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5月号 蚕豆 2014
http://collaj.jp/
言葉と旅のつづら織り
時空にえがく美意識
神々のデザイン
写真と文 石井利雄(旭川在住)
突然やってきた春
( 旭川市郊外 男山自然公園 )
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森の樹々は、足元の突然の賑わいに戸惑っている。おまえたち少し気が早すぎないかね、と心配顔だ。まだ吹く風は冷く、強い霜の朝もあるというのに。でも北の春の花々は元気いっぱいに、大丈夫だよ!と逞しい。大雪山の峰々はまだ真冬の装いである。花はカタクリ、エゾエンゴサク(うすいムラサキ)、キクザキイチゲ(シロ)。
中原中也 詩集「在りし日の歌」
春
春は土と草とに新しい汗をかゝせる。その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲(あが)る。瓦屋根今朝不平がない、長い校舎から合唱は空にあがる。
あゝしづかだしづかだ。めぐり来た、これが今年の私の春だ。むかし私の胸摶った希望は今日を、厳しい紺青(こあを)となつて空から私に降りかゝる。そして私は呆気てしまふ、バカになつてしまふ -藪かげの、小川か銀か小波か?藪かげの小川か銀か小波か?
大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに一つの鈴をころばしてゐる一つの鈴を、ころばして見てゐる。
中原中也全集第一巻誌 Ⅰ(平成 年角川書店刊)
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三島由紀夫 真白な椅子
(前略) 病気あがりに子供はあるく稽古をする。家のまはりから、鳩のむらがるお寺まで。看護婦さんがその手をひく。子供はおぶつてほしいのだ。きらきらよろめく小さい靴。ゆつくり雲も動いてゆく。もうおつつけ夕映えだ。市場の旗がたいそうはためく。旗はむなしく影を喰べる。真赤なきいろなたくさんの旗。 ……看護婦さんの手がふいに引かれる。子供は耐へきれずにしやがんだから。目の前の影がつと折れる。光つた裾が平らかに。 ……さし出されるふたつの手。「さあ、お椅子ができました」子供は王さまのやうに腰かける。たとしへもなく真白な -とほいぬくもり。さうしていつも、子供を待つてゐてくれるひとつの椅子!
永い航海からかへつてきて、ふたたび子供はあたりを見廻す。さびしく身はすくめ、茫然とする。あの真白な椅子はどこにもない。 ああ、あの白い椅子はどこにもない。だが目にみえないとほくから、じつとこちらをみつめてゐる、それはやさしい目ざしのやうに、どこかにそれは在るだろう。やがて子供が年老いて、それにふたたび遭ふだろう。十六・八・二一
決定版三島由紀夫全集補巻(二〇〇五年 新潮社刊)
武者小路実篤
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種よ(一)
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種よ、17いたる処におちよ。処を選ばずにおちよ。おちる処におちよ、そして喰ひこめる処に喰いこめよ。根のはれる処に根をはれよ、芽の出せる処に芽を出せよ。執念深く根をはれ、そして出来るだけ生長せよ。種よ。種よ(二)我がまく種よはえられない所にははえないでいゝからはえられる所には必ずはえよ。種よ(三)種よ。お前は何処におちるか私は知らないだがはえた時にお前は私にあいさつするだらう、種よ。何処かで。
(昭和 年 月 日)
武者小路実篤全集第十一巻(一九八九年年小学館刊刊)
井上靖 室生寺の五重塔
井上靖 美しきものとの出会い 室生寺の五重塔
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仏像とか、庭とか、茶室とか、そうしたものとの出会いは、人間との出会いに似ている。気にいったり、感心したりすると、それとのつきあいは一生に及んでしまう。相手が人間であると、途中で嫌いになったり、仲違いしたりすることもあるが、仏像や建物の場合は、まあ、そうしたことはなさそうだ。一度惚れこむと、
1
一生惚れこんでしまう。惚れこみ方が感動という純度の高い形をとり、多かれ少なかれ、魂を相手に売り渡してしまうところがあるからであろう。
(中略)
若い日、自分がこんな美しい塔はないと思った塔は、自分の前にや
はり美しく立っているのである。朱塗の柱と白い壁が何とも言え
ぬ美しい対照をなしており、各層の軒ノ出は思いきって深い。少
しも抹香臭いところはない。無数の小さい装飾物で全身を飾られ
ている塔である。謂ってみれば、鈿(でん)や歩揺(ほよう)で
飾られた塔だ。風が吹くと、装飾物は互いにぶつかり合って、金
属性の小さい音を出して鳴り出しそうである。
初出 昭和 年『文藝春秋』新年特別号新連載「美しきものとの出会い」
井上靖全集 第二十五巻 (1997年 新潮社刊)
BC工房 主人 鈴木惠三
緑と青
泉鏡花 伊勢之巻
泉鏡花 伊勢之巻
「旦那様、決してあなた、勿体(もったい)ない、お急立(せきた)て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極(きま)り遊ばしていらっしゃいますかい。」 客はものいわず。
「一旦どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」
「何、山田の停車場(ステエション)から、直ぐに、右内宮道とある方へ入って来たんだ。」
「それでは、当伊勢はお馴れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。 .」と、婆々は客の言尻(ことばじり)について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。
「どうして、親類どころか、定宿もない、やはり田舎ものの参宮さ。」
「おや!」 と大きく、
「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪(べっぴん)が、お袖を取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お褥(しとね)を敷いて、花を活けました、古市があるではござりませぬか。」 客は薄ら寒そうに、これでもと思う状(さま)、燗の出来立のを注いで、猪口ちょくを唇に齎(もた)らしたが、匂を嗅だばかりでしばらくそのまま、持つ内に冷くなるのを、飲む真似して、重そうにとんと置き、
「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺が顕(あらわれ)たり、そうかと思うと、足許に田の水が光ったりする、その田圃も何となく、大な庭の中にわざと拵(こしら)えた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤になる。あすこだろう、店頭の雪洞(ぼんぼり)やら、軒提灯(のきぢょうちん)やら、そこは通った。」
三
「はい、あの軒ごと、家(や)ごと、向三軒両隣と申しました工合に、玉転し、射的だの、あなた、賭的(かけまと)がござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、灯(あかり)が沢山点きまして、いつも花盛りのような、賑(にぎやか)な処でござります。」
「泉鏡花集成 4」(1995年筑摩書房)
夏目漱石 こゝろ
夏目漱石 Kokoro(こゝろ) Meredith Mckinney英訳 CHAPTER 110 My aim has been to present both the good and bad in my life, for others to learn from. I must make clear to you, however, that my wife is the sole exception.I want her told nothing. My one request is that her memory of my life be preserved as possible. While she remains alive,I therefore ask that you keep all this to yourself, a secret intended for your eyes alone.
PENGUIN BOOKS
百 十
(前略)私は私の過去を善悪ともに他(ひと)の参考に供する積です。然し妻(さい)だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中に仕舞って置いて下さい」
漱石全集 第九巻 (一九九四年 岩波書店刊)
森茉莉「ドッキリチャンネル」
森茉莉「ドッキリチャンネル」から大平首相の死、林作と林太郎 その他
大平首相が死んだ後誰が言うのか政界に、大平首相の死を乗り越えて進もうとか、大平首相の弔合戦をしなければ、なぞという声があるが滑稽である。前々回だったか私は、室生犀星の死が今日か明日かという時、東京新聞の人が来て、犀星の死後の感想を書けといい、私が仕方なく覚悟を定め、室生犀星の弔合戦だと思って文章を書いた時のことを書いたが、それはほんとうに哀しく、哀しみが極まったところで出て来た勇気だった。突然苦しいところに追い詰められて出た力だった。弔合戦も室生犀星ならおかしくはない。ぴったりする。文章というものに命をかけて生きた人間の弔合戦である。世界に何人という文学者、しかも私に、温かな愛情の星を惜しげもなく懐から零し与えてくれた犀星の死を前にして、その人間の死後の感想を書かなくてはならない羽目になった私は、(弔合戦だ)と思わなくては書けなかった。合戦の時、(中略)軍卒は仲間の死体を乗り越えて進まなくてはならない。侍大将の死骸だって踏んづけて進まなくてはならない。室生犀星の死が逼っている時、その死後の感想を書くということは、自分の周囲で仲間がばたばた倒れて死ぬ、その中を遮二無二突き進まなくてはならない兵卒と同じような、無我夢中の気持で遣らなくては遣れない、苦しいことであった。室生犀星は室生犀星より他にもう一人はいない、類と真似手のない文学者である。
森茉莉全集 6(1993年 筑摩書房刊)
立原道造 24歳の手紙
立原道造(※) 歳の手紙
一九三八年(昭和十三年)八月一日[月] 深沢紅子(※)宛/大森発
24
24
ばかな僕と、ばかなお医者とが、僕を一月ばかりじつとしてゐるやう
にきめてしまひました。七月のなかばすぎまであまりいそがしくはた
らいて身体をいぢめたので20 それで、といひます。しかし今ではもう
寝たり起きたりしてゐます。かるい肺尖カタルといふのでしたけれど、
ほんたうにかろくてもうなほつてしまつてゐます。だから、その中に、
四、五、六、のうち一日ここをぬけ出しておたづねしませうかしら。お
天気と朝の気分とがそのうちのどの一日かをきめるので、それではつ
きりどの日と今からは申し上げられません。このあたりも草が多くて
緑のなかで毎日ひとりぼつちにしづかにあけくれてゐます。いろいろ
なことをかんがへてはすぐにわすれます。わすれてゐるのはほんたう
にいいことだとおもいひます。それからお会ひしたら、おねがひがあ
るのですが、すこし夢のやうなおねがひゆゑ、どうなるかわかりませ
ん。では、行かれたら四日か五日のどちらかに伺ひます。そして、多
分五日に。お返事にならないお返事ですみません。お身体をお大切に。
立原道造全集 5(2010年筑摩書房刊)
※立原道造は、
1914年(大正 3年)生まれの詩人・建築家。東京帝国大学工学
部建築学科在学中に辰野金吾賞を 3回受賞。軽井沢で小説家・室生犀星に師事し、堀
辰雄と深く親交する。 歳で急逝。
※深沢紅子
岩手県盛岡市出身の洋画家。岡田三郎助に師事し、堀辰雄や立原道造の本の装幀のほか童話の挿絵なども多く手がけ、絵画指導を通じて岩手の児童教育にも尽力した。1960年代から約 年、旧軽井沢の「堀辰雄 1412番山荘」にて夏を過ごす。軽井沢市と盛岡市に「深沢紅子野の花美術館」がある。
向田邦子「男どき女どき」
向田邦子 無口な手紙 「男どき女どき」より
自分がおしゃべりのせいか、男も手紙も無口なのが好きである。特に男の手紙は無口がいい。 昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持を伝えるのに石を使った、と聞いたことがある。 男は、自分の気持にピッタリの石を探して旅人にことづける。受け取った女は、目を閉じて掌(てのひら)に石を包み込む。尖った石だと、病気か気持がすさんでいるのかと心がふさぎ、丸いスベスベした石だと、息災だな、と安心した。
「いしぶみ」というのだそうだが、こんなのが復活して、「あなたを三年待ちました」 沢庵石をドカンとほうり込まれても困るけれど(ほんとにそうだと嬉しいが)、「いしぶみ」こそ、ラブレターのも・と・ではないかと思う。
(中略) 手紙にいい手紙、悪い手紙、はないのである。どんなみっともない悪筆悪文の手紙でも、書かないよりはいい。書かなくてはいけない時に書かないのは、目に見えない大きな借金を作っているのと同じなのである。
初出:サンデー毎日昭和五十四年二月十一日号
向田邦子全集〈新版〉第十一巻(平成二十二年文藝春秋刊)
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第9回
薔薇の薫りにつつまれて
早朝の新幹線こだまの自由席。席はまばらである。 3人かけの窓側にすわり、荷物を真ん中席に置く。陽気のいい日曜日である。品川駅で旅行カバンを持った人が多く乗ってきた。少し座席が埋まったが、まだ私の横は空いている。新横浜では席を探しながら車両を移動している人もいた。そこへ、バラを大事にかかえたご夫婦が、立ち止まって席を探している。あわてて真ん中の荷物を引上げ、「どうぞ」と、声をかけた。ご主人は 1つ前の席に、白い紙袋に入ったバラをもつ奥様は、席を 1つあけて通路側に座る。バラは真ん中の席に置いていただいた。色とりどりの美しいバラ。深紅にちかい大きな花びらを持つものや、可憐で淡いピンクの小さなつぼみなど、色とりどり見たことのないバラがそこにある。あまりの美しさに写真を撮らせてもらいたいと声をかけた。聞けば、早朝ご自宅の庭で摘んだとのこと。これから行く旅館の女将さんへのお土産だと言う。なんとすてきな計らいだろうと、しばし話しをする。毎日 4時半に起きて、犬の散歩を 1時間、それから庭の手入れをする。 7時になると日がすっかり昇るので、それからではバラがかわいそうという。毎日欠かさずの日課だそうだ。婦人雑誌から抜け出たような光景が目に浮かぶ。空席に置かれたバラの薫りに包まれながら、これから行く旅館の話、ご主人と一緒の趣味やゴルフなど他愛もない会話が続いた後、是非薔薇を見にいらっしゃいと誘ってくださった。横浜近郊の方かと思ったが、世田谷で私の自宅からもさほど遠くない。名前を言うと、スバリ生まれ年を言い当てた。名前から年をあてたその方は 1
つれづれなるままに薔薇の薫りにつつまれて
つ違いであった。年を言い当てられても悪い気がしないのは品
の良さからだろうか ?はたまた血液型が同じだったせいか、バラの園で忘れかけていた女学生時代を思い出すようなひと時だった。先に降りられるご夫妻に「ごきげんよう」と挨拶をした。一人になってもしばし余韻が残る。久しくこのような会話をしたことがない。バタバタドタドタとは言わないが、毎日慌ただしく過ごしていると、なかなかこんな挨拶言葉は使わない。薔薇の効果か、その方のかもし出す優雅さか、ゆったりとした会話を楽しむのも悪くない。こんなときは、ダージリンの紅茶が飲みたくなる。誘ってくださった薔薇のお庭を是非見に行きたいと思う。それにしてもメモに書き留めた旅館は、伊豆の山奥にある古い旅館だそうだが、そのおもてなしのすばらしさに年に数回通っているという。こちらも是非行ってみたいと思っている。庭の手入れも今のうちの楽しみと話し、先の老後はどこにしようかと、これもまた、いろいろ考えているとのこと。毎日 4時半からはじまる健康リズムと、楽しみながら続けているバラの手入れは、素敵な笑顔を作る秘訣のようだ。今週末には自宅の小さなベランダにバラの鉢植えを飾ってみよう。まずは、真似からはじめてみようと思う ……。
辻 潤 夢想庵のプロフィル
第二巻
Lexicon
辻潤 夢想庵のプロフィル
これまでにも、夢想庵に興味を持った人達から、たびたび
「武林さんという人はどんな方です?」ーなどときかれる
たびにーその時の自分の勝手な気持ちで、いい加減な棚卸しをやってきたはずだ。しかしあらたまって活字にするために、武林君の紹介をやるのはこれが初めてだ。武林くんが洋行などして、ブチット・マドモワゼル・イヴォンヌなどをお土産にしてエッチラ、オッチラと御苦労にも「改造」の小説を書くために舞い戻らずにー鵠沼あたりで心中でもやっていたら、ーこんなお鉢は僕にまわってこなかったかも知れない、夢想庵の口調を借りれば「一切これ因縁生さー」
忘却来時通ー混沌ー猫と婆さんー
アーキンチャニヤー鳩居堂ー番茶ーウイスキーー土瓶ー深山聚落ー摩訶止観ーヘルプ!ヘルプ!アバロウキテシュバラアーライトモのチンチョウー迅電光ー撃石火ー小式部ー苦集滅道ー六波羅密ーナウモフー植物のようにーなどと、無数
のボキャブラリイが私の頭脳の一角にしまって在る
を繰ると出てくるがーこんな単語のようなもの
をいくら並べ立ててみても、畢竟それは私自身の独り合点に過ぎなくなる。これらの単語をパラフレーズして、更に懇切丁寧なデテールにわたるとなれば、僕もまた第十何指かの方向へ歩き出さなければならなくなるだろう。
辻潤全集 (昭和五十七年 五月書房刊)
An other Ken
ー般若ー
Musoan
竹久夢二 桜の園よ さやうなら
竹久夢二
桜の園よさやうなら
この一篇をアアニヤに扮せる夏川静江嬢におくる。
揺籃(ゆりかご)だったふるさとの
「桜の園」よさやうなら。わたしのちひさい巣であつた昨日の家をすてませう遠いあなたのうた声にあはせるためにゆきませう。あかつきがたの風のやう野山を越えてゆきませう。
遠い野末のうすあかり
明日の家へすみませう
そして小径のかたはらへ
春の上着をぬぎませう。
竹久夢二文学館 第5巻詩文集Ⅲ(1993年 日本図書センター刊)
与謝野晶子 みだれ髪
鉄幹晶子全集
与謝野晶子 みだれ髪
臙脂紫から
髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ
臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴にもたす乱れ乱れ髪
くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き
(平成十四年勉誠出版刊)
高村光太郎 対談「朝の訪問」
高村光太郎 対談「朝の訪問」(ラジオ番組未放送)
僕はいったいにね、北方的なんです。北原白秋みたいに南方的でない。元からね。それで、東京で生まれたんだけれども、東京の人
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には「江戸っ子の面汚しだ」って言われるくらい、もう、東京的ではないんですよ。言葉も、あれでしょ。どっかズーズー弁みたいなところがある。で、その、こっちが好きなわけでね。で、岩手が、岩手の大地がすきな、岩手の牛みたいな性格ですね。しっかりものをやって、確かにものをやって、で、のろいですよ、すごく。のろいけれども確かにやるってことは、確かにやる。根本からやるってことは、日本の生活の中に非常に欲しいところなんです。ええ。これは、これまで、明治以来、あんまり文化の進み方を速く急いだから、根本からやるってことはおろそかになった。それでものをしっかりこさえるってことが、どうもうまく行ってない。で、国民性にも、国民性まで、そうなりがちだったですね。かえって、その、昔は、そういうこと、できていたんです。昔の手の周りの道具類とか家具類なんかよく見ると、しっかりできてんですね。明治以来の商品化したそういうものは、もう、すぐ壊れるようにできてる。これじゃ、あの、とてもいけない。で、岩手は、そこ、まだ、その伝統、生きてるんです。
(中略)
やっぱり、あれですなあ。何だか根強くって、うーん、やはり、あの、
端っこにある国だけれども、美に対する敏感さを持っている国民
で、地味だけれども、よくやる、誠実で、いい国だ。そういうふ
うに人に感じられるような国になってもらいたい。やはり、美に
対する感じは、日本人は本来持っているんです。それは、どうか
して、ほんとに、大きかったですね。で、一人や二人じゃなしに、
みんなが持ってる。岩手はね、その庶民階級がいいんです。それ
が僕はすきなんです。
昭和二十四年十一月十八日に盛岡放送局で録音された。十二月二日のラジオ番組「朝の訪問」で放送予定だったが、実際には放送されなかった。その理由も明らかではない。
光太郎遺珠 没後 年記念 (2006年高村光太郎記念会刊)
横光利一 橋を渡る火 畠山勇子のこと
横光利一(※) 「橋を渡る火畠山勇子(※)のこと」
(ニコラス)太子は日本を去って三年目にニコラス皇帝となり、それから十年目に日露戦争が起つてゐるが、當時、もしその場か
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ら戦争になれば、まだ何の準備もなかつた日本だったことを思ふとき、このときほどの危さは日本にそんなになかったことであらう。ただ私らは、見えないそこに懸かつた橋を知らずにゐるだけだが、事實は、まつたく大熊と兎ほどの對決で、冷汗の出て来るほどの危機を孕んで過ぎてゐる。 (畠山)いふ子の自刃が十三年の間、日露の戦争を引き延ばしたと仮定してみることは、赦されないことだらう。しかし、そこに何らの力をも與えてゐないとは、誰もまた断言することは出来ぬ。ともあれ、もしあのとき日露の開戦がわが國に不利となつた場合を想像すると、現在の東亞の全貌は、見る影もない蝿の群落した姿となつて横はつてゐたことだけは確かであらう。まことにいふ子も、誰にも分らぬ危い河に懸つた橋の上を、けなげにもただひとり燈火をかかげてよく渡つていつたといふべきである。 勇子の墓は、京都市下京区松原通大宮西入西寺町、末慶寺内にある。
定本横光利一全集 第十一巻(昭和五十七年 河出書房新社刊)
※
横光利一は、川端康成と共に新感覚派の旗手として一世を風靡した小説家。
文芸銃後運動への参加などにより敗戦後の一時期、文壇の戦犯と非難される
が、近年は、その先進性にたいする再評価が進んでいる。
※畠山勇子は、明治
年の大津事件(訪日中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で警察官・津田三蔵に斬られた事件)によって日露関係が緊張した際、皇太子ニコライへ謝罪の遺書を残し、京都府役所前で自刃した千葉出身・東京在住の女性(当時 歳)。「烈女勇子」として評判となり、ラフカディオ・ハーンなどによって海外へも伝えられた。
木材塗装の基本をプロが伝授
第26回木材塗装基礎講座 6月 27日(金)開催
昨年好評を博した、木材塗装研究会の「木材塗装基礎講座」が、東京都立産業技術研究センターで開催されます。木製品や建築木部に高付加価値を与える木材塗装の基礎について、各分野の専門家が分かりやすく解説し、要望の多かった塗装実演(水性着色剤の着色塗装技法など)も行われるそうです。家具・インテリアデザイナーや建築士の方々にもおすすめの、実践的な内容です。
■場所東京都立産業技術研究センター本部 (ゆりかもめ テレコムセンター駅)
■受講料 (昼食含む) 会員 20,000円/ 会員外 25,000円参加申込みは木材塗装研究会のホームページ(下リンク)へ
【 主なプログラム 】 2014年 6月 27日(金)9:30. 17:00
■塗装から見た木材の性質 .良い塗装のために素材のことを知ろう.
独立行政法人 森林総合研究所 木材改質研究領域 機能化研究室 室長 片岡 厚氏
■木工塗料の種類と性質 .木工用塗料の詳細およびその選択方法についての解説.
神奈川県産業技術センター 工芸技術所 専門員 鈴木隆史氏
■塗装工程の組み方とその役割 .木地調整から仕上までの各工程の目的とポイントを解説.
地方独立行政法人 東京都立産業技術研究センター 表面技術グループ 副主任研究員 村井まどか氏
■ 着色剤の種類と着色方法 (実演) .木材をより美しく仕上げる着色の基本の解説と実演.
キャピタルペイント㈱ 東京営業所 所長 長澤良一氏
■ 屋外木部の塗装=木材保護塗料(WP)の活用について .屋外木部の風化を防ぐために.
日本エンバイロケミカルズ㈱ 保存剤事業部 木材保存剤営業部 テクニカルアドバイザー 小林勝志氏
■ 木工塗装の欠陥と対策 .欠陥の原因を楽しく謎解きし、作業に活かすコツを解説.
職業能力開発総合大学 基礎ものづくり系(木工・塗装ユニット) 准教授 坪田 実氏
■塗装関連機器設備の紹介
地方独立行政法人 東京都立産業技術研究センター 開発本部 開発第二部 部長 木下稔夫氏
都立産業技術研究センターの塗装関連設備 (写真はイメージです)。月号から。 01年3102コラージ ▼
■なんでも相談コーナー木材塗装研究会全委員
萩原朔太郎 『定本青猫』より
くづれる肉體
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蝙蝠のむらがつてゐる野原の中でわたしはくづれてゆく肉體の柱をながめた。それは宵闇にさびしくふるへて影にそよぐ死びと草のやうになまぐさくぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。ああこの影を曳く景色のなかでわたしの霊魂はむずがゆい恐怖をつかむそれは巷からきた船のやうに 遠く亡霊のゐる島島を 渡つてきた。それは風でもない 雨でもないそのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。さうして蛇つかひの吹く鈍い音色にわたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。
定本青猫 昭和 年発行萩原朔太郎全集 第二巻 昭和五十一年 筑摩書房刊
茨木のり子こどもたち
茨木のり子詩集『対話』より
こどもたち
こどもたちの視るものはいつも断片それだけではなんの意味もなさない断片たとえ視られてもおとなたちは安心しているなんにもわかりはしないさ あれだけじゃ
しかしそれら一つ一つとの出会いはすばらしく新鮮なのでこどもたちは永く記憶にとどめているよろこびであったもの 驚いたもの神秘なもの 醜いものなどを
青春が嵐のようにどっと襲ってくるとこどもたちはなぎ倒されながらふいにすべての記憶を紡ぎはじめるかれらはかれらのゴブラン織を織りはじめる
その時に父や母 教師や祖国などが海蛇や毒草 こわれた甕 ゆがんだ顔のイメージで ちいさくかたどられるとしたらそれはやはり哀しいことではないのか
おとなたちにとってゆめゆめ油断のならないのはなによりもまず まわりを走るこどもたち今はお菓子ばかりをねらいにかかっているこの栗鼠どもなのである
茨木のり子集 言の葉 1(2002年 筑摩書房刊)
ときには暗い
沖縄文学全集第
勝連敏男 島の棘はやわらかく
島の棘はやわらかく何処の根よりも 深い場処幻の棘は でいごの花のように美しく ときには醜いでも いちばん暗い処ではみんなそれぞれ醒めたままに在る島の棘 幻の棘 暗い花明るい処からも 暗い処からもみえる海は おだやかな深い眠りのままに永い
だからなのか 海のむこうのまぼろしの島々は仏桑華の花のように まぶしく
巻 詩Ⅱ(一九九九年 国書刊行会刊)
富岡多恵子 「吠える」
富岡多恵子「春先の風」から「吠える」
犬につれられて近所の丘をのぼるとダンチが並んでいますそのあたりから富士山の見えることがありますわたしはしばらく夕方の富士山を眺めますダンチの建物の窓にあかりがつきます窓の向うのあかりの下で人間がゴハンを食べています窓の向うで子供がねむり男も女もねむるのですわたしはたくさん並んだ窓を見ています10わたしは暗闇の富士山に背を向けてしゃがみこんでダイダイ色の窓を見ています窓はすぐそばにありますわたしと犬との距離よりも窓との距離の方がずっと近いのです手を伸ばせば窓は開きますしかしわたしは窓に手をかけられませんもしわたしがひとつの窓に手をかけたら幾百の窓がいっせいに開きダイダイ色の人間がとび出してきますわたしは犬をつないだ皮のヒモをしっかり握りしめ身構えて立ちはだかります幾百の窓の向うからもしひとりでも窓に手をかけたらわたしは犬より先に吠えるのです
初出 「現代詩手帳 5月臨時増刊 富岡多恵子 1976年 5月 日号」に「小詩集」として発表。
富岡多恵子集 1 詩 (1999年 筑摩書房刊)
田村隆一 詩集 「奴隷の歓び」
田村隆一詩集「奴隷の歓び」より
女奴隷の歌
わたしは機械を産めばいいいつのまにかお腹が大きくなって満月の夜にわたしは機械を産むの男の子だったら機械の機械女の子だったら機械を産む小さな機械仔馬の赤ちゃんだったら生れたとたんにトコトコ走って行くけれど人の子ってほんとに世話がかかるヨチヨチ歩きまで三百日機械になってくれるのが三千日奴隷になるのに六千日愛ってほんとに時間がかかるものそれでもお腹だけはアッというまに大きくなるわ
田村隆一全集 3(2010年 河出書房新社刊)
高峰秀子 私の梅原龍三郎
高峰秀子 私の梅原龍三郎「カニ」
私が最初に梅原先生のモデルになったのは、昭和二十五年の夏だった。
日本最初のカラー映画、木下恵介監督演出の「カルメン故郷に帰る」の長
期ロケーション撮影で、私は軽井沢千ヶ滝の宿に滞在していたが、梅原先生
も夏の浅間山をお描きになるために軽井沢にいらしていた。
お天気が悪いと浅間山は姿を現さず、先生は絵を描くことが出来ない。私
もまた、お天気が悪いと浅間山は姿を現さず、先生は絵を描くことが出来な
い。私もまた、お天気が悪いと撮影は中止である。
ある日、梅原先生から「秀子サン。今日撮影がないなら、ちょっと座って
くれますかね? おひるは家で用意しておくから」と、電話が入った(座る、
というのはモデルの意味である)。宿でゴロゴロしていた私は迎えの車に乗
って矢ヶ崎に向った。
当時の梅原先生は有島生馬さんの別荘を借りて住んでいたらしいが、アト
リエがないので小さな洋間をアトリエ代りに使っていた。美しい艶子夫人と
梅原先生の他には人の姿はなく、緑に包まれた家はひっそりと静かだった。
上等の赤ワインとハム、ソーセージ、フォアグラ、トーストなどの昼食が
終ると、梅原先生は小さなスケッチブックと色鉛筆を用意して、モデルの私
と向き合った。
先生の、ただでも鋭い眼がカッと見開かれ、鉛筆が素早く動いて、あッと
いう間に最初のデッサンが出来上った。先生は絵と私を見比べて、「似てい
ないな ……似ていない」と呟いて首をかしげた。しばらくして、先生はへの
字に結んでいた唇を開いた。「眼をね、大きく描きすぎたんだ。だから似ていない。秀子サンの眼は大き
いのではなくて、眼の光が普通の人より強いんだ。それで眼が大きく感じら
れるんだね ……秀子サン疲れたでしょう。今日はこれでお終いにしよう。
また来てくれますか?」
また来てくれますか? が何回か続いて、ついに完成した絵を見て、私は
仰天した。黒くふちどられた眼窩から目玉がはみ出していたからである。真
赤な上衣を着て眼の飛び出した私は、いままで私の見たことのない私だっ
た。「なんだか ……カニみたいだな」「ふふーん、カニねぇ、そういや、カニみたいだ ……」
以来、梅原先生と私は、この絵を「カニ」と呼ぶようになった。
私の梅原龍三郎 高峰秀子(1997年 文藝春秋刊)
2
月末、東京・青山にあるイタリア大使館貿易促進部で行われた、マ
ルケ州産のワインと各種食材販売促進のためのプレス発表。開始
に到着したのに、既に補助椅子という大盛況で、イタリア側の力の入れようも半端じゃありません。駐日イタリア大使、マルケ州知事、そして、知事に同行してやってきた、この日の真の主役、マルケ州飲食関係業者の「東北アジア食市場開発ミッション」とでも呼ぶべき一団。これが約
時間にわたって、次々とパワーポイントを使いながらのプレゼンを繰
り広げました。その陣容はといえば、オーガニック食品、パスタ、トリュフ、野菜加工&ソース各種、オリーブオイルそして、ワイン製造業者からなる全7社の代表と、コックさんにワイン組合の会長さんといった
顔ぶれ。いずれも個性豊かなマルケ州の食関連企業や組合の代表者たちで、上海からソウルを経て、最後の訪問地が東京であったようです。一方、ジョルジ駐日イタリア大使はフーデックスのプレス発表で、この2週間前にお姿を拝見したばかり。イタリア政府が食の対日輸出に並々ならぬ力を注いでいることが窺われます。
会見では、マルケ州知事ジャン・マリオ・スパッカ氏の挨拶が印象的でした。スローフード運動や持続可能な発展への志向と共鳴する内容で、マルケ州の産業通商政策も文化政策も、より豊かなライフスタイル実現への道筋である。その一環として、食もあれば、モノ作りもあれば、観光もある、という視野の広いお話。単に「お題目」を並べた挨拶とも思
中央:ドメニコ・ジョルジ駐日イタリア大使。
マルケ州内陸部は、大半が起伏に富んだ丘陵地帯。
パッカ氏。右:マルケ州知事ジャン・マリオ・スパッカ氏。左:イタリア大使館貿易促進部代表アリスティデ・マルテッリーニ氏。 マルケ州知事の、ジャン・マリオ・ス
分前
19
「東北アジア食市場開発ミッション」の派遣も、知事の緻密な戦略にもとづく戦術の一環だと思われます。それは「クール・ジャパン」で「日本食の魅力を世界に」という、中央主導のまるで地に足の付かない掛け声に、予算配分目当てに地方の一部がぶら下がるという我が国の状況とは正反対。下から上へと着実に政治を積み上げていく、「地方こそ原点」的発想に立つものです。
マルケ州は広さ約1万平方㎞で人口は 157万人、日本の青森県と広さと人口が同じ程度。州都アンコーナの他にルネサンス都市として世界遺産にもなっているウルビーノが著名で、地域全体として 世紀末までの約千百年間「法王庁の直轄地」でした。州都アンコーナは元々古代ギリシアの植民都市として発展した港町。目と鼻の先にあるヴェネツィアとは長らく競合敵対関係にあり、その結果として、アドリア海対岸のラグーサ(ドブロヴニク)と同盟関係にあったという興味深い歴史があります。風光明媚な海岸と、丘陵の続く起伏に富んだ内陸部。小麦の栽培に適しない地勢で、農業では酪農と白トリュフに代表される森の幸、それに牛や羊といった食肉加工。「産業」
記者発表会場に用意された試食コーナーは、記者たちで大混雑。
パスターメーカー スピノージ社 社長はじめ、飲食関係業者の皆さん。
えない真面目さで、 世紀の新たな人間の暮らしの基盤を模索する、深い思考が秘められていると感じました。で、この知事さんのこと、少し調べてみました。
61
現在 歳で、ローマ大学サピエンツァ校の法学部出身。卒業論文は意外にも刑法で、その指導教官がなんと、アルド・モロ氏。 3回に渡ってイタリア首相を務め、 3度目の首相在任中( 197218年)、極左テロ組織「赤い旅団」に誘拐殺害された、イタリア政治史上特筆されるべき「悲劇の宰相」です。このことがスパッカ知事の精神形成と後の政治手法に大きな影響を与えたであろうことは容易に想像がつきます。大学卒業後、地域経済発展の施策を研究立案するメルローニ財団の調査研究部門に就職。その後、州の経済雑誌編集長や幾つかの公職を経て、2005年に州知事として初当選を果たし、再選を経て現在に至っています。なぜ、知事の経歴を細々と書いているのか。
それは、スパッカ知事のこうした職歴で養われた政策立案能力と抜群の行動力が、州の行政全般に反映されているらしいということが、随所に見えるからです。今回の
としては、製靴業と家具そして楽器作りで知られます。グルメな作曲家ロッシーニの
故郷でもあり、毎年8月に州第
2
の都市ペーザロで開かれるロッシーニ・オペラ祭が
有名。風光明媚な自然、中世都市とその文化、そして海の幸と山の幸の魅力が一杯の地域です。
手元にあるイタリア料理の本では、ピエモントやヴェネト地方と並んで、「マルケ地方の料理」に一章が当てられています。それだけ特徴のある郷土料理の世界があるということです。その食材やお料理そしてワインに興味のある方は、手始めに、下記のウェブサイトを御覧ください。先日行きつけの輸入食品屋さんの棚に、マルケ州のワイナリの白を発見してビックリ。プレス発表の会場に置かれていた会社のものです。
店員さんに話を聞けば「この前この会社の社長さんが日本に売り込みにいらしていたそうです」。スパッカ知事の緻密な戦略が功を奏して、早くもミッションの成果が店頭に現れている。マルケ州のワインなんて、これまでこの店で見たことありませんでしたから。知事は数年前から、アラブ圏の豊かなオイル・マネーの地域への投資を目指して、アラブ首長国連邦との経済関係強化という興味深い施策を着々と行っています。また一方で、不法に地域から持ちだされた古代の青銅像の返還を求めて、カリフォルニアのゲッティ・ミュージアムに乗り込んで交渉を求めるという勇ましい一面も。 面白そうな人なのです。というわけで今回は、マルケ州の食よりも知事の行政手腕とその人物像に興味津々というお話になりました。
パスタメーカー「スピノージ社」の商品見本。
自然食「ラ・テッラ・エル・チェーロ社」の商品見本。マルケ州のワイン各種。
林芙美子 フローベルの戀
林芙美子フローベルの戀「感情」
私の古い日記の五月二十三日のところをめくってみると、この日は晴天で、白いかきつばたの美しさにみとれてゐる。今日の獨ソ戦はハリコフで激しい砲火を交へた。廣いウクライナの北方にあるハリコフも、もうこのごろは雪解けの頃であらうか。ドイツ軍の指揮官はフォン・ホック元師、ソ聯側はチモシエンコ司令官、この兩國きつての二人の智将が、昨夏の中部戦線以来、再びハリコフで大軍をひきゐて相まみゆるこの戦いは、ドネツ盆地を境にして、相當長期にわたるのではないかとも考へられる。ウクライナの大耕地を中央にして、東にドネツ川、西にドニエブルの大河をひかへて、このごろの麦の収獲はどのようになつてゐるのだらうとそんな事を空想してみたりする。兩国の動員兵力、武器弾薬は破天荒の藪量にのぼり、その勝敗は今後の全作戦に影響するところがかなりあるにちがひないのだ。獨軍は主力をイジユームとバルベンコウヴオ(ハリコフより南方へ百二十キロ)の二つの市街攻略に向けてゐると云ふことだ。生きるといふことはなかなか大変なことだ。 だけど、何と云う自然の美しさであらうか。雲の去来は悠然として豊年のきざしを示してゐるし、この美味い空気の中には、本當の硝煙の匂ひはみぢんもまじつてはゐないのだ。
林芙美子全集 第五巻 (昭和五十二年 文泉堂出版刊)
松尾芭蕉
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
松尾芭蕉全発句集 (二〇〇三年 永田書房刊)
草野心平「敬老の日に」
宇宙のなかで殊更に。最も年寄りのこの地球に。ワンサ動植物の繁栄するこの星に。三十二億年も生きつづけ。老いてなほ新鮮なこの惑星に。深甚。敬老の念をささげる。
草野心平全集第四巻 (昭和五十八年 筑摩書房刊)
武満徹 自らを語る
武満徹 自らを語る
■「三人の会」(※)なんかもそのころから? ……武満 いや、「三人の会」のまえですね。まえだけども、もうそれぞれすごい有名だったんです。ただまあ、ぼくなんかは、どっちかっていうと芥川さんとか黛さんとか團さんの音楽にひじょうに批判的
!?
だったんですね。生意気で。で、ときどき沙織さんのアトリエに遊びに行ったりすると、也寸志さんをときどき見かけたんですよ。也寸志さんと話したこともあるんだ。それで、話をしてて、ぼくがピアノを持ってないということも知ってて。ただぼくが生意気で、人の批判もするんだよね。心臓にも、也寸志さんに議論をふっかけたりね。すると「武満くん、そんなこと言ってないで、それより一曲でも多く曲を書くことが大事なんだよ」と言われて、それはいまでも肝に銘じているんだけど(笑)。 で、芥川さんが黛さんに言ったんですね。こういう男がいて、ピアノがないんだ、と。もしかしたら、ちょっとおもしろそうだからっていう話だったんじゃないですか。だからぼくは黛敏郎という人と面識なかったんだけど。それこそ暑い夏の日だったけれども、とつぜんピアノが来ちゃったんですよ。
■ 予告なしに?
武満 うん。どうしたの と思ったら、これは黛さんという人か
らお届けするように ……。これはだけどほんとうに信じられないよ
うな話でしょ。それですぐ調べてね、黛さんのところに会いに行き
ました。どうしていいのか、ほんとにもらっていいのかどうか。そ
したら黛さんはその当時結婚したばかりで、桂木洋子さんというき
れいな女優さんと結婚して、それで奥さんはもうピアノ持ってて、「女
房のピアノなんです」って言うの。「うちに二台あってもしょうがな
いので、よかったら使ってください」って。それじゃあ貸してくだ
さい、っていうことで ……。なにしろせまい下宿でしたから、ピア
ノが入ってどうしよう、ってくらいだったんですよ(笑)。
武満徹 自らを語る (2009年青土社刊)
※「三人の会」1953年 芥川也寸志 黛敏郎 團伊玖磨で結成。
寺山修司「幸福論」
寺山修司「幸福論」
きわめて厄介なのはもう一つの「どうしても自分を好きになれない人」の問題である。「どうしても自分を好きになれない」人は、ほかの人をも好きになることがない -そこではつねに「出会い」が死んでいるのである。私は、この「幸福論」で、性についてもっと扱いたいと思ってきたのは、「自分を好きになれない人」の問題であった。一体、自分を好きになれない人にとっての性生活とは何か? オナニーの社会性をどうとらえるのか? 集団オナニーにおける幻想の生産性は、どのような連帯をもたらすだろうか?
あなたは無人島で一人でくらせますか?
ふたりならばくらせますか?
腹が立ったときにどうやってしずめますか?
自分の思想と他人の思想との比較に興味を覚えますか?
自分の性器と他人の性器との比較に興味を覚えますか?
自分自身は悲劇的ですか、喜劇的ですか?
政治的解放の次に何の解放を求めますか?
理性が必然的であると思いますか?
性行為中に、相手のオーガニズムをたしかめますか?
空の星を数えたことがありますか?
人に好かれていると思いますか?
幸福ですか?
寺山修司著作集 第 4巻
自叙伝・青春論・幸福論( 2009年クインテッセンス出版)
安部公房 思い出
安部公房 思い出
幼年の思い出はいつわりにみちている。 白い砂ほこりの中を、三頭立ての荷馬車がコトコト進んでいた。いや、コトコト鳴っているのは車のそばにつった黒い油壺で、馬車はギイギイほとんど悲鳴にちかい、叫び声をあげていた。馬車夫が五メートルもあるムチをふりあげて宙をうつたびに、その先が私をすれすれにかすめた。しかし私は馬車から離れることができず、どこまでもいっしょに並んで歩いた。恐ろしさで、私はいくどもシャクリあげた。
(中略) とつぜん私は思い出した。今日はみんなで大人になる注射をうけに行く日だった。今日かぎり、世界中の子供がみんな大人になって、もう子供はいなくなるはずだった。それだのに遅刻した私だけが取残されて、まだ子供でいるのだ。 罰だ! と小使が大声で叫び、乾いた白い手のひらで私を打ちすえた。私は机にしがみついて許しを乞うた。しがみつくとき、ぬけめなく、机のいたずら書きを肘のかげにかくすことを忘れなかった。
(中略) 私は鞄の中から賞品にもらった一本の鉛筆をとりだした。それは運動会のとき一番ビリになってもらったものだった。だから、賞品というよりはむしろ罰というべきものである。 私はその鉛筆を一心にそぎだした。しかし中でシンがばらばらになっているのか、けずるはしから折れてしまった。 幼年の思い出はいつわりにみていている。(1954,6,30)
安部公房全集 4(1997年 新潮社刊)
堀辰雄 風立ちぬ
私は二人のさも愉しげな對話を何かさういう繪でも見てゐるかのやう
に、見較べてゐた。そしてそんな會話の間に父に示す彼女の表情や抑揚
のうちに、何か非常に少女らしい輝きが蘇るのを私は認めた。そしてそ
んな彼女の子供らしい幸福の様子が、私に、私の知らない彼女の少女時
代のことを夢みさせてゐた ……
ちょつとの間、私達が二人きりになつた時、私は彼女に近づいて、揶
揄ふやうに耳打ちした。「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ。」「知らないわ。」彼女はまるで小娘のやうに顔を兩手で隠した。
堀辰雄全集第六巻(昭和五十三年 筑摩書房刊)
有島武郎 [農場解放記念碑文]
有島武郎[農場解放記念碑文]
『この土地を諸君の頭數に分割してお譲りするという意味ではありません。諸君が合同してこの土地全體を共有するやうにお願ひするのです。誰でも少し物を考へる力のある人ならすぐ分ることだと思ひますが、生産の大本となる自然物.ち空氣、水、土地の如き類のものは、人間全體で使ふべきもので、或はその使用の結果が人間全體の役に立つやう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によって私有さるべきものではありません。それ故にこの農場も、諸君全體が共有し、この土地に責任を感じ、互いに助け合ってその生産を計るやうにと願ひます。諸君の將来が、協力一致と相互扶助との観念によつて導かれ、現代の不備な制度の中にあっても、それに動かされないだけの堅固な基礎を作り、諸君の正しい精神と生活とが、自然に周圍に働いて、周圍の状況をも變化する結果になるやうにと.ります』以上は農場主有島武郎氏が大正十一年八月十七日この農場を我等に解放した時の告別の言葉の一部である。刻して記念とする。大正十一年十一月
狩太共生農團
有島武郎全集第十五巻 (昭和六十一年 筑摩書房刊)
素敵な人た3人目の自分
ち 16
一人の人間が沢山の顔を持っている。はたして本当の自分の顔はどこにあるのだろうかと考えてしまうと ,どれが本当の自分なのか分からなくなってしまう。社会に対して見せている顔は普段の顔であり、皆が知っている自分の外面 (ソトヅラ )なのだろう。また、友人達と何でも話せるような自由な気持ちの自分も、大きくは普段から外に見せている自分の顔なのだろう。そして、家に帰って見せる家庭での家族に見せる顔はより素な顔であり、しかし多少の違いはあっても社会のバランスの上に成り立っている自分の顔なのだろう。会社での顔と友人達に対しての顔、そして家庭での顔の僅かな違いはあるものの、大きくは一人格としての整合性を持っている。しかし、全ての人間には、それ以外にいくつかの顔が存在す
吉田龍太郎(TIME&STYLE)
る。人間には誰にも知られたくない自分だけの秘密があると言われている。その秘密は自分だけのもので、誰にも語らずに墓場まで持って行きたいと言うようなもので、言ってしまうくらいなら死んだ方がマシだと言うようなものだ。そんな社会生活では見せない自分自身の内面のもう一人の存在を誰しもが持っている。誰もが一人になると、もう一人の自分自身と対話することによって、内面のバランスを図りながら自分の心の声と対話しながら生きている。それは、社会に対して見せているような善意的で社会性のある姿だけではなく、また、会社や家庭で見せているような権威的で頼りがいのある顔でもない、幼少のころから対話してきた幼いころから付き合ってきたもう一人の自分の存在との対話だ。それぞれの社会生活を支えている作られた外面の自分、そして一人になった時に自覚するもう一人の我が儘な内面の自分は二人目の自分の存在だろう。二人目の自分は欲求に忠実であり、また、批判的であり、怠惰で強欲だ。しかし、実は自分も自覚していない三人目の自分が存在する。その三人目の自分は普段は自分にも自覚出来ないような存在なのだ。時々無意識にヒョッコリと突然現れたりして自分や周りを驚かせる。そのもう一人の自分の存在は自分ではコントロールすることのできない存在ではあるが、その人の何気ない行動や表情に時折ヒョッコリと現れては、自分でもはっきりとはその人格の全貌を知ることができない。実はその自分でも自覚できない三人目の自分の中に真の自分の欲求が眠っているのではないだろうか。社会の中で生きている外面の自分の顔は好意的であり、また善意的であったりする。それは他人や周囲の人々に対しても同じように善意的だ。しかしその善意的な行為の中にも相手を傷つけ、心に負担を掛けるようなお仕着せの善意に気付かないことが多い。そんな3人目の自分のお仕着せの善意は、一見良いことのように見えるが、実は本当は自分の為であり、自己満足の為の行為であろうことに気付いていない。そんな自分でも気付かない隠れた偽善や自己満足の中に三人目の隠された人格が存在するような気がする。良いことの中にマイナスが隠されているように、マイナスの
中に沢山のプラスが潜んでいることに時々気付くことが出来る。振り返ってみると数々の困難の中や厳しい指摘や辛辣な言葉、敵意や悪意の中からもプラスに繋がることが沢山潜んでいたように思う。社会に向けたソトヅラの一人目の自分、そして自分しか知らない二人目のウチヅラの自分、そして自分も自覚していない三人目のムイシキの自分、どの自分もそれぞれ真実の自分なのである。自分を振り返ってみると失敗ばかりで出口の見えなかった時代に、その苦しみに無意識に向き合い、喉の乾きを感じながら自分の恵まれない境遇や時代や環境を嘆きながらも、若さ故にその失敗や不遇にも希望を失わずに歩き続けるしかできなかった無意味に見えるような貴重な時間。無意味な行為や無駄な時間、多くの困難に対して無意識に向き合ってきたことが重層的な経験となり今に繋がっていることに気付くことができる。逆に言えば今のように平安でダレてしまった安定した環境に安住し、恵まれた状況や時間などの使い道に腐心し、他人の行為や自分の言動や偽善的な心に苛まれるよりも、恵まれなかった、いつも乾いていた時代の心の充実感と若さを渇望する。過去にも未来にも真実は存在しないのではないだろうか。私達が向き合える現実は今と言う瞬間、瞬間であり、その瞬間を持てることが生きていると言うことなのではないだろうか。
堀口大學 「今年の春」
昭和
堀口大學「今年の春」
わるい夢からめをさまし生まれ變った日本の今年の春はすばらしいすべてのものが輝いてすべてのものが歌ひ出す
きのふとかはる空のいろ空はびせうだ明るさだうちそとかけてふきあれたつめたい風はふきやんだそよ風わたる三月だ
僕等は日本の少年だあすの日本をしよつて立つ僕等は日本の明るさだ新生日本をたてなほす僕等は日本の春風だ
年 3月「少年」
堀口大學全集 9(昭和六十二年小澤書店刊)
梶井基次郎 櫻の樹の下には
(中略)
(中略)
Ever Ready
梶井基次郎 櫻の樹の下には
櫻の樹の下には屍體が埋(うづ)まつてゐる! これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。
一體どんな樹の花でも、所謂眞つ盛りといふ状態に達すると、
あたりの空氣のなかへ一種.祕な雰圍氣を撒き散らすものだ。それは、よく廻つた濁樂が完全な静止に澄むやうに、また、音
樂の上手な演奏がきまつてなにかの幻覺を伴なふやうに、灼熱した生殖の幻覺させる後光のやうなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
一體どこから浮んで来た空想かさっぱり見當のつかない屍體
が、いまはまるで櫻の樹と一つになつて、どんなに頭を振っても離れてゆかうとはしない。 今こそ俺は、あの櫻の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな氣がする。
それにしても、俺が毎晩家へ歸つてゆくとき、暗のなかへ思い浮んで来る、剃刀の刃が、空を飛ぶ蝮のやうに、俺の頸動脈へ噛みついて来るのは何時だらう。これは洒落ではないのだが、その刃には
(さあ、何時なりと)
と書いてあるのさ。
初出「詩と詩論」第二冊(昭和三年発行)梶井基次郎全集第一巻(一九九九年筑摩書房刊)
新古今和歌集 西行法師
新古今和歌集巻第十羇旅歌
天王寺に詣で侍けるに、俄に雨降りければ、江口に宿を借
りけるに、貸し侍らざりければ、よみ侍ける
西行法師
世中をいとふまでこそかたからめ仮の宿りををしむ君かな
題意天王寺へ参拝しました時、急に雨が降ったので、江口に宿を
借りようとしたところ、貸しませんでしたので、読みました。
歌意この世を厭い離れることまでは難しいとしても、お宿をお借
りすることまでも、もの惜しみされるあなたなのですね。ちょうど
仮の宿のこの世に執着するように……。
返し
遊女妙
世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思うばかりぞ
歌意この世を厭って出家されたお方と伺っておりますので、宿を
借りることなどお考えなさいますな、仮の宿のこの世に執着なさい
ますなと思うばかりでございますよ。
新古今和歌集 全注釈三(平成二十三年角川学芸出版刊)
會津八一 三輪の金屋の石仏
耳しうと ぬかずく人も三輪山のこの秋風を
「耳が聞こえなくなった」といって 石の〈お薬師さん〉を拝んでいる老女も 三輪山をふきわたる この さびしき秋風を きっと 聞いている
會津八一悠久の五十首(平成
聞かざらめやも
22
年初版第
2
刷新潟日報事業社刊)
石川 淳 大和國原
石川淳 大和國原
畝傍山 晝は雲と居 夕されば 風ふかむとぞ 木の葉さやげる
(中略) 大和の國で.といえば、他なし、古く三輪山の.であった。すなはち大物主である。この.の出自をあらつてみると、遠く出雲のオホナムヂの和魂(ニギミタマ)といふことになる。オホナムヂが色かせぎにいそしんだだけあって、この大物主もその道にぬかりはない。身は.でありながら、ときに丹塗の矢に化けたり、美男に化けたりして、妹背山の芝居に出るお三輪のやうな人間の美女とまじはることにつとめてゐる。
(中略)この三輪山の.の派手な振舞はかのゼウスにくらべて
もおとるまい。ただこの.は他の..を一類にしたがへて羽
翼を張る計略をおもひつかなかつたと見えて、せっかくの大
和の山山がオリンポスになつた形跡はない。あはれむべし、
大.は孤獨のゼウスであった。
初出『週刊読売』臨時増刊「飛鳥の美女と貴人たち」(高松塚古墳特集)、昭和四十七年五月五日号。石川淳全集 第16巻 (1991年 筑摩書房刊)
ゲーテ作 ファウスト(荒俣宏訳)
ゲーテ作 ファウスト(荒俣宏訳)
ファウスト
ああ、わかったよ。おまえの言う通りにしよう。
おれは、人間の科学の英知のすべてをひたすら求めて来た。だが全部ただのゴミくずだった。ムダだったんだ。それこそが人類のイマジネーション
の結晶だと思ってた。おれの野心の源だったのに。(中略)
メフィストフェレス
うまくいったな。ファウストよ、おまえ、せいぜい軽蔑するがいいぜ。理性と知識は、人間の最高の力なのによ。おまえが受け継いだ最良の遺産、究極の希望をみずから捨て去るとはな!いつわりの霊の力を借りて、まやかしの魔術のなかで、自分の力を誇るがいい。 お前は運命から、地上では稀なほどにアクティブな精神を授けられた。だが前へ前へと、あまりに性急に急ぎすぎたんだ。まっしぐらに努力しすぎた。地上の喜びをまるごと、飛び越えてしまったのだ。 おれはおまえを、ワイルドな生活にひきずりこんでやる。無意味でバカバカしい虚栄まみれの歓楽にぶちこむんだ。さぞや、もがき立ちすくみしがみつくだろうさ。おまえの激しい欲望は火のついたようになる。美食と美酒がおまえの唇の前に漂うだろう。だが見せびらかすだけだ。おまえは渇望してもだえ苦しむ。おまえの精神はすでに堕落した。健康も新鮮な食事ももはや意味をなさない。 ファウストよ、血の署名はもうもらった、おまえはおれのものだ! ファウスト(2011年 新書館刊)
塚本邦雄 「魔笛」
塚本邦雄「魔笛」(1986年 書肆季節社刊)
.聖魔曲生誕由来(抜粋)歌劇「魔笛」の原作は、ヴィーラントの小説「魔笛ルルー」で、モーツァルトはそれを二幕に構成した。興業支配人兼演出家兼俳優兼歌手のマルチ人間シカネーダーが、一曲百ダガットでモーツァルトに書かせたといふ。単純でしかも奇怪な通俗談風の要素を持つ劇も、天才モーツァルトは.品と化した。彼こそ魔であらう。
魔の曙邪悪を放逐した光の國の人人は、オシリスとイシスの.に感謝を捧げ、聲高らかに讃歌を合唱する。「美と叡智には、今こそ、永遠の王冠が與へられた」と。ザラストロは雄雄しい笑みを浮かべ、至福の二人を導いて、太陽の寺の階段を登る。互ひに、その手を携へて。
笛吹けよ今こそ魔法の笛 火の匂ふその涼しい音色死の夜の冷やかなきりぎしを通り抜け二人は歩む光と風のさやに亂るる中を二人は止まるかたみの影の重なる中に夜の死の眠りの果ての暁方に囁き交す 魔法の笛の音に誘はれて 水の香のその熱いひびき
塚本邦雄全集 第四巻 短歌Ⅳ・俳句・散文詩(二〇〇〇年 ゆまに書房刊)
澁澤龍彦 犬狼都市
澁澤龍彦 犬狼都市(キュノポリス)
「婚約指輪が送られて来たというのに、お前は手に取ってみようともしないで、今までどこを歩きまわっていたのだね」と父親が咎めるように言うのを聞き流して、麗子は、肩からさっさと重い二連銃をはずし、革のジャンパーを脱ぐと、撃ち落して来た五六羽の小鳥の、まだなまあたたかい骸を、ひとかたまりにして、テーブルの上にどさりと投げ出した。マニキュアの紅の上に死んだ小鳥の血が点々と凝って、蛍光燈の明りの下に、娘の爪はむしろ黒かった。
(中略) 話題のダイヤは卓上の、半開きになった小宮のなかにおさまって、ひっそりと、その狭い周辺を不安定な青黄色に明るませているのに、麗子はちらとすばやい視線をその方へ向けたきり、いま自分が置いたばかりの柔らかい羽毛の塊まりを、あらためて一つ一つ、重さをはかるように掌にのせてみて、「でもファキイルはいつもお腹をすかせているのよ、お父さま」とだしぬけに、歌うような調子で言った。「西部の草原には冬だって、兎だの、縞栗鼠だの、羊だの、雷鳥だの、生きた獲物がうようよしていたでしょうに、東京へ連れて来られてからというもの、毎日肉屋の肉ばっかりじゃああんまり可哀そうだわ」
「珠男君には、しかし、狼を連れた花嫁さんと親家庭をかまえる勇気があるだろうかね」
「さあ、それはあたしの知ったことではありません」 そう言うと、麗子は血の凝った指先をのばしてトランジスター・ラジオのダイヤルをまわした。
初出:季刊誌『聲』1960年春号。
1962年、桃源社から『犬狼都市(キュノポリス)』として刊行された。
澁澤龍彦全集 3(1993年河出書房新社)
田中美知太郎 最も必要なものだけの国家
(※
2
田中美知太郎 最も必要なものだけの国家
私達が世界を必要とするというのは、いわゆる生活の必要をことごとく揃えて、それからよき生活に取り掛かるということではない。既に見られたように、必要は無限にひろがり、あらゆる贅沢が必要となるから、いつまでたってもよき生活は始められないであろう。よき生は生活のはじめから始められねばならぬ。私たちは私たちに与えられている全世界を、そのまま利用しなければならぬ。よし世界の私たちに与えるものが、一枚の衣と一袋の食料に過ぎなかったとしても、私たちはその世界によく生きることができなければならない。
かくのごときが、実践によるディオゲネス(※
った。しかし必要に執着しなければ、世界はもっと豊かに、惜しみなく与えるであろう。私たちの祈りは、『パイドロス』
)のソクラテスのそれと同じく、むしろ私たちが正気を
失わずに、よくもち堪えることのできるだけのものが授けられることを! というのでなければならない。
田中美知太郎全集 第一巻 (昭和四十三年初版第一刷、昭和六十二年増補版第一刷 筑摩書房刊)
※
1 ディオゲネス:古代ギリシアの哲学者。犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、大樽を住処にした。
※
2 『パイドロス』:プラトンの著したソクラテスとパイドロスの対話篇。プラタナスの木陰に腰をおろし語らい合うさまが描かれている。
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)の教訓であ
山本夏彦「完本 文語文」
山本夏彦「完本文語文」
私は萩原朔太郎の変らぬ崇拝者で、中学一年のとき読んで百雷に打たれる思いをした。萩原は天才である、萩原の前に詩人なく、あとにもないだろうと少年の私は思った。萩原の初期の詩集に「愛燐詩篇」がある。なかに「旅上」がある、「桜」がある、「利根川のほとり」がある。「旅上」は「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」という名高い字句からはじまる。知らぬ人はあるまいから、これ以上続けない。少年の私が最も心を打たれたのは「桜」だった。
桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わが心はつめたくして
花びらの散りて落つるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
(あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを)。
これを口語文にしてみれば分る。ただ冗漫になるのみであ
る。ここにあるのは文語文の妙である。
「完本文語文」(平成十二年 文藝春秋刊)
辻まこと 『モダン・アートの哲学』評
辻まこと 『モダン・アートの哲学』評
フロイドはミケランゼロのモーゼ像の前に立って非常に深い感動を受けたときのことを自らその作品の分析のなかで語っているが、彼自身の批評家の魂について、こういう意味のことを告白している。 私はなぜこの作品にこのようにひかれるか、感動という形でこの作
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品に私が支配されることに私の科学者としての智的虚栄心は屈辱を感
じた、そして私の感情と作品の間に横たわる問題を分析して悟性の上
に安定したいと願った。
人間は一般に感動に対して無抵抗である。というよりもしばしばこ
の感動の中に陶酔することを純粋である ……と思ったりする。そし
て、その場合「何故か?」という質問に対して、「いいものは、いい
のである」といったりするのだ。
しかし、それは明らかに問題の回避である。論証によって納得した
いと願う気持は、人間の高尚な欲望の一つである。
『モダン・アートの哲学』と題するハーバート・リードの労作は、
最も個人的なものと、最も一般的なものをよく結びつけ、深い学識に
よって、美術という画面の背後に光を投げこの欲望を十分に満足させ
てくれる。
初出:図書新聞 1955年(昭和 年)辻まこと全集 1 1999年 みすず書房刊
佐藤敬(昭和 13年の作品 藤野倶楽部蔵)
三宅一生 時空超えたメッセージ
三宅一生 時空超えたメッセージ(「素顔のイサム・ノグチ」から)
今から半世紀ほど前の、広島の「橋」。近くの目だつ建物といえば、鉄骨を曝すあの原爆ドームであり、「橋」のまわりにはまだ焼野原が残っていた。 人びとは、その「橋」を平和大橋と呼んだ。が、「橋」をデザインしたイサム・ノグチは、『生きる・死ぬ』(のち『つくる・ゆく』に変更)と名付けている。日本の敗戦から七年目にできたその「橋」は、街の復興をいそぐ当時の人々の気持の支えとなった。 それから数年のち、その「橋」を自転車でわたるやせっぽちの、絵を描くのが好きな少年がいた。それが高校生になったばかりの私である。「これがデザインなんだ」と、人を励ますデザインの力を感じながら、ペダルを漕いだ。 デザイン、という意識をはじめてはっきりともたせてくれたイサム・ノグチの「橋」との出会いとその記憶は、その後も消えたことはない。パリでの修行時代も、いつも「橋」は語りかけてきた。そうして、彫刻やあかりなど、彼の他の仕事を深く知るようになった。 自分がこれからやろうとしていることと重ね合わせながら、いつもイサム・ノグチを見ていた。それらは時間を超え、空間を超えて届けられる無形の贈り物であり、宇宙のメッセージである。 一九七九年にアメリカ・コロラド州で開かれたアスペン国際デザイン会議で初めててイサムさんと出会った。翌年の夏には、牟礼の地(現在「イサム・ノグチ庭園美術館」として公開)へイサムさんを訪ねた。わざわざ高松の空港まで出迎えに来てくださり、顔を合わせるなり、「海水パンツはもってきましたか?」と聞かれた。もちろん用意はなく、イサムさんのものを借りてすぐさま皆で海辺へ行った。懐かしく、穏やかな瀬戸内の海で、潜ったり貝を集めたりして楽しんだ。
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素顔のイサム・ノグチ:日米
人の証言(二〇〇二年 四国新聞社刊)
三國連太郎 作り込んだ台詞は要らない
三國連太郎 「生きざま死にざま」より 作り込んだ台詞は要らない
!!
先刻もご紹介した伊藤雄之助(一九一九〜一九八〇)という名優のことですが、彼は歌舞伎の出身でした。 私は彼と仲が良かったこともあり、「連ちゃん、よかったら今日は勘三郎さんの芝居の稽古があるから見にいかない?」と何回か誘われて、ある日に舞台稽古を見学に連れていってもらったことがありました。
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最近、中村勘九郎さんが中村勘三郎を襲名しましたが、そのお父上の先代である勘三郎さんの稽古です。 私たちが座席からじっと見入っていましたら、突然、勘三郎さんが怒鳴り始めました。
「やめた! やめた!」 みんなは「え?」とばかり一瞬あたりが、静まり返りました。 すると、勘三郎さんは「作者を呼べ」と言うのです。その作者は有名な方でしたが、すぐ舞台に飛び出してこられました。すると、勘三郎さんが大声で叫ぶんです。
「おまえね、役者が丸暗記しなきゃならないような、台詞を書くんじゃ
ないよ」と声を荒げると衣装を脱ぎ捨てながら、楽屋に引きあげてし
まったのです。
雄之助さんは「またやってるわ」とばかりニコニコしてます。
きっと芝居からはみ出している台詞が勘三郎さんのリズムを狂わした
んでしょうか?静寂の中に私達二人だけが客席に居残りました。長年
の付き合いで、よく勘三郎さんを知りぬいている雄之助さんは「いつも
のこと」とばかり私の袖を引いて表に出ましたが、その日の光景は私の
記憶に何故か強烈に焼き付いて、生涯忘れることはないでしょう。
例えば、そこで、私は西部劇の大巨匠であるジョン・フォード監督の
話を思い出しました。あの人は、「その台詞要らん!」「その台詞も要ら
ん!」と脚本家が書いた台詞をどんどん削っていってしまったそうです。
それで大丈夫かなと思うのですが、『荒野の決闘』(一九四六)などを
見ていますと、もちろん、舞台と映画の相違を痛いほどわかっています
が、説明台詞などは必要ではない、それが映像なのだということの証明
だと思いました。
生きざま死にざま 三國連太郎(平成 年 KKロングセラーズ)
道元ひとりが真理を見出し、悟って、本然の姿に戻れば、世界中の空が、真理を見出し、悟って、本然の姿に戻る。大事なのは言葉ではない。ありのままの全存在をくもりなく、詐りなく見ることだ。(眼蔵転法輪)
日本の禅語録 第二巻 道元 (昭和五十六年 講談社刊)
山東京傳 手前勝手「御存商売物(ごぞんじのしやうばいもの)」(※)
唐詩選・源氏物語は、一枚絵と青本が訳を聞きしに、黒本・赤本が仕業と云こと知れ、双方へ教訓する。「絵草紙・草双紙はこの方の仲間違ひなれども、いづれ本と名が付けば同じ類なり。まづ我々が床の間や唐机の上に見ているに、赤本・黒本が仕業、以ての外なり。その繁昌、不繁昌は、おのれおのれが心にあることなり。山崎派の有難きわ、徂徠派の風雅に衰え、八ツ橋流の上品は生田の当世にすたり、藤色の美しさは萌黄の古風に帰る。淵は瀬となる世の中、青本も世に時めくに任せ、廓通いもたびたびはいらぬものなり。
山東京伝全集 第一巻(一九九二年 ぺりかん社刊)
※江戸を代表する戯作者・山東京傳の出世作といわれる「御存商売物」は、草双紙業界の勢力争いを擬人化した騒動もの。江戸時代も出版業界の競争は熾烈であったことが伺える。