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よたびの春よ、石巻 気仙沼へ
4月号 鎮月 2014
http://collaj.jp/
時空にえがく美意識
コラージ取材班は 2年半ぶりに石巻を訪ねました。東北新幹線で仙台へ。東北本線で小牛田(こごた)に出てから石巻線に乗り換えます。石巻線(小牛田〜女川。浦宿〜女川間は代行バス)では土・日を中心に、石ノ森章太郎のキャラクターを全面にあしらった 「マンガッタンライナー」を走らせています。
石巻駅から日和山(ひよりやま)へ。今も多くの人が訪れ、沿岸部や旧北上川河口をのぞみながら、地元の方から震災当時の説明を受けていました。
2011年 9月の旧北上川中洲(通称マンガッタン)周辺。白いドーム状の「石ノ森萬画館」が見えます。沿岸部とともに被害の大きかった中洲と周辺は公園として整備される予定です。
石巻市震災復興基本計画旧北上川河口復興イメージより
2014年 3月の旧北上川中洲周辺。建物の撤去が進み、空き地が目立つようになりました。河川堤防の工事も少しづつ進んでいるように見えます。
石ノ森萬画館
震災以降休館していた「石ノ森萬画館」は、リニューアル工事を終え 2013年 3月完全再開館しました。日曜ということもあり屋台もでて、多くの家族連れで賑わっていました。
特設ステージでは、石巻のヒーロー「シージェッター海斗」の誕生10周年を記念したショーが始まりました。海と自然の破壊を企む悪の軍団と戦います。
素敵な人たち 15吉田龍太郎(TIME&STYLE)
雑貨店 La Mimosa の女性オーナー(イタリア・ミラノ)
いくつになったら成熟した大人になれるのだろう。時折、バカバカしい、しょうもない子供染みたことを考えている自分の発想に対し、沸き上がってくるような実感。10代の時には、20代には若々しい大人の自分、そして20代の時には成熟した仕事のできる 30代の大人の自分を想像していた。そんな年齢をとうに過ぎてしまった今になっても、若い時に想像していたような大人の自分には当分の間、なりそうにない。人生の折り返しを過ぎ去ってしばらくすると、残り時間が近づいてきたことを肌に感じる今になって、ようやく人生を終える最後の日になっても幼いころに夢見ていた大人の人間に至ることが出来ないことが分かってきた。幼い頃に憧れていた成熟した人間には最後までなれそうにはないけれど、これまでの沢山の失敗や子供染みた人生の中に無駄なことは一つも無かったように感じている。良いことや善良に見えるものの裏側にも悪いことが隠れている。そして、悪いことや罪の中にも少しの良いことが含まれていることが、様々な人生の苦さや失敗を経験したことで少しは理解できるようになってきた。善良な顔で堂々と正義を主張する人々よりも、口をつぐんでコツコツと目立たなく地味に生きる人たちの中に、より沢山の正義や善意が存在することも、おぼろげながらに分かるようになってきた。不思議なことだ。これまでの人生の中で、幸いに運が良かったこともあって、自分を不幸だと感じたことが無い。両親とは遠く離れている時も、どこかから見守られていることを感じ、どんなに寂しくて孤独な時でも、心の奥底から冷え込むような本当の孤独や寂寥を感じることはなかった。20代や 30代の時に仕事が上手く行かず、お金が底をついてどうしようもなくなった時でさえ、自分の境遇を恨むことはなく、不幸だとは思わなかった。そして自分の過失で死にそうになった時でさえも、自分の運命を恨む気持ちも後悔も感じることはなかった。病気で体が弱くなってきて、自分で心が動かせなくなった時、木々の声や動物達の気持ちに自分の心を合わせることができる。普段は感じることができないような全ての生命の優しさを感じ取ることができる。体を壊し精神を病んで苦しんでいる時に、猫がそっとやさしく寄り添ってくれた。そのほのかな暖かさには、彼の確かなやさしさが存在していた。ベッドに横になっている窓の外の木々が揺れて、差し込んでくる木漏れ日のゆらぎが体や心の苦しみを感じるかのように、やさしく静かに側にいてくれる。太陽のひかりも、そよぐ風と揺れ動く木々も、小鳥達の鳴き声や子供達の遊ぶ声も、協奏曲のように全てが繋がっているように感じられる。生きていると言うことはこう言う実感なのだろう。生まれてきた命もいつかは必ず終わりを迎える。人生の時間はあまりにも短い。何気なく過ごしている日々の中に、いつか自分は存在しない時が訪れる。しかし、今日と同じように何も無かったかのように、人々は自分の時を刻んでゆく。
ミラノ、デザインの街、変わってゆくものと変わらないものが存在する街。賑わう街を避けるように小さな路地を歩いていると、窓に「La Mimosa」と言う手書きの文字の看板を見つけ、ウィンドウに飾られた手作り風のウサギやクマの飾り物やぬいぐるみに引き寄せられるように、ドアを開けた。奥行きのある空間に大きなカウンターと壁面一杯に飾られた小さな雑貨や紙の製品、そこには昔から変わらない時間が存在していた。そして、変わってはならない大切なものを感じ、しばしその時間と空気に身をあずけた。La Mimosaで小さな雑貨やノートやお店の手作りの飾り物やぬいぐるみを見ていると、色んな子供達の顔が浮かんできたのだ。これから生まれてくる子供。僕の体を心配して、宝物のような手紙を届けてくれた子供の顔。自分の二人の娘たちの顔。La Mimosaで子供達にいくつかの買い物をした。小さなその小物を一つ一つ大切に白い包装紙で包み、そこに最近は見かけなくなった昔ながらの白いレースのテープでリボンを作って、また、そこに違う薄いオレンジのレースのテープを重ねるようにして包んでくれた。体が震えるような、泣きたくなるように感動した。美しく、優しく、そこには、確実にその人の愛情が存在していたからだ。自分の存在や気持ちに忠実であり、愛情とプライドを持って生きている人の作り出すものの素晴らしさに打たれた。また、素敵な人を知ることができた。幸せだ。
石巻市街 沿岸部
石ノ森萬画館から沿岸部の方へ行ってみました。被災地をまわる観光バスの姿もあります。下は山形の NPO法人「被災地に届けたいお地蔵さんプロジェクト」により建立されたお地蔵さん。
「がんばろう石巻」の献花台には「復興するぞ」の文字が大きく書かれ、被災した木片から種火をとったランプの火が燃え続けていました。左の青い看板は、津波の高さ(6.9m)を示しています。
タクシーの運転手さんが献花台の前で「震災後」と「震災前」の航空写真を見せてくれました。旧北上川河口付近や沿岸部の住宅地は、日和山のふもとまで壊滅的な状況となったことが分かります。
住宅の基礎も撤去され、敷地に手向けられた献花が、人びとの生きた痕跡を示しています。
総合運動公園
石巻市の「土地利用構想図」によると、沿岸から河口の西側の一帯は「非可住地」となり、鎮魂の森といった公園・スポーツ施設として整備されるようです。海岸の赤線部分には防
旧北上川
潮堤が、川沿いの緑線部分には河川堤防が設けられる計画です。
市街地再開発事業等の実施
(中心市街地の活性化 商業・観光の再生)
JR石巻駅河川堤防の整備(TP4.1m(現状))
石巻市役所牧山
中央地区土地区画整理事業の実施中瀬土地区画整理事業の実施中央一丁目地区非可住地
日和山湊北地区防災緑地1号新門脇地区
南浜地区湊地区
公園復興ゾーン(産業系)湊東地区工業ゾーン非可住地非可住地(住居系)
(製造業等の集積)湊西地区工業ゾーン(水産加工業等の集積)
河川堤防の整備被災地における土地区画整理事業の実施シンボル公園の整備(TP7.2m.4.1m)
石巻湾
石巻市「土地利用構想図」から
BC工房 主人 鈴木惠三
4月のグリーンポエム
石巻市街から旧北上川を渡り、北上川沿いの道を河口へ向かいます。2011年 9月と比べると土木系の工事がすすみ、改築・新築した住宅が見られる一方で、震災から 3年をすぎた今も、仮設住宅に暮らす方々はまだ多くいらっしゃいます。市街地から離れた山中の仮設住宅地もあり、親世帯・子世帯の分散や孤立化など、沢山の課題が残されているようです。
大川小学校
雨まじりの天候にもかかわらず、大川小学校には沢山の方々が慰霊に訪れ、花をたむけていました。
十三浜の高台移転 漁港や漁業施設など 神割崎自然公園
石巻市「土地利用構想図」北上地区から。 なりわい空間の整備
黄色い丸が高台への集団移転計画地。
大指
小指
相川
小泊
公共施設等の集積地区 鹿島神社 大室
小室
新相川橋の復旧
追分温泉 県道北上津山線 立神・長塩谷
白浜
国道398号
にっこりサンパーク 吉浜
追波
釣石神社 月浜
北上総合支所 地域拠点なりわい復興ゾーン高台への集団移転 リアス式海岸特有のトンネルや橋を抜け、高台へ向かいます。
二丁谷地
被災集落
釜谷崎
海岸保全施設の整備
新北上大橋の復旧 河川堤防の整備幹線道路(新設)
既存道路
農地振興ゾーン
山林行政界地区界
北上川ヨシ原
ヨシ原の再生
津波で大きな被害をうけた「十三浜」では、国土交通省「防災集団移転促進事業」のもと高台への集団移転計画が進められています。仙台を拠点に活動する建築家・米村ふみ子さん(ヨネムラアーキテクツスタジオ)に「小指」の高台移転地へ案内して頂きました。
山林を切り拓く造成工事は、想像以上に大規模なものであると分かりました。ここに18戸の住宅が建てられる予定です。土地収得や造成工事の費用は国などの補助となりますが、住宅の建設費の多くは住民負担となります。そうしたことからも集落全戸の高台移転は難しく、新しい街のプランをコントロールすることもままならないようです。
高台から海を眺めました。十三浜の海は、高級ワカメやホタテなどの養殖で知られた豊かな漁場でした。養殖施設や漁船の多くを失ったものの、ワカメの養殖も徐々に再開されています。十三浜の方々は、永年にわたり海と寄り添って生きてきたのです。
「山神社」の赤い鳥居は、津波からの避難路を示しているかのようでした。実際に集落の多くの方々が、この急な階段を駆け上がり難を逃れています。昨年の5月、大室集落に伝わる「大室南部神楽」が地元保存会により15年ぶりに復活しました(今年も5月 4日に開催予定)。神社や祭りの担った地域防災の意味を知り、先人の知恵に感銘をうけました。
行ってきました「フーデックス 2014」
。家具・インテリア業界の皆様には「何、それ ?」ですよね。ひとことで言えば、日本で最大規模の食の見本市です。去る 3月2日からの 4日間、幕張メッセに集合した参加業者は、国内約 1千社、海外約 1千8百社。これが国内業者 9千平米、海外業者 2万平米の広大な 2会場にひしめき合うという、毎年恒例の食品業界の一大イベントです。今年の来場者は 4日間で 7万6千人 !午前中はまだしも、午後の会場は人人人の波で、目黒川(中目黒)の桜見物みたいでした。 この催しは原則として、業者間取引の成立を目的とする真剣なビジネスの場です。食品業界は、一部の巨大飲料メーカーを除けば、自動車・電気・ IT・薬品・化学等の業界に比べると、各社の資本規模は決して大きくありません。敢えて言えば「中小零細」が大半。それも「代々の家業」で、創業家の子孫が社長を勤めるのが当然、という会社が大手でも珍しくない。この点については、
我が国も海外も同様で、それだけに、各社の個性=家の伝統=社長の個性、という感じが濃厚です。実際、社長本人が商品説明というブースにも、幾つも出会いました。 では、一体どのような業者(人々)が、この会場に出展しているのか。まずは、海外の出展業者の大
きな傾向から。例えば、ハチミツやオリーブ油やパスタなど、自社の製品を日本で販売したい食品メーカー。これは、ふたつのタイプに分かれます。ひとつが、既に日本に進出済みながら、更に販路を拡大したい業者。もうひとつが、新たに日本市場開拓に乗り出し、手始めにこの会場で販売代理店(食品商社等)を見つけたいという業者。ほとんどが前者ですが、「今回日本に初めて」という業者も少なくありません。例えば、バルカン半島のセルビアからやってきたハチミツ屋、スペインからやってきたパエリヤなどの「チンして 3分」のレトルト食品専門業者、街のパン屋さん向けの特殊な添加素材を専門とするスイスの業者等々、いろいろな「日本これから組」がいらっしゃいました。 次に、各国や各地域の生産者団体。ワイン、チーズ、食肉加工品等々、各国・各州や県・産地等の単位で構成されている、様々な業者団体も出展しています。これらの団体は、本会場への出展とはまた別に部屋をしつらえて、メディアや大切な取引先を招い
ココナッツのオイル、ココナッツの砂糖、そしてアガベ(植物)のシロップなどが専門の「ブラウンシュガーファースト社」。
て別室での記者発表や個別商談会につながる催しを行っています。また、これら各団体の出展を「統括する」役割を果たしているのが、各国大使館の商務部です。イタリア、スペイン、フランス、イギリス等の国々は、各大使館の商務部が、自国の様々な団体の出展を援護する形で、記者発表や個別商談会を開催しています。今回、イタリア大使館主催の、イタリア食品とワインを広く紹介する記者発表に参加しましたが、発表はイタリア大使の挨拶から始まる中身の濃いもの。こうした国・業界団体・大メーカー主催の個別の発表会は、連日幾つも同時並行で開催されていて、メディアの立場からすれば、その選択に困るほどです。 なおフーデックス 2014全体の開会式典には、ケネディ米国大使がテープカットに参加。このように各国の大使が参加するということだけを取り上げてみても、世界の食品生産国にとって、日本の胃袋が、如何に重要な市場であるのかが想像できます。なお、日本で成功することは、中国市場進出に直結するとのことで、その意味からも、日本市場は重要だとのこと。中国では「あのやかましい日本市場で成功したものなら…」という評価で、我が国での成功が「ひとつの勲章」になるとか。昨今の両国の政治的緊張が
ウソみたいな話ですね。要するに、海外からの出展者は、日本市場への参入、販路拡大、さらには、巨大な中国市場への足掛かりということまで視野に入れて、「買い手」を求めて、この巨大な催しに参加しているわけです。 では、この会場を訪れる、4日間で七万六千人にも達する来場者は、いったいどういう人々なのか。当然ですが、そのほとんどは日本国内で様々な形で食品業界とそれに関連する場で働く人々です。まずは、海外業者の集まる会場を訪れる人々について、その内訳をご紹介してみましょう。①食品輸入商社 ②食品専門の卸会社 ③国内の食品メーカー ④大手から中小までのスーパーマーケット ⑤より安価で品質の良い素材や半調理品を探し求める各種外食産業 ⑥ワイン輸入 &販売業者 ⑦海外からの食品を手広く扱う輸入食品販売チェーン ⑧デパ地下関係者 ⑨食品関係の専門誌紙メディア ⑩食品輸入に関わる公的機関や食品業界団体の関係者等です。 ここで、ひとことご説明したいのは、これら海外業者が持ち込む加工食品や農産物は、必ずしも直接、我々最終消費者の目に触れるものばかりではない、という点です。例えば、今年の会場では、トルコのパスタ製造会社が何社も出展していました。スパゲッティや
今年の会場では、隨分とハチ蜜の展示が目立ちました。輸入量急増中 ? こちらはスペインの会社。
ペリゴールのフォアグラ、鴨肉のパック他。このままスーパーに並んでほしいけれど、業務用ですね。
マカロニという、あの、パスタです。イタリアではなく、トルコの生産者です。業者の話では、トルコそしてギリシアからのパスタの輸入量は近年急増しているとのこと。しかし、これが直接、一般の消費者の目に触れることは、まだ例外的。百円ショップ系や低価格帯の棚に限定されています。では、急増しているトルコのパスタは、いったいどこに流れていくのか。まずは、巨大な消費を飲み込む、大手の外食チェーンです。また、社食や学食、弁当販売チェーンでの消費、またレトルトやプライヴェート・ブランドでの使用もあるようです。 出店業者の中には、ファミレスや居酒屋で使われるような、業務用の半調理食品に注力している業者も少なくありません。こうしたブースでは「いかに簡単調理でおいしいか」を訴えるため、調理の実演デモのかたわら、盛んに試食をさせています。来年あたりどこかのファミレスのメニューに載りそうだな、なんて感じのレトルトを、あれこれ
試食できちゃいます。こうした業務用の半調理食品も、一般消費者の目にふれることはありませんよね。 ところで、海外から 1800社も参加していると聞くと、「世界中からあらゆる種類の食品が多様な形で輸入されているに違いない」と思いたくなるところです。でも話は、そう単純ではありません。実際にフーデックスの会場を歩いてみれば、すぐにわかることがあります。それは何かというと、かなりの数の業者が、似たような商品を並べている、ということです。なぜ、そうなるのか。理由は大きく 2つ、あります。まずは、日本人の好む味に合う「売れ筋商品」に業者の関心が集中しがち、ということ。そしてもう一つの、重大な理由。それは、様々な規制の問題です。関税、食品の安全基準、輸入認可の可否に関する基準が不明確という「非関税障壁」の存在等々、日本国内の生産者保護との絡みからくる、政治的な理由の存在です。
イタリアのレトルト各種。一般消費者だけではなく「もちろんレトルコのフレッシュジュース屋さん。ストランさんでもお使い頂きたい」そうです。トルコの食品は今、要注目です。
ドイツのお遊びソーセージ。「ご要望次第で、どのような図柄も可能」とのこと。
乾燥ポルチーニ。これだけあったら、十万円超えそう。もちろんイタリア。
店の店長さんや店員さんたちもいらしています。販売の現場で消費者と直接接する彼らは、二日掛かりでこの会場を隅々まで見て回るという人も少なくないようです。こちらはこちらで、すごく熱心。仕事そのものに対して好奇心と情熱が一杯。彼らと話をしていると、そのウキウキ感が伝わってきます。さらに今回は、イタリア大使館主催の記者発表に参加して様々な話を聞くことができただけではなく、各国からやってきた出展業者からも、あれこれ話を聞くことができました。これについては、また機会を改めてご紹介できれば、と思います。 いずれにしても、日本の食の市場は今、世界のグローバル化という巨大な波に洗われながら、根本的な構造変化を遂げつつあります。フーデックスは、その変化の激しさを知るに絶好の場である、と断言できます。
その一方で、「カルディ」のように、比較的手頃な輸入食品とワインを幅広く扱うお
例えば、 EU圏で厳しい産地呼称を獲得している様々な「食の名産品」のうち、現在、日本市場に輸入されているものは、全体の 2割にも満たないとのこと。残りの 8割以上は、我が国の輸入販売業者が今すぐ輸入したいと思っても、今挙げた様々な「障壁」に邪魔されて、なかなか事はスムースには進まないようです。今年に入って、特に農産物や食品の輸出入を巡って、 TTPや対 EU、さらに対オーストラリア等に代表される個別の 2国間交渉の経過が報じられる機会が増えています。こういうニュースを見聞きしても、なんだか、雲の上の難しい話、みたいに聞こえますよね。でも、実は、こうした面倒な政治交渉で決定される結果次第で、明日のスーパーの棚に並ぶ食品やお酒の種類と価格が大きく変化するのです。フーデックスに集まる人々の中には、こうした政府間交渉がご自身の仕事に直結するため、鋭い国際政治意識の持主も、含まれています。そんな会社の社長さんにお話をお聞きして、その見識の高さに驚かされたりしました。
スペインの誇る生ハム。華やかなフ代理店募集中のスペインのフォアグラ専門店。若社長自らブースラメンコの衣装で注目を集めました。に立つ。ピラミッドは古代エジプトのユダヤ人のフォアグラを暗示。
オランダ直送ニシンの酢漬け。お世辞抜きでトロの味わい。代理店募集中。スペインのタパスの半調理品から、上手に出来た小皿料理。いけてました。
3年を過ぎた今は全国から沢山の観光客が訪れ、ホテルでは日本有数の漁港として栄えてきた気仙沼の海の幸を存分に味わえます。左は名物の「ハーモニカ」(メカジキのエンガワ)。
気仙沼プラザホテルの女将・田村恭子さんから、東日本大震災の話を伺いました。田村さんは3月11日14時 46分頃、自宅にいらっしゃったそうです。車でホテルに戻ろうとしたところ停電でガレージのシャッターが開かず、小走りでホテルに戻りました。車の渋滞はすでに始まっていて、そのまま津波に飲み込まれた方も多いようです。「ホテルに戻って10分もしないうちに津波がやってきて、黒い唸りがぐーっと上がってくるような光景で、ただ呆然として現実なのか夢なのか分かりませんでした。対岸に火のついた船やタンクが流れてどんどん広がっていき、真っ暗ななか、ホテル下のガソリンスタンドに燃え移ったらどうなるかと不安でした。その時は今の生活を取り戻せるとは想像できず、3年でやっとここまでこられました」と当時を振り返ります。震災のなか、ホテルの機能はどのように保たれたのでしょうか。
「宿泊者の方々は避難所に 2泊して頂いてから、3日目にホテルのバスで一ノ関(岩手)までお送りすることができました。大変だったのは1カ月半にわたっての停電です。震災後に発電機を入手して主な設備だけでも稼働させましたが、非常発電機を備えておけばよかったと思います。食料は多少の備蓄があったのと、ホテルの本社が水産加工会社ということもあり、全国の缶詰メーカーなど取引先が助けてくれました。約1年にわたり警察の方々の宿泊や役場の仮事務所、テレビの取材拠点、一時避難場所などに利用され、最初は慣れないことで苦心しましたが、一度休業してしまったら再開は難しかったと思います」。こうした経験から、最低限の水、電池、毛布、食料などを数日分備えておくことや、習慣的に懐中電灯を持ち歩くこと、日頃からどこに避難するかを考えておくことなどをアドバイスしてもらいました。
「先日は『きっかけバス』という東北3県をめぐる企画で、全国の学生がホテルに宿泊してくれました。学生たちの志は高く、自分たちが何をできるのか熱心に討論していました。今は全国の方に足を運んでいただき現状を見てもらうことが、地元の皆さんの願いと思います。震災から 4年目をむかえ全国的な報道も少なくなりつつありますが、気仙沼を支える水産業や、住宅をはじめとする生活基盤の再建はこれからがスタートです」と田村さんは語ってくださいました。
遠くに見えるのは、気仙沼湾の入り口に浮かぶ大島です。
いずれ街は復興すると思います。しかしながら、震災前と同じ街には戻りません。それを考えるととてもさみしい気持ちになります。
<気仙沼での私達の活動>
建築・インテリアに携わる仕事をしていると、お客様が以前住んでいた「家」やご実家の話をする事があります。その時は、お客様の頭の中に残る住まいの記憶を、私達も想像しながらお話します。
3.11の震災から2年たった昨年、津波によって家も思い出の写真もすべて流されてしまった現状を報道によって見聞きするなかで、私達は震災で突然家を失った方々が「家」の記憶を思い出すことで、そこで生活を共にした家族のことを思い、出来事を思う機会になるのではないかと考えました。そこで知り合いの方に相談し、気仙沼の地元の方をご紹介していただく機会を得ることができました。直接お会いして私達の考えをお伝えし、こういった活動によって復興支援のお手伝いができないものかとお話させていただきました。実際に家を失った方がどのように感じるか不安でしたが、是非にと仰ってくださいました。早速聞き取りをしながら出来た図面を、一旦ご家族と共に確認をしてもらいました。そこで出てきた修正内容をさらに図面に反映してといった作業を繰り返して完成させていきます。私達はこういった「記憶」を呼び起こす作業を通して、家族同士の語らいなど、コミュニケーションのツールを提供していきたいと考えています。建築の図面を描くということは、通常は今まで存在していなかったものを頭の中で構築して図面化奇跡の一本松
する作業ですが、この活動では、依頼者の頭の中にある記憶を図面化する作業になります。まだまだ時間はかかるかもしれませんが、その過程を通して思い出を「形」として残していきたいと思います。また出来上がった図面を見ながら、家族や友人たちとのコミュニケーションが広がることを願っています。
神々のデザイン
写真と文 石井利雄(旭川在住)
北の早春賦
( 旭川市 郊外 )
* * * *
北の 4月はじめは残雪が全てを覆っていて、吹く風は身を刺すように冷たい。そんな中で誰よりも早く春一番を感じとり、雪の隙間から顔を出して〈春だよー〉と叫ぶのは、フキのとうだ。思わずウォーキングの足も軽くなる。
気仙沼プラザホテルのふもとに建つ俳優・渡辺謙さん発案のカフェ「K-port」は、伊東豊雄さんによって設計されたそうです。その隣には、20軒以上の屋台や売店の並ぶ「復興屋台村 気仙沼横丁」があります。対岸の造船所では船の修繕などが行われていました。
津波の際に多くの方々が避難した、繁華街裏の高台に上がってみました。建物の基礎には、飴のようにねじ曲がった鉄筋や鉄骨が残されています。流された船やタンクによる衝撃も大きかったようです。
フェリー乗り場に近い建物の敷地は沈んだように見えます。
Mr.
Mr.それでも地球は回ってる
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第二部「ジーノ編」 2奇跡のマティーニ承前野田豪(AREA
レストラン「チーズケーキファクトリー」に入る。観光客でごった返す店内をかわしながら、目的のテーブルについた。「やぁ、スミス君」。ミートボールパスタのビッグサイズを一人で
Mr.
Mr.
頬張る男、 ローライフが顔を上げた。「Y o u.」と指をさして言った。「ジーノです。アンタじゃない」「知ってる。お前がドウターをうまく手なずけたことも知ってるよ」そう言って肩をすくめた「うまくやったもんだ」「あなたがへたくそなんですよ」その言葉にスミスが持っていたフォークを皿の上に投げ捨てた。大きな音に周りのファミリーがこちらに視線を向けたが、暴力の匂いにすぐさま目を逸らした。「お前、あの時とちょっと違うな」「ええ。今、仕事中なもので」スミスは目を細めた。こいつ、確かに ……何か違う。剣呑なオーラを身に纏っている。そうか、これか。俺はあの時これに気圧されたのだ。「何の用事だ」「イエロー Foxを知ってますね?」スミスの顔面から表情が消えた。「用件は一つです。彼の後ろ盾から降りて欲しい」「何の話だ?」目の動き、口の端、テーブルの上の指先の微かな震え。吐く息の匂い。情報がなだれ込んでくる。ジーノの脳内。ソーマの木がみるみるうちに枝葉をつける。無数の可能性が絞られて行く。行き着いた先。結実の木の実。ジーノはその単語をポツリと口にした。「裏切りか」スミスが椅子を倒して立ち上がった。「座って下さい。 スミス。僕はあなたの敵ではない」落ち着きを取り戻せないまま、椅子に座り直すと、スミスは口を開いた。「俺がロックさんを ……ボスを裏切るわけがねぇ。誰だってそうだ。命は惜しい」ジーノは真っすぐスミスの目を見ている。
「対立側のラフィンホクに保険を掛けたんでしょう。最近メキメキと頭角を現している新人がいるって聞きましたが。確かクロっていう日本人だそうですね」「 ……」「資金源は新型麻薬。通称 T」「お前……」「故買屋はね、モノだけじゃない。いや、情報こそが僕にとっての最大の商品なんです」「くそ……。このイタリア野郎が……」「あなたの組織、インビジブルウェポンでは薬は御法度ですよね。なんでも、ロックマンはかつて大事な人を薬で亡くしたんだとか」再びフォークを握ったスミスの手。うっ血して白く染まっている。まつげの震え。呼吸を測る。吸う吐く吸う吐く ……浅い呼吸。「 スミス。あなた最近バイクを盗まれませんでした?」やにわにスミスが深く息を吸い込んだ。ジーノはテーブルに置いた手を手のひら一つ分横にずらした。ダァン。ジーノの手のあった場所にフォークが刺さって震えていた。「簡単なことです。僕が推測するに、フォックスは単独、そして素人だ。もう一度言いますが、彼の後ろ盾を降りて下さい。そうすれば彼はもう何もできないはずだ」
ジーノは立ち上がるとスーツの前ボタンを閉めた。「ちょっと待て、ジーノ ……いやジーノさん」「ご心配なく。言ったでしょう。これはあなたと僕の取引だ。あなたが言う通りにしてくれたら、売買完了です。秘密は守られます。あなたにとっては、良い取引が過ぎますがね。予備タンクに薬を詰め込んだバイクは何かと交換しますよ。あのバイクは高い買い物でしたからね、それ相応の商品じゃないと売れませんが。まあ、考えておいて下さい」ジーノは自分の顔をツルリと撫でた。温和な顔が現れた。「ああ、そうだ。例の店のベルモット、また商流を繋いでやってくださいよ。僕はあそこのマティーニが大好きなんだ」一回り小さくなったスミスに別れを告げると、ジーノはカラッと晴れた午後の日差しと人ごみの中に飛び込んだ。
「飲んでよ」ジーノの目の前にマティーニが差し出された。リロイがニコニコした顔で頷いた「何かさ、急に仕入れることができるようになったんだよ」「それは良かった。みんな喜ぶだろうね」「そうだな……」ジーノがグラスに手を伸ばしたその時、バンと入り口が開いた。
「ジーーノ !!見つけたっ」ナツキが飛び込んできた。やれやれといった顔を投げるリロイ。ジーノは苦笑すると「最近懐かれちゃって」と肩をすくめた。「ジーノーー。今日もスーツがかっこいいねー」抱きついてきた。「ナツキ、また汚い手で。洗っておいで」「汚くないよ、ひどいなー」レストルームに消える彼女を見送るとリロイが言った。「なだめておくから行っていいよ」「ああ。助かるよ、リロイ」立ち上がり、コインをカウンターに置いた。戸口のあたり。「ジーノ」リロイがジーノを呼び止めた。振り向くジーノ。「あのさ、俺な、ここの店がんばってみようかと思うんだ。先はどうなるかわからないけど、出来る所まで精一杯やってみようと思うんだ。そう決めたんだ」でかい図体のくせに小心者のリロイが、力強く口を横に引いて、大きく胸を張った。ジーノははにかむように微笑すると小さく頷いた。
外は暖かい夜だった。アスファルトに靴音が響く。さあ、仕事がたまってるぞ。明日は椅子の木取りだ。ケント邸のキャビネットも今から製作図面を引かなくては納期に間に合わない。大忙しだな。
……と、ポケットの携帯が震えた。メール?タップしてメールを開く。その内容に足が止まった。
『ジーノ様お留守番をしていたら、悪い人に誘拐されてしまいました。どうか私を救って下さい。人形のマーガレットより』
「マーガレット?」目を細めるジーノ。ホノルルの夜はまだ始まったばかりだった。 ■
▲気仙沼市による鹿折地区の復興予想図。
▼ 西城さんたちにより、いち早く再建された鹿折地区の工場。
魚市場を擁する南気仙沼地区では、水産加工場や冷凍倉庫などの再建が進んでいます。最高水準の冷凍技術、加工技術をもつ気仙沼の水産加工会社は、冷凍倉庫から全国各地へスピーディーに大量の魚を供給できる一大産業でした。漁業や街の復興は、水産工場の再開にかかっているともいえます。
南気仙沼地区でも、大規模な嵩上げ工事や工場の建設が進められていました。その一方で、自主的に嵩上げを行い、再開した工場もあります。従業員の雇用や取引先との関係などから、とにかく営業を続けたいという事情もあるようです。気仙沼市では今、嵩上げ工事や災害公営住宅の整備を待てず、若い世代が市外へ流出していくことも懸念されています。復興作業は、時間との闘いでもあります。西城さんの自宅敷地に案内して頂きました。ここも嵩上げ工事が予定されているため住宅の再建を待っている状態で、今は会社から独立されて、一ノ関に建築設計事務所(左)を構えていらっしゃいます。西城さんは地震の際に自宅に戻り、高台の避難所に向かおうとした所、向かいに住む体の不自由な方に気づき、2階に運び上げた所で津波がやってきたそうです。「靴も流されてしまい、ガレキや水などでしばらくは外に出られませんでした」と当時を語ります。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第8回
遅咲きのおっかけ
「年齢は隠しませんが、正直シミやくすみは隠したい」と、
コマーシャルが流れた。そのあとに「小泉今日子48歳」
と出た。えっ!あのキョンキョンが48歳?
アイドル時代は全く興味はなかったが、笑顔満点の48
歳、なかなかのものである。それにしても最近とみに、
40代、50代の役者や歌手が昔劣らず磨きをかけて活
躍しているのが目につく。
ついこの間、たまたまテレビに映った「ジ・アルフィー」というバンドに釘付け。今まで名前も知らなかったが、早速知り合いにコンサートチケットを依頼したものの、入手は容易でないらしい。彼女は、私の一時の気まぐれだろうと DVDを貸してくれた。とんでもない。2枚の DVDをぶっとおしで演奏に見入ってしまう。若い頃から追っかけというのをしたことはない。遅咲きのおっかけでもいい、チッケットをあきらめきれずにいる。とにかくものすごいパワーとプロフェッショナルなサービス精神がいい。聞けばメンバー3人は、50代後半と60歳とのこと。ますますいい。まだまだこれからと、力が沸いてきた。
それにしても、「65歳以上が4人にひとりの超高齢化社会」なんと響きの暗いことか。「65歳になったら、超高齢者ですよ。あなたは。」と、言われているようで、急に老後の心配をしないといけない気になる。60歳から入居できるシニア向けマンションの広告も多くなってきたようにおもう。ついつい見ているうちに、老後支度モードになっている。「おひとりさまの救急車」から1年、あの時のことを思うと今でも心細くなってしまう。だからと言って、シニアマンション? いろいろ比べてはみるものの「終の住処」とするには抵抗がある。環境もサービスも充実しているようだが、そういうところで余生をのんびり謳歌するのはどうも性に合わない気がして先
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つれづれなるままに 遅咲きのおっかけ
送りした。「ジ・アルフィー」をみればなおさらだ。
「65歳以上の高齢者」と聞くたびに、ちょっと待って!といいたくなる。確かに昔出来ていた家具移動や、脚立に乗っての電球替えは恐くなってきた。でも、どう考えても65歳と90歳が同じ高齢者のくくりになるのは解せない。聖路加の日野原先生を筆頭に90歳をこえても元気で活躍されている方は多い。昔、75歳まではまだまだヒヨッコ、と言われたことを思い出す。その方は今95歳になられるが、頭も言葉も達者である。
(^-^
「超高齢化社会」と聞かされるたび、暗く社会の負のように思うのは私だけだろうか?
4年に1度だった中学のクラス会、いつしか1年に1度となり、毎年恩師が出席してくださる。昨年は88歳の米寿を迎えられた。だんだん先生との年齢差は縮まっていくように感じる。そんな訳
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はないのだが、実にお元気なのである。ものすごく恐かった先生と一緒にお酒を飲めるのも、生徒冥利ということで出席率はいい。そして先生のように年を重ねていけたらと、みんな思っている。そういう年のとり方もある。
韓流の追っかけで韓国エステに通うもよし。好きな役者にはまる
もよし。カメラ片手に全国歩くもよし。グループサウンズに目覚め、
遅咲きの追っかけするのもよし。いざとなったら「りんご買って
きて」と、頼める友人が何人かいればよし。ということで、まだ
まだ超高齢者の恩恵、老後の備えは後に廻してもいいかと考えて
いる。だた、1つ、高齢者の特権、映画が1000円で観られる
のは大いに利用したいと思っている。以前、割引チケットを買っ
て友人に自慢したら「え?保険証見せれば1000円で観られる
わよ。」こういうことのないように、高齢者優遇措置はしっかりチ
ェックしよう。
「年齢は隠せないけど、シミは隠してきれいになろう!!!」キョンキョンは無理でも、高橋恵子やジュディオングは目指してもいいかもしれないと思っている ……
西城勝彦さんの設計協力による病院のリハビリテーション施設。2階の回廊は歩行訓練に利用されています。
気仙沼市街から南下し沿岸部に行ってみました。気仙沼線の駅のある「大谷海岸」は、沿線から電車一本でいける便利な海水浴場として賑わっていたそうです。現在鉄道が不通となっている柳津駅〜気仙沼駅間は「BRT」(バス・ラピッド・トランジット)で結ばれています。津波に直接襲われた南部の被害は特に大きく、綺麗な砂浜は地盤沈下によって大きく後退していました。宮城県の海岸一帯には高い防潮堤を築く計画があり、この美しい景観も大きく変わるかもしれません。サーフィンのメッカとして知られた小泉地区では、防潮堤などを築くため沢山の重機が稼働していました。大規模な土木工事の一方で、人びとの暮らしの到着点は遠くにあり、とり残されているようにも感じました。
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