテンブルクに最初に築かれた城壁のなごりで、街の拡張とともに城壁も伸びていきました。帝国自由都市のシンボルともいえるのが、街の中心にあるマルクト広場と市庁舎(ラートハウス)、市参事宴会場の 3点セットです(上)。広場では定期的にマーケットが開かれ、ドイツ各地から買い付けに訪れた商人や手工業の親方(マイスター)によって、活発な交易が行われました。これは Ambienteなど、プロのバイヤーを対象とした国際見本市のルーツともいえます。市参事宴会場には街の有力者たちが着飾って集まり、豪勢な舞踏会も開かれました。白くそびえる市庁舎の塔(地上 60m)に登ってみました。工事中でしたが、手前側のルネサンス様式の庁舎から中に入り、石造りの有機的な螺旋階段を上がってゆくと暗いホールにたどり着き、そこからまた木製の階段が …… 。まるで RPGです。こちらの木製階段は、白いゴシック様式の庁舎です。息切れしながら進むとゴールには笑顔のおばさんが待っていました(ここで入場料を払う)。三角形の口から這い出ると、そこには……。
塔の上からはマルクト広場をはじめ城壁内に密集した建物を見渡せます。市参事の見守る中でマーケットは開かれ、取引の公平性や価格の維持を保っていたのです。
ローテンブルクの城壁は、天狗の顔のような姿をしています。
ローテンブルクは小高い丘の上にあり、その下にはタウバー川が流れています。城壁内は東西約 600m、南北約1kmと狭いものの、14世紀にはニュルンベルクに次ぐ人口をもつ大都市になりました。しかし16世紀頃から急速に衰え、産業革命を迎えないまま忘れ去られていきます。19世紀の後半、ロマン派の画家などにより中世そのままの光景が再発見され、イギリスやフランスからも観光客が訪れるようになると、街はいち早く法律で景観を守り、ドイツの小京都として百数十年以上つづく観光地となったのです。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第7回
松島海岸のおもいで。
父,母,姉、姪、私の初めての旅、仙台、松島。東北新幹線に5人並んで座って、「さぁ」とお弁当を開けた途端、私と姪の座る席に、人が来た。座席が違う?号車違い?蓋があいたままの弁当箱を持ち、車両を移動。右往左往し、席に戻ってよくよくみると、自分たちの席に、初老の男性と娘さんらしき女性が座っている。この騒動に身動きもせず座っているので、よも
(^-^
やこの方たちの間違いとは思わず、声をかけるのもはばかった。「あのぉ〜」と声をかけると、何も言わずに席を立って、隣の車両に移っていった。な、なんなんだ ……こんなふうに、親子三代の珍道中は大笑いではじまった。
目の前に広がる、松島海岸のすばらしい景色に圧倒。ゆ
ったり温泉につかり、次から次へと運ばれるお料理に歓
声をあげ、「食べられないわ」と言いながら、母も姉も
大満足で完食。
伊達政宗歴史館では、歴史好きの父の臨場感あふれた解
説で、政宗の生涯をたどり、紙芝居さながら、他の見学
者も一緒に聞いていた。
そんな父に、ずんぶん後になるまで恨まれたのは、歴史
館前で炭火で焼いていたさざえのつぼ焼きを夕食前だ
からと、あきらめさせたことである。
さざえは旅館の夕食に、1人2つづつ付いて、父は、み
んなから1つづつもらったのにもかかわらずである。食
べ物の恨みはおそろしい ……
そんな仙台の旅も、もう遥か昔のことである。
2011.3.11震災の映像に映し出された沿岸に、あの旅の思い出がどぉーっとよみがえり、足が震えた。まだ元気だった両親との楽しかった思い出までも流されてしまうような気がした。
つれづれなるままに 松島海岸のおもいで。
立ちすくむ人々になす術も知らず、無力のなかで、開通したばかりの東北新幹線にのって松島海岸のあの旅館を訪ねたのは、3年前の5月2日。線路を越えて、小さな舟が流されている。うずたかく積まれた瓦礫の山、山、山 ……松島海岸の駅を下り、記憶をたよりに見つけた旅館はしっかりと残っていた。しかし、玄関窓ガラスは割れ、人の気配はない。立ち入り禁止の立て札には、自衛隊と警察の詰め所と書かれていた。
家族の思い出の場所である。なんとか一日もはやく再建できるようにと祈った。入り口に揚げられた鯉のぼりが、青空のなか元気に泳いでいた。その鯉のぼりに励まされながら、松島へと歩いた。大きな亀裂やくぼみがある。軒先まで水が入った土産物屋は、ほとんど閉めたまま。それでも観光客を相手に店先でコーヒをだしたり、しるこを振る舞ったりしている。遊覧船には子供連れも多く、カモメの餌やりで、にぎやかな声が響く。日本三大風景の松島海岸、ところどころに浮き木が漂う。目をこらし、カメラの望遠をのぞくと人々の暮らしがあった島の様子をみることができる。遊覧船の中からではあったが、乗り合わせた人たちは、この美しい松島をなんとしても蘇らせたいと願ったと思う。言葉はなくても、みなそういう想いで一杯だったと思う。
あれから3年、何ができただろうか ……
あの時の旅館は、今はすっかり元に戻っているようだ。ネットで確認して会員になった。今度は姉や姪、その子供を連れて、父、母の思い出をたどってみよう。
四方を海に囲まれ、おいしい幸にめぐまれ、海岸がおりなすこの美しい日本の風景を、私たちは守っていく義務があると強く思う。
(2014・3・11記)
豚のすね肉を使ったアイスバインとシュバイネハクセ(各 1人前)。
街では土産物店をよく見かけます。上は銘菓「シュネーバル(雪玉)」。マンガに出てくるようななフランケン地方の肉料理も楽しめます。
観光スポットのひとつプレーンライン(左)。日本人団体客が写真を撮るよう指示されていました。写真左のジーバー塔も第一次城壁のなごりで、この先は15世紀に拡張された第三次城壁の街となります。
The Entry of king Rudolf of Habsburg into basel in 1273 FRANZ PFORR(Frankfurt)シュテーデル美術館
城壁に囲まれた街を歩いていると、守られているのか、閉じ込められているのか分からなくなってきます。城壁の増設や保守には莫大な経費がかかるため、古い城壁の跡地を市民に分譲し、その資金をつかって新しい城壁を拡張していったようです。
西側のブルク門から、領主の城があったローテンブルク発祥の地
「ブルクガルテン」に出ます。14世紀のバーゼル地震によって城は崩壊し、城に付属したブラジウス礼拝堂だけが残りました。門の上で睨む顔からは、外敵を追い払うタールを流していたようです。ブルク門から広場への道は「ヘルンガッセ(旦那衆通り)」と呼ばれる高級住宅街で、豊かな商人が暮らしました。そうした旦那衆のなかから、市の参事は選ばれたのです。
14世紀初めから建設が始まり、160年にわたる増改築を繰り返してきた聖ヤコブ教会は、有名な聖遺物をおさめた
「聖血祭壇」(リーメンシュナイダー作)によって巡礼地として栄えました。中世の街はマーケットと巡礼を組み合わせることで、さらなる発展を遂げていったのです。
中央祭壇(十二使徒祭壇)は、街の中興の祖となったハインリッヒ・トップラー市長から寄贈されたものです。15世紀の後半、トップラー市長は金融・外交政策や市庁舎の建設、教会の増築、城壁の補強をおしすすめ名市長といわれますが、やがて市民の反感をかうようになり、市庁舎の地下牢に監禁され16世紀初めに獄死します。中央祭壇の扉の裏側には15世紀のマルクト広場が描かれているそうです。
南側にあたる「第三次城壁」に囲まれた街へ行ってみました。ここには「シュピタール」と呼ばれる13世紀からの福祉施設があり、今も利用されています。シュピタールは元々城壁の外にあり、病院や宿泊所、老人ホーム、救護所などを兼ねた施設でした。外敵の脅威が高まると日没後に各門は固く閉ざされ、旅人は外へ追い出され、遅れてきた市民でさえ朝まで中に入れてもらえません。そうした人々を泊めるとともに、ペストの流行時は隔離施設としても利用されました。やがて城壁の外には沢山の旅籠が建つようになります。
参考文献:ドイツものしり紀行紅山雪夫著(新潮文庫)
南の端にある「シュピタール バスタイ(堡塁)」。大砲の発達により門の防備は強化され、やがて城塞のような頑強な砦となりました。近代になると城壁の意味は薄れ、ドイツの街の姿も変わっていきます。
素敵な人たち 14吉田龍太郎(TIME&STYLE)
TOKU(ジャズボーカリスト、
目黒駅東口ロータリーから庭園美術館の方へ、一本目の行止まりの路地は灰色に薄汚れていてバルセロナ旧市街を思わせるような高い壁に囲まれた袋小路。その小さな路地を入って直ぐのところに『コーヒー』と書かれた看板と Caf. Deuxの小さなサイン。赤いデコラのカウンターに 7、8席と少しのテーブル席、そして壁には数枚の印象派の絵画、カウンターでは黒のセルフレーム眼鏡に薄手で質の良い白いボタンダウンのシャツの 60代と思われるご主人が静かにサイフォンでコーヒーを落としている。カウンターには早咲きのおかめ桜が大ぶりな花瓶に荒っぽく活けられ、バイオリンの音色とサイフォンのコーヒーが沸騰してポコポコと昇ってくる音を聞きながら、時間を持て余した定年上がりのオヤジ達が昼間の自宅か
フリューゲルホーン奏者)
ら避難してくるように真っ白な頭で、ただ、ぼんやりとサイフォンのコーヒーが落ちるのを眺めている。僕は違うぞ。と思いつつも、Caf. Deuxで僕は違和感なくそのオヤジ達に同化しているのだった。今日、2014年 3月 11日。あの日から 3年が経つ。コーヒーを啜りながら。あの日までの年月と 2011年 3月 11日のそれからを境にして全く異なった『時』として私達の心に刻まれている。『それまで』の時間と『それから』の時間、あの日を境に多くのことが一変した。僕も自分自身で気付くことのできない心の奥底にある何かが変わってしまったように感じている。それがどれだけの大きさで何を変えてしまったのか、自分でも明確に捉えることはできない。しかし、確実に自分自身の中で、それまでとそれからの時間の意味が大きく変わったことは間違いない。あの日を境にして、その後に経験した様々な出来事はこれからの刻々とした残り時間に意識を与えた。この記憶と意識の変革は自分だけが与えられたものではなく、日本人に限らず、日本に住む全ての人々に投げられた問いであり、また、未来への問いなのだろう。それぞれ痛みの違いは想像し難いものであり、当事者以外の誰にも本当のことは分からない。しかし、あの日を境にして日本人に他を慈しむ感情が再び育まれたことや家庭や地域と言う繋がりの意味を日本の中に再び見つけることができたことは苦難がもたらした私達の未来への啓示だ。私達はこれからどう生きてゆくべきか。どうあるべきなのか。これからの限られた時間の中にそう言うことを日本の各々は、あの日から今日までの 3年の月日で考えることとなった。時間と言う概念は永遠のように思えるが、各々の時間は限られている。どれだけの時間があるのか、また、それがいつ突然消えてしまうかは誰にも分からない。私達はどれだけの時間があるのか分からないことを自覚したからこそ、その時間に価値を見いだすことができる。色んなことをつらつらと考えながら、久しぶりにジャズボーカリスト、フリューゲルホーン奏者の Tokuさんの歌を聴きたくなって、何年かぶりに南青山のライブハウス『 Body & Soul 』。10年くらい前に手伝っていたジャズ雑誌『 JAZZNIN』の Tokuさん特集のインタビューを担当したのが縁で、時々、二人で飲めない彼を誘ってBarで語り合ったりした。Tokuさんは本当に音楽が、そしてジャズが大好き、そして人が大好きなジャズミュージシャンで、いつも誰に対しても真摯で優しく大らかで、その人柄が彼の音楽に現れている。だから Tokuさんの歌声を聴くと僕は優しく、前向きな気持ちになることができるのです。柔らかで、少しハスキーで低音の利いた歌声は、Tokuさん独特のソウルフルで力強く魅力的な歌声に、フェミニンな優しい歌声の繊細さの幅も加味されて、ライブ空間を様々な色に変えてゆく。日本人の男性ジャズのボーカリストとして、大好きなミュージシャンの一人。元気のない時、元気になりたい時はぜひ、Tokuさんのライブに行ってみてください。毎月『 Body &Soul』や色んなライブハウスで楽しい魅力的な音楽、やっていると思いますよ。
マイン川河畔の応用工芸博物館に、日本文化に感心をもつ皆さんが集まりました。橋本夕紀夫さんは伝統工芸の技術を応用することで、現代の暮らしに驚きをもった提案ができることを力説し、インテリアやプロダクトの実例を紹介していきました。会場からもするどい質問が飛び出していました。
Ambienteのジャパン・デー 2月10日には、橋本夕紀夫さんの講演会などが行われました。橋本さんはフランクフルトの老舗ホテル「ヘッシッシャーホフ」で通訳者との打ち合わせ後、会場となった Museum Angewandte Kunst(応用工芸博物館)へ向かいました。
こちらは「1607」と名付けられた展示です。17世紀初頭にアジアやヨーロッパで作られていた手工芸品を集め、比較しながら見られるという面白い企画でした。日本の蒔絵なども並んでいました。
講演会の後、博物館の展示を見せてもらいました。フランクフルト出身で米国に渡った建築家フェルディナンド .クレイマー(1895〜1985)の作品展が開かれていました。機能的でローコストな家具や金物、住宅設備のデザインも手がけたクレイマーは、エルンスト・メイと共にフランクフルトの集合住宅計画に参加した後、戦争の影響で米国へ渡り、戦後は帰国して後進の育成に尽力しました。
実物のフィアットを使ったり、長いキャンドルを吊るしてパーティションにしたりと、来場者の興味をひくよう展示も工夫されています。
海外のブースも見てみましょう。ラグジュアリーな製品の揃う9号館では、ヨーロッパらしいボリュームにあふれた展示を見られます。
昨年につづき京都の西川貞三郎商店にうかがいました。代表の西川加余子さんと、南部鉄器の及源鋳造(水沢)代表及川久仁子さんがブースで忙しく接客されていました。今年は出品を清水焼に絞り込み、MITARE KUMO KAYORIという3テーマにもとづいてディレクションしたそうです。南部鉄瓶と清水焼のコラボレーションも好評で、ここ数年の日本茶・抹茶ブームや「和食」が世界遺産に登録されたことも追い風となり、取引先も増えているようです。「沢山の種類を少量ずつでも作れるのが清水焼の長所。海外からの少量多品種の注文にも柔軟に対応していきたい」と西川さん。京都の貴族や茶人からはじまった清水焼のパトロンが、世界に広がっていることを感じました。
北海道・旭川の木工メーカー 3社が共同出展した「Asahikawa Woodworking」。ササキ工芸がデザイナー伊藤千織さんと共同開発した木製ブリーフケースは、精緻な仕上げと木という意外性で来場者の注目を集めていました。伊藤千織さん自身も「Next」のコーナーに合成紙「ユポ」を使ったペーパーリースを出展。Nextは若手企業やデザイナーとバイヤーをつなぐ場として用意されたコーナーで「海外の厳しい評価を、今後の製品開発に活かしたい」と伊藤さんはいいます。
秋田角館の「藤木伝四郎商店」は、JETROのブースに出展していました(コラージ 2012年 7月号で紹介)。樺細工の茶筒はティーキャディーにも利用され、樹皮の表情を残した「霜降皮」のタイプが人気だそうです。ティーショップやセレクトショップ、ミュージアムショップからの引き合いが多く、昨年よりも好調だったようです。最終日の前夜には、パートナーカントリーレセプションが開かれます。はなわちえさんの迫力ある津軽三味線から始まり、生け花や日本舞踊も披露されました。レセプション終盤には、日本国大使から来年のパートナーカントリーである米国の総領事へ引き継ぎ式が行われました。
ケノス代表
コンビニから世の中の変化が見えて来る -4
数ある小売業の中でも今や暮らしに欠かせない、無くては
ならない 2大業態がある。それはこの 40年で確立された
「コンビニエンスストア」業態と、歴史の長さを含めもう確立されきった感のある「スーパーマーケット」業態だ。つい最近まではお店を利用する我々も、こだわりなく小腹を満たすような、利便性のみの欲求でコンビニエンスストアを利用し、しっかりとした食事をと思えば新鮮な食材が揃うスーパーマーケットへ、何の疑いもなく買い物に出掛けて行くというのがスタンダードな、ここ 20年の生活であった。しかし時代背景の実態の変化は、我々が「そろそろかな.」と感じるより遥かに速い。その代表的なものが「高齢化社会」の進行速度である。ご存知のように 65歳以上を高齢者という。「高齢化社会」という用語を指す高齢化率は 7%.14%、「高齢社会」は14%.21%、「超高齢化社会」は
高齢化社会に対応し、変化を続けるコンビニ業態(ローソン)。
21%以上を云うそうだ。昨年 9月の総務省人口推計によれば、65歳以上の人口が 3,180万人を超えて 25%にも達している。4人に1人の割合だ。日本は世界で最も速く「超高齢化社会に向かっている」のではなく、とっくにまっただ中に来てしまっている。もうひとつの社会背景の変化は都市部への人口集中である。ひとつは東日本大震災以降の東北地方から首都圏への人口流入と、もうひとつは交通網の発達によって規模の大きい都市が人口を集め発展して、規模の小さい都市が衰退してゆく、いわゆるストロー現象である。体力に自信を無くした人達が、暮らしやすさを求め街へ戻って来る「都心回帰」も進んでいて、これもストロー現象のひとつといえる。今の人口推移を見ると、都心人口が減少して郊外人口が増加するという高度成長期に見られた「ドーナツ化現象」等という言葉には、いまは昔の感がある。流通小売業は 3. 5年程前から、上記のような社会背景の変化を研究し、いかに対応してゆくかを用心深く検証している。それは商品のポーション(一人前の量)であったり、陳列の高さ、店内の照度、プライスカードの可読性など、小さな実験を繰り返し行いデータを積み重ねて来た。その中でも、前回のコンビニエンスストアとドラッグストアの融合実験は、社会背景の変化にお店をフィットさせる具体例のひとつで、かなり大胆な施策である。そしてついに今年 2月中旬、冒頭に述べた「コンビニエンスストア」と「スーパーマーケット」という現代の小売業を代表する2大業態の「融合形式店」が登場した。前回お伝えした『ローソン スーパーに参入! 小型店、都市部に来年度100店』のことである。仕事柄もあるがミーハーな私はすぐに見に出掛けた。この『LAWSON MART 1号店』は相鉄線で横浜から 2駅の西横浜駅から徒歩 6分程の街中に出店した。国道 1号線から西に向かって左に折れ150m程に位置する。広さは80坪程でコンビニの1.5.2倍の面積である。マートと唱っているように入口正面には季節の野菜・果物が並び、冷蔵ケース内には少量だが魚やお肉、その先は豆腐、納豆等のデイリー食品が続く。超小型のスーパーマーケット機能がまとまりを持ってゾーンとして括られて
ローソンマートの第一号店。日中のようす。
いて、それ以外のスペースはコンビニの商品で埋め尽くされている。またローソンを母体とするため、店内にキッチンを持ち調理加工をしている。惣菜も「うちはスーパーマーケットなのだ」という存在感を示すためか、アイテム数は少ないものの、おいしいものを提供しようと力が入っていた。ただしレジ部分はスーパーマーケットのような通過型ではなく、コンビニと同じ対面のカウンター形式である。スーパーマーケットがダウンサイジングし、街中に出店するケースは以前ご紹介した AEONの「マイバスケット」、マルエツが運営している「マルエツプチ」、ユニーグループの「m iniピアゴ」等が代表的なチェーンである。それに対してコンビニがアップサイジングして、マートと名乗るのは LAWSON MARTが業界では初めてである(北海道を中心に店舗展開するコンビニで「セイコーマート」とマートを最初から名乗っているチェーンもあるがこれは例外)。また余談だがセブン -イレブンは1年程前から小田急沿線に 75坪の広さで生鮮商品を一部扱う店を出し、データ収集を行っているようだ(もちろん正式のコメントは出ていない)。スーパーのダウンダイジングタイプが支持されるのか、コンビニのアップサイズが歓迎されるのか、あるいはお客様が上手に使い分けるのか、住まいから近いという立地の利便性だけで双方が共存して行けるのか、関心は尽きない。LAWSON MARTへは午前中と夜8時過ぎに、日を変えて2回行ってみた。ファサードのサイン照明がコンビニ型の内部照明式ではなく、LED光源による外部照射型の新しい形式だったので、どのような光でどのように広がるのか、昼夜のイメージギャップなどを確認したかったからだ。店の幅一杯に行灯型照明を付けるのは「コンビニ」業態のアイデンティティを主張するエレメントとして、一般化している。だからコンビニ的なイメージを連想されないように、ファサードの内部照明式看板の採用を避けたのだろう。
「LAWSONという名前だけどスーパーマーケットですよ、大手だから安心ですよ」と地域のお客様にアピールしている。LAWSONらしさを支える一番のアイテムは私が述べるのも何か変な気がするが、あの白とピンクに挟まれたブルーのカラーである。しかしあのブルーでお店を作ってしまえば絶対 LAWSONとしか思われないので、それ以外のカラーを模索したはずである。そして行き着いたのが写真の色である。
夜間のようす。行灯型照明ではなく外部照射型のファサード。
LAWSON MARTはストアカラーがオレンジで、その濃淡
3色の水平なストライプで構成されている。ロゴマークは
「MART」まで同じ書体で統一されていて、シンボルとしてのパワーが落ち少しうるさい気もする。この立地はきっと売れるだろう。すぐ近くに長い立派なアーケードを設けた歴史のありそうな商店街があるものの、業種店ばかりである。スーパーマーケットといえば AEONのマイバスケットは近くにあるが、大型のスーパーマーケットはない。LAWSON MARTの近くでクルマの中から30分程ながめていると、何人もの元気なお年寄りが両手一杯に商品を買って行く。2トン積載の配送トラックも、1台分全ての商品をこの店で降ろし、3. 4人の従業員総出で店内へ運び込んでいた。私も何か日用品を買おうとレジに並んでいると、店員の知り合いだろうか、誰かが「どうです」と尋ねる声が聞こえ、その店員は「絶好調です!」と応じていた。レジの順番が来て、コンビニ名物の「カップコーヒは何処ですか」と聞いたら「やっておりません」とのこと。ああ、この店はスーパーマーケットなのだと納得した。
フランクフルトで必見といわれる美術館は、18世紀の銀行家ヨハン・フリードリヒ・シュテーデルの遺言により設立された「シュテーデル美術館」です。個人コレクション基盤とした世界的名品の数々をおしげもなく展示しています。
階段の上で迎えるのは、ゲーテの「イタリア紀行」(Goethe in the Roman Campagna)です。フランクフルトはゲーテが生まれた町でもあります。
左・View of Frankfurt am Main(Domenico Quaglio 1831)下・Winter Landscape with Snoefall near Antwerp(Lucas van Valckenborch 1575)
フランクフルトをはじめヨーロッパ各地の風景を描いた絵画も沢山ありました。空襲によって壊滅する前の、フランクフルトの古い街並み
も見られます。小氷期を迎えていた14世紀半ばから18世紀頃には、凍りついた川でスケートをしています(右はアントワープの光景)。
下・A wood Nymph(Victor M.ller 1862)中央・Venus(Lucas Cranach 1532)右・Jealousy(Edvard Munch 1913)
誰にでも美術を開放したいという思いから、ベビーカーを押すママさん達や学生向けのガイドツアーもひらかれていました。展示室には自然光が採り入れられ、色鮮やかな名画を間近で見られます。
▲地面に開けた天窓によって、地下にも自然光を採り込んでいます。
地下はモダンアートの展示室です。入り口にはアンディ・ウォーホル作のシルクスクリーンのゲーテを掲げていました。
美術館レストランのメニューには SUSHIが載っていました。野菜だけを握った独創的なお寿司で、なかなか美味しかったです。