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6月号 夏至 2014
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時空にえがく美意識
甲斐に抱かれJAZZ
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
清春白樺美術館(1983年)。建築家・谷口吉郎氏の基本構想を、谷口吉生氏が引き継ぎ完成させた作品です。ロダン作「打ちひしがれたカリアティッド」
「白樺」全 160冊が揃っています。
ロダン作「マダム・ロダン」
右はロダンの特集号。
明治 43年、同人誌「白樺」の創刊を機に集った作家や画家たち(白樺派)は、ロダンやセザンヌ、ゴッホなどの紹介に情熱を注ぎ、誌面で紹介する他に展覧会も開催していました。大正 6年「白樺」に掲載された「美術館をつくる計画に就いて」では、美術館構想と寄付を呼びかけています。美術館建設の目的のひとつは、白樺派の思想に共鳴したロダンから寄贈された 3体のブロンズ像を収蔵することでした。横浜港へ像を受け取りに行った柳宗悦の手記からは、若き白樺派同人たちの興奮ぶりが伝わってきます。白樺派同人と親交の深かった銀座の画商・吉井長三氏は、白樺派が果たせなかった美術館構想を実現するため、清春の小学校跡地を利用した芸術村の建設計画を進めました。ロダンと白樺派の友情の証として、ロダンの彫刻が清春白樺美術館で常設展示されています。
美術館ではジョルジュ・ルオー展が開
催されていました。日本に初めてルオ
ー作品を持ち込んだのは、パリ留学中
の画家・梅原龍三郎だったといわれま
す。その作品「裸婦」(1908年)が
展示されていました。
ルオーの宗教画を超えた魅力は白樺派同人に伝搬し、1936年に欧州を巡った武者小路実篤は、パリでルオーのアトリエを訪ね、本人から作品を購入しています。その様子は実篤の旅行記「湖畔の画商 /マチス、ルオー、ドラン、ピカソ訪問記」に描かれました。作者の素直な目を通し、4人の巨匠たちの
実像をかいまみられる作品です。
武者小路実篤の生原稿。ルオー「裸婦」「ルオーの宗教心」 ▲ 聖顔(1934年)。 ルオーの直筆ハガキ。
▲
白樺派の面々。武者小路、志賀直哉をはじめ、柳宗悦、高村光太郎、岸田劉生、バーナード・リーチなどがいます。中川一政による吉井長三氏の像。NHKの番組収録の題材として描かれました。最後に目を描き入れた中川一政は、
「吉井君、絵は最後の 5分間で決まるんだよ」と言ったそうです。吉田五十八設計の東京・市ヶ谷のアトリエ(1951年)が移築され、当時のままの仕事場も保存されています。
安藤忠雄氏設計の「光の美術館」。スペインの画家・アントニ・クラーベの作品を中心に展示しています。
クラーベのアトリエと「同じ環境で絵を見て欲しいという思いから、自然光が差し込む美術館を提案した。空間はとてもシンプルで、壁を伝う一閃の光が凛と際立つ。」と安藤さんは書いています(「銀座画廊物語」 吉井長三著の解説から)。
クラベが 10年をかけ完成させた「赤い点」。光の美術館完成を記念して寄贈されました。
南アルプスの山々とサクラの樹々を背景に立つ茶室「徹」(てつ)。藤森照信氏の設計によるもので、屋根の銅板や壁の漆喰を塗る作業は縄文建築団のメンバー赤瀬川源平氏、南伸坊氏、林丈二氏らが手伝って作り上げました。
清春の春 谷川俊太郎天を指す指を形見に巨人はどこへ消えたのか中断された階段の見えない螺旋が空に風穴をあけて新入りの案山子は風流な頭でっかちいまにも飄々と歩き出しそうだ老いた桜が涅槃像のように寝そべって人間の右往左往を穏やかに見守ってくれているここでは昔ながらの土地の精霊が今どきの子どもたちと風になって戯れているルオーも龍三郎も直哉も実篤も子どもに戻って風景に溶けていく美しいものの波動に守られてこの村は限りない宇宙内の一点として自足している
茶室「徹」は、哲学者・谷川徹三氏へのオマージュとして建てられたそうです。徹三氏の子・谷川俊太郎氏は、茶室「徹」と芸術村をテーマにした詩を書いています。
家具職人の家に生まれ、若き日にステンドグラス工房で修業したルオー自らが制作したステンドグラス。天井から柔らかな光が注ぎます。中央のキリスト像は、次女のイザベル・ルオーから贈られたものです。清春芸術村で最初に完成した「ラ・リューシュ」(1981年)は、ギュスターブ・エッフェルの設計によりパリに建てられた芸術家コミューンを忠実に再現した正十六面形の建物です。サクラの季節になると、井伏鱒二も毎年ここを訪れたそうです。八ヶ岳を横目で見ながら、清春から武川へ向います。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第 回
リベンジなるか
電車の向かいに座る二人の女性、どうみても私より
10
10歳ほど若い。
「あと10歳若かったら、もう1度チャレンジするんだけど ……」と、話している。すいた電車の中である。聞くともなしに、会話は聞こえる。なんの話しかといえば、車の運転の話しである。そうそう、あと10年若かったら私も挑戦するんだけど、と秘かに会話に加わった。が、ちょっと待て。向かいのご婦人達は私より若いではないか。そう、こうやって、なんだかんだと自分に言い訳しながら、やりたいことを手元から遠ざけてきたのではないだろうか?年のせいではあるまい ……と思ったら、にわかに、運転再開のスイッチが入った。
運転免許を取ったのは、もう30年も前の事である。運動神経はけっしてよくないが、何でこんな謂れのない叱られ方をして、運転を習わなければならないのかと、くやし涙をしながら、雨の日や夜は極力避けて、なんとか仮免までこじつけた。が、黄色信号をつっきって、その場で試験は終了。黄色信号は状況をみて走ってもいいと思い込んでいた。事実、タクシーや乗せてもらった車は、ほとんど黄色信号では止まらなかった。こっぴどく叱られて、再試験となり、なんとか2度目で屈辱を果たし、晴れて免許取得となった。
つれづれなるままに リベンジなるか
以来、運転免許証は何度かの更新をし、今ではゴールドの帯である。立派な身分証明書として活躍している。免許証の利用としてはもうこれで十分かなとおもっていたが、先の会話で私の中の眠れる何かに火がついた。車が走るテレビコマーシャルには敏感になり、街を走るかっこいい車を目で追っている。運転免許証の正規使用をしてみるのも悪くないと思いつつショールームを覗きにいく。しかしながら、ゴールド帯は立派でも、その運転技術はかなりどころか相当さびついているに違いない。運転再開その前に、まずは、反射神経の訓練をしなければならない。と、トレーニングジムをさがし、ペーパードライバー専門の教習所を探す。近くて便利な私向け教習所がたくさんある。下調べ準備は OKである。世のため人のために運転しないと決め込んでいたが、今からでも決して遅くは無い。果たせるかな「リベンジ」。まずはやってみようと秘かに決意した。
そんな矢先、先日知り合いの家族の車に同乗して東名を走った。運転する息子さんは徹夜明けだという。渋滞が続いている。信号はない。飛び出しもここならあるまい。「運転交代」を口にしたが、車内はしばし沈黙が続き、誰も何とも言わない。あれは何を意味したのだろうか?まぁ、それはともかく、「今更」という弱気と「まだまだこれから」という強気との綱引き勝負はこれからである。運転免許正規使用のリベンジを果たし、堂々と青葉マークを貼って、まずは近場の「道の駅」めぐりを楽しみたいと思っている。
北杜市武川町山高の「鳳凰山高龍寺」は、武田家につかえた家臣団「武川衆」の一員・山高氏の菩提寺として創建された 500年近い歴史をもつ古寺です。山高氏の墓石の間からは、甲斐駒ケ岳が望めます。
初夏を思わせる晴天に恵まれた6月1日、高龍寺本堂で地元有志の主催による「山里でジャズ武川のジャズ」ライブが開催されました。江戸時代に初期に建造された古い本堂に、300名近い観客やボランティアスタッフたちが集いました。
第一部は「早稲田大学ニューオリンズジャズクラブ」の演奏。前日から会場入りし、田植や座禅を体験したそうです。普段は読経の響く本堂が、開山以来はじめてジャズの音色で満たされ、会場の熱気もあがってきました。
第二部は「YOKO meets 浜田・西・佐藤 クインテット」の演奏。浜田 均さん(中央・富良野出身)の軽快なヴィブラフォンに乗せ、西 直樹さん(ピアノ)、佐藤達哉さん(サックス)、小井政都志さん(ベース)、バイソン片山さん(ドラム)によるベテランならではの息のあった大人のジャズを楽しみました。ライブハウスとは一味違う空間で、観客とプレイヤーの一体感を感じました。ジャズヴォーカリストYOKOさん(長野出身)が登場し、ボサノヴァ(イパネマの娘)や What a Wonderful World、My Favorite Things(サウンドオブミュージック)などを艶のある声で歌い上げ、会場を盛り上げます。お寺のジャズライブは大盛況のうちに幕をとじました。
れんがの家
BC工房 主人 鈴木惠三
5月.6月の1カ月は、ジャワ工房「レンガの家」暮らし。コチラは今、秋。緑の葉が少しだけキイロくなって落葉しはじめている。しっかり紅葉はしない。この1ヶ月、ほとんど雨がない。乾季そのものだけど、緑はいっぱいある。植物のスゴイチカラを感じる。朝5時半頃の日の出から夕方 5時半頃の夕陽までが、活動時間帯?古代人の生活 ? TVもなし、 CDもDVDもなし。新聞もなしでは、本だけが楽しみ。レンガの家の本棚は、 200冊以上のジャパンライブラリー。コチラに居る 1ヶ月で、 7.8冊は読む。乱読である。今、読んでいる宮城谷昌光さんの「風は山河より」は、戦国時代初期の松平、徳川の生立ちの物語。オイラの生まれ育った岡崎が中心の舞台だ。そして、家のある「井田」は、「井田野の合戦」で出てくる。織田信秀軍 8000人に対して、松平 800人で、なんとこの合戦に勝ってしまう。織田信秀も油断していたのだが、松平は少人数で小さくカタまったチームプレーが得意だった。
「松平、あなどりがたし」が、生まれた合戦である。それにしても、宮城谷昌光さんは驚くほど三河の古い資料を集めて読んでいる。いろんな資料の違いを見つけ、その違いから本当の発見をしようとしているのが、この本のおもしろさだろうか。でも読書ばかりでなく、昼はマジメに工房で働いている?
今回のテーマは、「極上のマイ・チェア」遊び心にあふれた、とんでもない椅子へのチャレンジである。5月の GWに「タケオとジョージ」からミラノ・サローネの話しを、ふじの・やまなみ温泉の露天風呂で聞いた。2人の訪問は、いつもほんとうにうれしい。山ごもりのオイラにミラノの今を伝えてくれるのだ。
「技術がデザイン」から生まれた、考え方の実践チャレンジだ。「デザインが技術」の「ボタン留め張りのデザイン &技術」日本の秋、9月に発表できるだろうか?
「とっておき安楽マイ・チェア」が、やっと見えてきたかな?あと半年かけて、じっくりやっていきます。熟成させます。
井伏鱒二の愛した常磐ホテルの庭
太宰が唯一の師とした井伏鱒二の定宿が、湯村温泉の「常磐ホテル」です。釣りや執筆のため井伏は甲府を頻繁に訪れていました。広い庭園に立つケヤキの木陰で、作家仲間たちとワインを楽しむこともあったようです。
館内には井伏鱒二の記念コーナーもあります。映画「駅前シリーズ」の原作となった井伏の小説「駅前旅館」は湯村での取材を元にしたといわれます。
その観光地帯と甲府の町の間に、湯村という近代的な温泉場がある。ここは観光客や団体客に足を停めさすやうに、いはずもがなのことに至るまで、気を配った造りの温泉宿が並んでゐる。これでもか、これでもかと、お客を上の空にさせるやうに設備が施されてゐる。この温泉場が甲府の駅から車で六分か七分のところにある。つい甲府の町も観光都市として目ざめて来るわけで、経済都市であるとともに、観光都市として、湯の町として、自信を持つやうになつてゐる。
井伏鱒二「甲府」から 昭和 年『週刊朝日』に発表
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太宰治の通った湯村の湯
井伏鱒二を師と仰いでいた太宰治は、たびたび甲府を訪れ湯村温泉の湯につかっていました。なかでも旅館「明治」に逗留し「正義と微笑」、
「右大臣実朝」を書いたといわれ、旅館明治の湯のことは「美少女」にも描かれています。湯村温泉の旅館組合には、太宰治を題材とした「湯村温泉郷ゆかりの人物資料室」がオープンしました。
美少女 太宰治から 家内は、顔を伏せてくすくす笑っている。私は、それどころでないのである。胸中、戦戦兢兢たるものがあった。私は不幸なことには、気楽に他人と世間話など、どうしてもできないたちなので、もし今から、この老爺に何かと話を仕掛けられたら、どうしようと恐ろしく、いよいよこれは、とんでもないことになったと、少しも早くここを逃げ出したくなって来た。ちらと少女のほうを見ると、少女は落ちついて、以前のとおりに、ふたりの老夫婦のあいだにひっそりしゃがんで、ひたと守られ、顔を仰向にして全然の無表情であった。ちっとも私を問題にしていない。私は、あきらめた。ふたたび指輪の老爺に話掛けられぬうちに、私は立ちあがって、
「出よう。いっこうあたたまらない。」と家内に囁き、さっさと湯槽から出て、からだをふいた。
「あたし、もう少し。」家内は、ねばるつもりである。
「そうか。さきに帰るからね。」脱衣場で、そそくさ着物を着ていたら、湯槽のほうでは、なごやかな世間話がはじまった。やはり私が、気取って口を引きしめて、きょろきょろしていると異様のもので、老人たちにも、多少気づまりの思いを懐かせていたらしく、私がいなくなると、みんなその窮屈から解放されて、ほっとした様子で、会話がなだらかに進行している。家内まで、その仲間にはいってアセモの講釈などをはじめた。私は、どうも駄目である。仲間になれない。どうせおれは異様なんだ、とひとりでひがんで、帰りしなに、またちらと少女を見た。やっぱり、ふたりの黒い老人のからだに、守られて、たからもののように美事に光って、じっとしている。 あの少女は、よかった。いいものを見た、とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置いた。
温泉街を湯村山に向かって散策すると、突き当りにあるのが、厄除け
地蔵でしられる「塩澤寺」です。長い参道の上に建つ地蔵堂は、2
月の地蔵尊祭りの時だけ開かれます。静かに筆耕しようと湯村にやっ
てきた太宰は、運悪く祭りの喧騒に巻き込まれてしまいます。それを
ヒントにして見世物小屋の大山椒魚をめぐる顛末を描いたユーモラス
な傑作「黄村先生言行録」は、井伏鱒二をモデルにしたといわれます。
戦時中、三鷹で空襲にあった太宰は、一家で妻の実家である石原家(甲府駅北口近く)に身を寄せます。しかし甲府で再び空襲に見舞わ
れ、その様子を「薄明」に克明に描きます。太宰にとっては戦争も、
創作の糧となったようです。
薄明 太宰治からまさに、最悪の時期に襲来したのである。私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。
「蒲団をかぶれ!」 私は妻に言って、自分も子供を背負ったまま蒲団をかぶって畑に伏した。直撃弾を受けたら痛いだろうなと思った。 直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起してみると、自分の身のまわりは火の海である。
「おい、起きて消せ! 消せ!」と私は妻ばかりでなく、その附近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついている。
「怪我は無かったか。」 だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。
「ええ、」と静かに答えて、「これぐらいの事ですむのでしたらいいけど。」 妻には、焼夷弾よりも爆弾のほうが、苦手らしかった。
地蔵堂脇の山道を登って行くと、シラカシの群生のなかに古墳時代後期の古墳「地蔵古墳」が 2基佇んでいます。湯村周辺は全国的に見ても石積古墳の多い地域で、奈良正倉院「玉虫厨子」に使われたヤマトタマムシの生息地でもあります。
加牟那塚古墳
湯村のとなり千塚(ちづか)には、山梨県内で最大級の円墳「加牟那塚(かむなづか)古墳」が遺されています。以前は田圃に囲まれていましたが、今は宅地化が進み、住宅街の中にあります。石室は横穴式で、天井には七枚の巨石を使っています。石室内部の様子は、奈良の石舞台古墳にも似ていると感じました。近くの千塚公園には古墳時代から平安時代の集落跡も見つかり、大和朝廷や渡来人との関係が推察されているようです。
集団的自衛権の話最近、鉄拳をふるいたくなることが多
くなってきた。アチョッーゥ、アチョッ、アチョッ、アチョッーゥ、街を歩けば、アチョッ。ニュースを見れば、アチョッ。話を聞けばアチョッ。出来る事なら、この怒りの鉄拳で辺り構わず叩きのめしたい。右親指の腹で鼻の頭を撫でながら、軽快なステップで前後左右に、腰を左右に切り替えながら敵との間合いを図りつつ、力の抜けた柔らかでしなりの利いた体勢から一気に爆発的な流れるようなエネルギーを拳の一点に乗せて叩き付ける怒りの鉄拳。アチョッーッ、アチョッ、アチョッ、アチョッ、アチョッ、アチョッ、アチョッ……バカな男子だったら必ずやったドラゴンの真似。冗談のアチョッーッ、アチョッ、アチョッ、アチョッーゥ、が原因で本気の喧嘩に発展して、全然強くなっていないことが判明したこともよくあった昔話だ。
正義漢ぶるつもりは無いが、ひたひたと大きな危機が日本を取り巻いている、そして私達の社会の中に広がっている大きな危険を感じている。自分たちが感じているよりも、もっと深刻で確実に。そんなこともあって、世間では言いにくいことも沢山あるし、社会の世渡り的には言わない方が良い事も沢山あって、人々はできるだけ自爆しないように、そして地雷を踏まないように自分の生活を守り、保身している訳だが、時にはどうしても言わなければならないことや、変えなければならないこと、そして闘うべき時もあるはずだ。角を立てないように、何でも丸くなれば(どこかの家具のように)、それはそれで生き易いけれど、骨抜きになってしまう。もう既に手遅れかもしれない。それでもあなたも生きているし、自分だ
( TIME & STYLE )
吉田龍太郎
1
ドラゴン怒りの鉄拳
けは生き延びていたいと思っているのだから。
最近、子供や少年少女が被害者となる事件が後を絶たない。ほとんど毎日の様に、ニュースでは当たり前のように子供や少年少女の殺人事件や誘拐事件が流れている。しかし、私達大人はその時々の問題意識の感情を持つものの、根源的な原因や問題からは見て見ぬ振りを決め込んでいる。その大きな原因が私達、大人自身にあることを知りながら。社会で起こっている問題や事件は決して遠くで起こっているようなことではないのだ。そして、その問題の根本はどれも同じところから来ているのだ。都合の悪い事は言わない、誰が犠牲になっていても自分に被害が及びそうなことには加担しない日本人の最悪で醜悪な人間性が露呈しているのだ。しかし、集団的自衛権などと、自滅にまっしぐらな偽善案を、強国アメリカの加勢には積極的に国際正義と言う大義を掲げ、日本が後世の人々に誇りを持っ
て受け渡す事ができただろう『戦争をしない国』と言う唯一の誇りと国民の権利までも捨て去ろうとしている。しかし、ほとんどの日本人は本気になって声も上げないし、真剣に考えもしない。政治や政治家が悪いのではなくて、悪いのはボンクラの国民であり、大切な自分たちの子供達さえも守ることができない私達自身なのだ。こんな骨抜きの日本人に誰がしてしまったのか。警察もどうでもいいような駐車違反などはしっかりと取り締まるくせに、本気で世の中に蔓延している薬物や暴力を取り締まろうとしているのだろうか。とても疑問に思う。どれだけの少年少女達が些細なことをきっかけにして薬物に手を染めて、人生を台無しにしているのか。そして、最も大きな諸悪の根源は、やはりインターネットによる悪意ある情報の垂れ流しや問題のあるサイトなど、どんな小さな子供でもアクセスが可能な闇社会を提供して、アクセス制限を掛けようとしない日本社会の根深い病にあるのだ。まだ中国やヨーロッパのようにアクセスや情報に制限を掛けて自国の国民を実質的に守っている国の政治家の方がよっぽどマシだ。本当にどうしようもないくらい日本のインターネット社会は腐りきっている。政治家に立候補して、インターネット禁止法を成立させたいくらいだ。
まったく今の世の中は、人間が自分の頭で考えることをしなくなり、まともな個人としての判断もできなくなってしまった。自分も含めてバカな大人が増えたおかげで、子供達や後世の人々が可哀想だ。『燃えよドラゴン』の中で、ドラゴンが少年に武術を教える時に言った、『Don’t think, feel!』“考えるな、ちゃんと感じろ”と言う言葉は人としての永遠のテーマだが、特に今の世の中に必要なことを言っているようだ。アチョッーッ、アチョッ、アチョッ、アチョッーゥ ……
印傳の歴史を伝える印傳屋 上原勇七「印傳博物館」
▲ 古来の革技法を今に伝える印傳屋 上原勇七の「燻(ふすべ)」。今も職人の手仕事により作られています。
▲ 燻(ふすべ)技法による古い巾着。 ▼ 燻の作業現場。
古くから甲州に伝わる印傳(いんでん)は、
「印度伝来」から名をとったともいわれる鹿革の手工芸品です。印傳の手法には、伊勢型紙で漆の模様をつける「漆付け」、型紙を何枚も使い色を重ねる「更紗(さらさ)」、藁や松根(松脂)を焼いた煙でいぶす「燻(ふすべ)」などがあります。印傳屋上原勇七の印傳博物館では「燻」をテーマにした展示を行っていました(6月15日まで)。ドラム状の「太鼓」に鹿革を張り、職人が手で回転させながら煙をあてて染め上げていきます。印傳のなかでも「燻」は最も古い技法といわれ、いぶすことで耐久性を上げ、腐食を防ぐ効果もあったようです。燻で模様をつける技法には、太鼓に糸を巻き、糸の線を白く残した「防線法」や、型紙を使って糊で模様を写す「糊置き」などがあります。煙の当て方や時間、藁、松根の配合などで、様々な色合いを出すことができます。
鹿革は古来から武具などに使われ、伝統的な文様には「小桜」や「菖蒲」、「トンボ」など武家にまつわるものが多く見られます。近世になると巾着や煙草入れ、袋物などにも使われるようになり、十返舎一九の「道中膝栗毛 後篇 乾」(1803年)には「いんでんのきんちやく」が登場しています。
▲ 交叉縞燻腰差し莨入れ ▼ トンボ(勝ち虫)文様の伊勢型紙▲ 菖蒲文様の伊勢型紙 ▼ 燻に漆で文様を付けた縞菊花燻合切袋 飛鳥時代からつづく日本の伝統球技「蹴鞠」にも鹿革が使われていました。江戸時代になると、難燃性の高い鹿革は町火消の革羽織や頭巾にも利用され(主に「頭」の着る高級品)、防寒着として町民にも広まっていきました。鹿革は東インド会社などを通じて輸入されていたようです。
博物館の下にある印傳屋 上原勇七本店では、今の生活に合わせて開発された様々な製品を見られます。明治 5年頃の本店(左下)は、ベランダや窓などに藤村式建築の特徴があります。
が設計し、 1909年に完成した The Glasgow School of Art の図書室を見てみたい。はじめてグラスゴウに行った時は、その一念からだった。実際に訪れてみれば、外観は地味そのもの。すでに様々な書籍で飽きるほど眺めた建物でもあり、建物の前に立った時点では、それほどの感動はない。 だが、一歩建物の中に入り、内部を歩き始めると、不思議な感覚にとらわれ始めた。薄暗い廊下を巡り、階段を上下し、部屋から部屋を見て歩く。徐々に建物の空間に取り込まれていくような感覚に落ちいっていった。訪れた日は参観者が少なかった。他の人々と一緒になっても、少し待っていると、やがて彼らは移動していき、私一人がその空間を独り占めできるのだった。こうして歩いていくうちに、ついに目的の図書室へと到った。その吹き抜けの空間に一歩足を踏み入れた途端、背中がゾクゾクッとして、脳天から背筋へと、何かが光速で飛び抜けていくのを感じた。既に幾多の本で飽きるほど眺め、解説を読み、知り尽くしている場所、であるはずだった。が、そうではなかった。建築を写真で理解することは、絶対にでき 感傷的な話はしたくない。だが、この話を書き始めていること自体がすでに、感傷的になっている何よりの証拠だ。 5月 日金曜日( 2014年)正午過ぎ、英国スコットランドの都市グラスゴウのスクール・オヴ・アートで火災が発生し、図書室が焼滅してしまった。当日校内には催しものの準備で多数の学生がいたが、死傷者はなく、全員無事。世界的にも貴重な建築遺産が、炎を上げて燃え崩れていく様を、多くの学生が涙を流しながら見つめていたという。 外国の都市で建物一つ焼けただけの火事。親族や友人知人に死傷者が出たわけでもない。なのに、こんなに深い思いを抱くことになるとは。人に対すると同じように、あの建築空間に対して「愛惜の情」があったのだ。だから、あの図書室が失われたと知って、心が動かされてしまうのだ。グラスゴウ美術学校図書室は、たしかに私にとって特別な意味がある場所だった。 チャールス・レニー・マッキントッシュ( Charles Rennie Mackintosh )
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スクール・オヴ・アートの図書室と、チャールス・レニー・マッキントッシュ(1868-1928 )。
ない。建築空間の感覚は、その内部に立ってはじめて、全身感覚として知ることができる。
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理性や知性ではなく、感性の世界だ。 図書室は中世の修道院の一室にも似て、静謐で落ち着いた、たたずまいだった。そのたたずまいに導かれて、素朴に見える造りの木の椅子に座り、大工さんが作ってくれたような雰囲気がある机に向かってみる。とうの昔に忘れていた、子供の頃の「秘密の隠れ家」に戻ってきたかのような感覚。マッキントッシュはおそらく、自分自身が「こんな空間で過ごしたい」という思いを込めながら、この図書室を設計したに違いない。毎日ここで好きなだけ本を読むことができるなら、どれほど幸せだろうか。いつしかマッキントッシュというデザイナーが創りあげた空間と自分の内面が一体化していく。あの時の不思議な感覚は、今もヴィヴィッドに皮膚の内側に思い出すことができる。他に参観者はなく、幸運にも 分近く、図書室を独り占めすることができた。あの 分間グラスゴウ美術学校図書室は「私のもの」だった。それにしても、百年以上昔の、スコットランドのデザイナーが生み出した世界に強い親密感を覚える。それは、一体なぜなのか。その時点ではまったく理解できなかった。30 銀器を通じて「アーツ &クラフツ」の世界と出会い、その世界の面白さに惹かれてアレコレ探り歩くうちに、マッキントッシュと出会った。金属工芸の世界から家具そして建築へ。当時それなりの数の本を読み、その世界を理解しているつもりだった。だが、
「言葉の上では」
この図書室で、背筋が震えるような感覚を味わったとき、一瞬にして、これまで自分は「事の本質」を何も理解していなかったと痛感。姿勢を新たに「アーツ &クフラフツ」について調べ直してみようと心に決めた。結果として、オーストリアのウィーンに旅をするところまで、のめりこんでいくことになる。 なぜ、あの図書室に、果てしない親近感を抱いたのか。今の私には、その理由が痛いほど、よくわかる。言葉で説明することもできる。そこに至るまでには、あれこれの本を読み、旅をしてモノを見、建物の内部を歩き、その土地の料理を食べて酒を飲み、空気を吸ってみる、という長い時間が必要だった。それはいわば「あるひとつの世界を探り求める旅」。これをくり返すうちに、物の見方が大きく変化していき、モノから人へと、興味と関心の焦点が移っていった。銀器や家具や建築は、いわば、モノの世界だ。こうしたモノそのものよりも、モノを生み出す人間たちと、モノが生み出される社会背景をより深く知りたい、という方向に変化して、以後、世界の見え方が大きく変わった。 昨年( 2013年)の夏イタリアのある場所で、この図書室での体験以来、十数年ぶりに背筋に電気が走った。「この場所 !」という感覚だ。今回は、なぜそうなのか、ある程度わかっている。これは「あるひとつの世界を探り求める旅」の始まりなのだ。この不思議一杯の魅力溢れる旅の世界へと私を導いてくれた最初のきっかけが、グラスゴウ美術学校図書室だった。その焼失に、心から追悼の意を表したい。
甲府駅北口お城とモダン建築
再開発の進む甲府駅北口「歴史公園」には、甲府城の 「山手御門(やまのてごもん)」が復元されています。後方のモダンな建物は、丹下健三作のメタボリズム建築「山梨文化会館」(1966)。放送局や新聞社などの入る地元メディアの中心です。甲府といえば武田信玄の本拠地として有名ですが、武田氏滅亡の後、豊臣秀吉の命により甲府城(舞鶴城)が築かれ、江戸時代には幕府の直轄領となりました。幕末の甲府城は、武田家家臣・板垣氏の末裔といわれる板垣退助の官軍によって開城されています。明治のはじめ、県令(知事)となった藤村紫朗は、養蚕や織物、ワイン醸造などによる殖産興業をはかり、甲州街道など主要街道の整備をすすめました。藤村は「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を奨励し、甲府独特の街並みを形作ります。甲府駅北口には、藤村式の学校 「旧睦沢学校校舎」(明治 8年)が移築され、藤村記念館として公開されています。
甲州夢小路甲府駅北口の線路脇に、2013年 3月オープンした「甲州夢小路」。明治、大正、昭和期の建物を再現しています。
夢小路のシンボル「時の鐘」は、明治 5年頃まで使われていた鐘楼を再現したものです。昭和20年7月6日〜7日の大空襲 (たなばた空襲)によって甲府市街は焼け野原となりましたが、夢小路では戦前の甲府の街並みを感じることができます。
甲州名物の宝飾品やワインから、甲州ジャム、甲斐絹織物など個性的なショップが並びます。甲州ワインビーフや生マッコリを楽しめる地産地消の飲食店や、草間彌生、竹久夢二の版画を収蔵する「小さな蔵の美術館」もあります。
戦前という時代 太宰治のすごした街
甲府駅北口に近い朝日町界隈は、昭和 13〜 14年の間、太宰治のすごした街です。昭和 13年、恩師・井伏鱒二のすすめにより、教職をつとめていた石原知子と見合いした太宰は、無頼な生活からの脱却を誓い美知子と婚約します。美知子の実家・石原家は、朝日町(当時は水門町)にあり大きな邸宅を構えていましたが、地質学者であった美知子の父はすでに亡くなっていました。婚約の後、太宰は朝日町の下宿「寿館」に移り、石原家に通います。昭和 14年には近くに貸家を借り、約 8カ月間の新婚生活を送りました。
▲戦前のにおいをのこす、寿館跡近くの和楽器店。太宰は寿館近くにあった製糸工場に着想をえて「I can speak」を書いています。
初出「若草」昭和
14
I can speak 太宰治から 甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。 おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。 ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげまして呉れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、投文しようかとも思った。
年2月号
太宰治僑居跡の近くには、太宰の通った天然温泉の銭湯(営業中)や豆腐店、酒屋の跡があります。
オオバナノエンレイソウ
神々のデザイン鎮守の杜にエンレイソウが咲きはじめ新緑がまぶしいとき、写真と文石井利雄(旭川在住)庭では冬の薪造りがいそがしい。
作業の手をやすめて、汗をふきながら杜の浅緑とエンレイソエンレイソウの咲くころウの高貴な白をみると、それは深くこころに沁みわたる。
からだを使い汗を流すことは、とても美しい。
武田家以降の甲府を担った城JR中央本線 甲府駅から見える石垣は、慶長5年1600年)頃に完成したといわれる甲府城(舞鶴城)です。武田滅亡後の甲斐国は、織田信長、徳川家康の支配を受けたのち、
天正18年には豊臣秀吉の領地となり、秀吉は甲府城の築城をすすめます。やがて江戸時代になると、城は甲州街道を守るための要衝として、徳川家が代々の城主をつとめました。かつては 20haほどもある広大な城でしたが、明治維新によって建物は取り壊され、堀も埋められ、敷地はワインの醸造所などにも利用されました。明治 36年には甲府駅によって城は南北に分断されますが、鉄道の開通は人力車や馬車などでしか入れなかった甲府に大きな変革をもたらしました。
▲ 現存する天守台に、天守閣を建てる計画もあるようです。
▼ 白壁は建設当時と同じ技法で復元されています。
城内の一画には、自由民権運動家・小田切謙明の石碑が立っています。明治初期の甲府では、急速な改革をすすめる藤村紫朗知事に対し、庶民から豪農、商人まで自由民権運動による藤村への反発が高まりました。幕末の甲府に生まれた謙明は運動の中心人物として、新聞を発行したり、板垣退助が結成した自由党に参加したり、活躍します。また城の近くに海洲温泉を発見し、生前から海洲権現として祀られていたそうです。城の上に立つオベリクスのような塔は、伊東忠太設計の「謝恩碑」。明治以降に起こった、山林の荒廃による土砂崩れや洪水を防ぐため、明治 44年に天皇から山林が下賜されたことに感謝した記念碑です。山林荒廃の要因は森林の国有化にあったことが、井伏鱒二のエッセイ「甲府」に書かれています。