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7月号 待宵草 2014
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時空にえがく美意識
今月は、根津美術館から表参道交差点をつなぐ御幸通り周辺から、有名建築家設計の建物がならぶ表参道「表参道ヒルズ」近辺までをご案内します。
REALITY LAB. ISSEY MIYAKE
昨年秋、南青山5丁目 FROM-1stビルにオープンした「REALITY LAB. ISSEY MIYAKE」。
「Reality Lab.」は、2007年に活動をはじめた三宅デザイン事務所の研究・開発チームで、ショップでは主に、その研究成果から生み出された「132 5. ISSEY MIYAKE」、「HOMME PLISS. ISSEY MIYAKE」や人気のバッグ
「BAO BAO ISSEY MIYAKE」の他、イタリアの照明メーカーArtemideで製品化された照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」などを扱っています。むき出しの壁や金属の発色が美しい空間は、吉岡徳仁さんのデザインです。一見和紙にも見える「陰翳IN-EI ISSEY MIYAKE」の素材はペットボトル再生繊維の不織布から作られています。
オープン時のプレス発表会より。
長年のプリーツ加工技術をいかした「HOMME PLISS. ISSEY MIYAKE」は、三宅一生さんとReality Lab.チームによる現代男性のための新しい普段着の提案です。縫製後にプリーツを施す製法により、一定幅の直線的なプリーツが入っています。「軽く動きやすい」「シワになりにくい」、「汗を吸い早く乾く」といった機能にも優れ、幅広い支持を得ています。
倉俣史朗さんデザインの「ISSEY MIYAKE」1号店は、1976年、ここFROM-1stビル1階にオープンし、40年近くにわたり変わらぬ光を放ち続けてきました。時代の先端を映しだす各ブランドのショップとして活用され、現在は「132 5. ISSEY MIYAKE」の旗艦店となっています。
一足早い季節感を伝え、時代の変化や世相を教えてくれるショーウィンドウは、南青山を象徴する景色のひとつです。
浜野安弘さん(浜野総合研究所)の企画、建築家・山下和正さんの設計により1976年に誕生したFROM-1stビル(南青山 5丁目)は、当時まだ珍しい街にひらかれた複合商業施設(店舗、オフィス、住居)です。街の一部のように通りぬけられ、気楽に休憩できる吹き抜けの広場を設けています。竣工当時、周辺はまだ住宅地でしたが、表参道交差点と FROM-1stを点で結び、人の流れを作ることで御幸通りの活性化を目指したともいわれます。日本建築学会賞作品賞を受賞しています。FROM-1stの向いにある COLLEZIONE(コレッツィオーネ)ビルは1989年に竣工した安藤忠雄さんの作品です。2000年代以前は、東京都内で敷地内に入れる安藤作品は少なく、今も見学の人が絶えません。視線の先にたどり着くにはどうしたらいいのか、階段を昇り降りしたり、曲がった通路を歩いたり、迷宮を彷徨うかのようなプランが特徴です。テナントとしては、家具(Kartell)や洋菓子(Anniversary)、スポーツジム(CentralSports)が入っていて、地下にはプールもあります。
根津美術館向いのミーレ・ジャパンショールームも、隈研吾さんによるデザイン。下は港区民の足「ちいバス」。地域の小学生による絵があしらわれています。
食関連で HALAL(ハラール)という語が使われる時、それは「イスラームの教義に反しない形で適切に処理された食品」(特に羊を中心とした食肉で)という意味です。 3月中旬幕張メッセで開かれた食の巨大見本市「フーデックス 2014」。日本の出店業者さんが集まるホールでは、「ハラール認証」という言葉があちらこちらで踊っていました。数年前まで日本でめったに聞かれなかった、この言葉。興味深いのは、それがまるで「工業規格」もしくは「食品衛生基準」という雰囲気の扱いがなされていること。「コーランの教えに背かない」という意味での「宗教性」が薄れていて、「肉の捌き方や、食材使用の可否基準を満たしています」といった形の「技術論」に傾いている雰囲気です。これ、ちょっと残念です。そう感じるワケをお話してみたいと思います。
「ハラール」という言葉に初めて出会ったのは、今から二十数年前の、ロンドンです。ウェスト・ケンジントンか、エッジウェア・ロード、
でなければホワイト・チャペルだったでしょうか。黒いチャードルを着た女性たちやパキスタン・バングラデシュ系と思われる男女の姿が珍しくない、街の肉屋さんでした。「コラージ」 2013年1月号でご紹介したインド系の集中するサウソールのように、ロンドンは地域によって、住民の個性がはっきりしている地区が少なくありません。イスラーム系の多く住む街に行くと、英語ではない言葉が飛び交い、ひとつならずモスクがあり、民族衣装や独特の装身具を売る店が立ち並んでいます。そこは「白いイギリス」が中心の郊外ショッピングモールなどとは全く違う、活気ある異国情緒が一杯で、ケバブやカレーやあれこれのスパイスの香りが漂い、ローズウォーターのボトルやデーツ(ナツメヤシ)のパッケージが山積みされる街です。私にとって「ハラール」とは、そういう街の匂いと手触り、そして何より、その街に集まる人間たちと一体のものとして、イメージが出来上がっています。
ヨーロッパの大都会ならば、パリだろうと、ウィーンだろうと、ミ
上は、ロンドンの街角で見られるハラール肉屋さん。右は英国全土に展開する庶民派スーパーASDA(アスダ)内に、ハラールコーナーが出来た時の記念写真。
ュンヘンだろうと同じこと。どこに行っても、必ず街のどこかに、イスラームの人々が住む一角がある。そこで「ハラール」と言えば、街の肉屋や食材店を象徴する言葉であり、お店の経営者も、店先に立つ店員も、そして主要なお客も皆揃って、移民と
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してやってきたイスラーム教徒です。このように「ハラール」とは、イスラーム・コミュニティの象徴とも言える存在なのです。
では、どれくらいの人口が「イスラーム系」に該当するのか。ロンドンを例に挙げれば、トルコ系 万人、パキスタン系 30万人、バングラデシュ系 万人という推計があって、決して「少数」とはいえない人口です。この他に、中東アラブ&イラン系、エジプト&北アフリカ系、更にソマリア系など、合わせれば軽く百万を越える人数になっていきます。しかも、イスラーム系は今世紀最初の 年間で、他の宗教集団に比較して大きく人口が増えている。特にロンドン北部と東部の一部地域で、その増加が顕著です。
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都心に近い所では、バングラデシュ系が多く集まり、小説の舞台にして映画にもなった「ブリック・レーン」は、今では観光名所になっています。この地域、ユグノー教徒とユダヤ教徒の歴史とも深く関係する、ロンドン移民史の面白ポイントのひとつで
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す。また、ベスナル・グリーン一帯は、モスクが4つもあって、バングラデシュやパキスタン系の人々が多く住み、地区代表として、ラシャナラ・アリという議員を国会に送り込むほどの力があります。その住人であるパキスタン系の知人は、「ここで暮ら
す限りは、英語をひと言も話せなくても、
日常生活に何ら支障はない」と断言して
います。このように、英国をはじめ欧州
諸国で「ハラール」と言えばそれは、様々
な偏見と差別を乗り越えながら、大都会
をたくましく生き抜く、イスラーム・コ
ミュニティを象徴する言葉として存在し
ています。
これに対し、幕張メッセの会場に踊る
「ハラール認証」。まるでイスラーム諸国
への「食品輸出に必要な手続きの名称」であるかのような印象です。「認証」を獲得し
た業者さんに話を聞いてみれば、当面の目標は、世界最大のイスラーム人口を抱える
インドネシアと、その対岸マレーシアの市場です。伸び盛りの両国ミドルクラスに向
けて、日本からの食品輸出を伸ばしたい、そのためには、「ハラール認証」を取って、
シール貼って、安心して両国に製品(食品)を送り出したい。運が良ければ、アラブ
諸国のお金持ちにも販路が開けるかもしれないし、東京五輪の来日客も ……という感
じです。あくまでも、海外主体。我が国ではイスラーム系の移民が限られていること
もあり、暮らしの戒律だという「実感」が伴わない。ちょっと残念です。
このエッセイを書くにあたって改めて、知人の駐日サウジアラビア大使館の外交官氏に確認してみました。彼によれば「ハラールの概念には、処理する羊や牛の安楽なる往生を願う気持ちが込められていて、実際にそうなるようにとコーランの伝統の下に処理手順が定められています。その祈りの心が大切なのです」とのこと。「ハラール」は我々にとって異文化への新たな視点を開く扉となり得るものです。単に食品輸出のための「認証マーク」として捉えるだけでは、あまりにもったいないと感じます。
TIME & STYLE HOUSE STORAGE
根津美術館脇の坂道にある、タイム アンド スタイル ハウスストレージは、美しい住環境を実現するための収納家具のショールームです。
このショールームの特徴のひとつは、空間との調和です。壁面収納と家具、床、壁、天井、そして人の介在した時を想定し、バランスのとれた住空間を目指しているそうです。また、収納家具を壁に埋め込み、壁面と収納をフラットにつなげることで、物のボリュームを感じさせない一体感のある空間づくりを提案しています。
タイムアンドスタイルでは、石川県山中の漆器や東京江戸川の型吹きガラス、長崎県波佐見の磁器、愛媛県今治のタオルといった、伝統技術を継承する産地と協働したテーブルウェアなどを開発しています。これらを各種収納に納め、リアルな使い勝手と住空間を体感できるようにしています。物にしばられない暮らしを実現する第一歩は、収納を考えることから始まるのかもしれません。タイムアンドスタイルハウスストレージは、そのきっかけを与えてくれる場所のひとつと感じました。
内田 和子(A&A)
つれづれなるままに
第 回
30年、40年、50年、60年
403030
11私ごとではなはだ申し訳なくおもいます
年
30が、この場をお借りしてのコマーショルの段、ご容赦ください。今年 6月、 A&Aは創業して丸 年になりました。 1984年6月、南新宿の小さな事務所で MACと MiniCAD(Vectorworksの旧名)、そして SweetJAMを担いで設計事務所を訪ね歩
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いてから、 年という月日が流れました。思いを語るにはあまりにも長く、多くの人の出会いで得たさまざまな貴重な体験は膨大なものがあります。今般コラージをご縁に、編集思考室シオング編纂による社史「A&Aの花伝書」を発行することができました。表紙は書家の桑原佐知子さんにお願いし、一般書店でも取扱いをしていただいています。
年、私にとっても人生の大きな節目の年となりました。
今年は THE ALFEE結成 年。ふ
年40
としたことから遅咲きの「追っかけ」 ?をしています。まずは NHKのコンサート。 2階席前列の席を、友人が確保してくれました。はじめて観るステージ。登場するやいなや全員総立ちで腕をあげメンバーを迎えます。まったく勝手の分からない私は、シルバーシートにくくりつけられたように身体が動きません。これがあの THE ALFEEかと浦島花子の気分で過ごすこと 3時間、 1階席にいる彼女らは終わるまでずっと立ちっぱなしです。拳をあげ実に軽やかにリズムをとっているのをみて、そっと真似してみたものの、なんともリズム感がイマイチです。次回は一緒にノレるようにと思います。さいたまスーパーアリーナでのコンサートは 7月下旬。自ら前売りチケットを申込み、 2階席を 2枚ゲットできました。
つれづれなるままに30年、40年、50年、60年
40年、ずっと同じメンバーで飽きもせず、中だるみもせず、ただただ驚嘆するばかりです。
ビートルズ日本デビュー 周年の今年。記念 CDが
年50
60507050480発売されたというニュースをみて、早速銀座の山野
60
楽器店へ。今さら聞けないビートルズ伝説。若かりし 代の頃、ビートルズの曲を聴かない日はなかった。だが興味は薄かった。
60
あの頃、私は何をしていたのだろうか ?何に興味を持っていたの
40
だろうか ?あの時の友は何をしているだろうか ?そう思いなが
ら、日本限定版という CD(590枚入り)を買った。おまけにメン
バー 人のポスターも付いてきた。時折寝しなにウイスキーを片
手に聴いている。そういえばあの頃、大ファンだった友人がいた
ことを思い出した。彼女とは年賀状だけの付き合いだが「会いま
しょう」のひと言を添えて 数年になる。来年の年賀状にビート
ルズのことを書いたらきっと驚くだろう。再会を実現しようと思
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う。 周年記念の日本限定版は海外ですごい人気とのこと。ゲットに乾杯 !
ゴジラ誕生から 年、と聞いて、そんなに古いの ?
年 60
と思いつつ NHK放送の映画を楽しんだ。志村喬、
宝田明、河内桃子と、今の若い人はほとんど知らないと思うが、
私の時代には大いに活躍した俳優である。
海底深く住むゴジラが度重なる水爆実験で、放射能を全身にあび
て品川沖に姿を表し、全てを破壊尽くす様は、いまや娯楽映画と
は言えないかもしれない。今更なんでゴジラなの ?いまだから
こそ ?特殊撮影もさることながら、ゴジラに踏み倒される銀座、
品川、浅草の模型はよくできていた。子供の頃に見た記憶はないが、
NHKで今後、毎週放送されるそうで、楽しみにしている。
それにしてもゴジラ誕生 年。いやはやごくろうさまである。
以上、なんの脈絡もないが、年月の持つ重みというのは「作られる」ということなのだろう。節目を通過点に、次のステップが始まることもまた真実である。人生もしかり、 年の還暦を大事にするのはそのためかもしれない。 年、 年、ひょっとして 年、仕切り直しで歩いて行きたいものである。
銕仙会能楽研修所
ブティックの並ぶ御幸通り。プラダやカルティエの向いに建つコンクリート造のモダンな建物は、能楽を今に伝える銕仙会の能楽研修所です。銕仙会は江戸中期、観世流宗家・15世観世左近元章から分家した観世銕之丞家の門下によって、大正 7年、能楽の研究と親睦を目的に組織されました。関東大震災や大戦をへるなかで、活動拠点を下谷から多摩川、そして南青山に移したのは昭和 30年代。平屋建ての青山銕仙会館には多摩川の舞台が移築され、観世銕之丞家の住居も兼ねていました。昭和 58年には現在の RC造へ建て替えられ、若手建築家たちを集め設計をリードしたのは、映画や TVドラマでも活躍された観世栄夫さんでした。1階の稽古場(右)では、能楽の研修が日々行われます。黒光りするヒノキの床板は、半世紀以上前から本舞台で使われていた板だそうです。
昭和 31年頃。木造の青山銕仙会館。当時は平屋の並ぶ閑静な住宅地でした。
1階から階段を上がっていくと、外観からは想像のできない能舞台のたつ光景に出会えます。この舞台は昭和 5年に多摩川で建設され、終戦後は東京で焼け残った貴重な舞台のひとつとして活用されていました。昭和 30年代には青山銕仙会館へ移築され、建替えに伴って再度移築されたという能楽の歴史を刻んできた舞台です。打ちっぱなしコンクリート壁の空間に能舞台を設けるという発想は、当時かなり大胆なものだったと思われます。観客席は畳を敷いた段々の桟敷になっており、舞台の左脇にも席が設けられています。
念した特別公演も開催されています(次回公演は 9月 27日。詳しくは銕仙会ホームページにてご確認ください)。
本舞台は三間四方(約 5.4m)の正方形です。舞台では、銕仙会若手による定期公演演者は実際の舞台で稽古を重ね、身体感覚「青山能」や公開講座の能鑑賞などが開で舞台の広さを覚えるそうです。かれ、今年は研修所竣工 30周年を記
能楽は元々、神社の境内などで演じられる屋外劇で、舞台のまわりを囲む白州はその名残です。奥の鏡板に描かれた老松は生命の象徴であり神の依代(よりしろ)を表現しています。元来、松は舞台の正面に立ち、それに向かって奉納されていたという説もあります。舞台左手の「橋掛り」は、あの世とこの世を結ぶ橋とされ、幕口をでた演者は橋を渡り本舞台へと進みます。橋の奥行きを感じさせるため本舞台に対して角度をつけて配置し、床には微妙な傾斜をつけています。手前に植えられた若い松は演出のうえで重要な働きをします。奥の竹の絵が描かれた鏡板に見えるのは、囃子方、地唄方が出入りする「切戸口」です。幕口の内側に設けられた「鏡の間」で、演者は大きな姿見の前にたち「面」をつけます。この瞬間に精神を切り替えるそうです。時代の変遷に耐えた能舞台は、研ぎ澄まれた建築美と、時空を往来できる機能を持つ装置であると感じました。銕仙会は新作能「智恵子抄」など、早くから現代能にも取り組んでいます。南青山で伝統と新しさをあわせもつ能楽に触れられる貴重な場所です。御幸通りに昨年夏オープンした INTERSECT BY LEXUS。1階はカフェ、2階はビストロ。インテリアデザインは片山正通さんです。
ヘルツォーク&ド・ムーロン設計の「プラダ・ブティック青山」も竣工から早10年以上たちました。独特の形状は斜線制限や容積率から自動的に導き出されたものといわれ、今も外国人観光客の撮影スポットとして君臨しています。手前に見える光の箱「MARC JACOBS AOYAMA」は、ステファン・ジャクリッチ・アーキテクツ(米国)による設計です。
夜になり輝きを増しているのは、プラダの向いの「ザ ジュエルズ オブ アオヤマ」(設計:光井純 アンド アソシエーツ建築設計事務所)と「カルティエ南青山店」(設計:ブルーノ・モワナー)。
▲ 壁面緑化されたファサードは、南青山サンタキアラ教会。南青山はブライダルの街でもあります。
▲表参道交差点近く、御幸通りの入り口のランドマーク「コム・デ・ギャルソン青山店」。曲面ガラスで構成されたファサードの施工は、倉俣史朗さんをはじめ、数々のデザイナーを支えてきた三保谷硝子店(西麻布)によるものです(最初はブルーのフィルムが貼られていました)。昭和の初めに出来た御幸通りの名称は、明治神宮と皇居をつなぐ道という話から付けられたといわれています。
表参道駅近くTS青山ビルにオープンした「アレキサンダー・マックイーン」の旗艦店。店舗デザインは同ブランドのクリエイティブディレクター サラ・バートンさんが監修したそうです。
表参道交差点の交番と、新潮社のモザイク壁画が残る山陽堂書店
日本初のショッピングカートを導入したスーパーマーケットとして1953
(創業明治24年)。明治神宮よりも古い歴史をもつ山陽堂書店は、
年に開店した紀ノ国屋。外国人客の求めに応じ、欧米風ベーカーリー
御幸通りの建設や空襲、オリンピックの道路拡張など、街の歴史
の開設やチーズ、ワイン、洋菓子などに力を注いできました。再開発に
を見つめてきました。週刊新潮の表紙を創刊から 25年間描き続
より取り壊され、2009年に「Ao」ビル地下に移転します。外観を彩る
けた谷内六郎さんの原画を元にした壁画は、2代目だそうです。
LED(カラーキネティクス社製)照明は季節ごとに色を変えます。
『HEINRICH WANG 八方新気』先月、白磁陶芸家 ハインリック・ワンさん(台湾)のショップ 『 HEINRICH WANG八方新気 』が、南青山・骨董通りにオープンしました。超絶的な技法によって生み出された白磁は、これからの東洋文化のありかたを示しているようです。台湾の国立故宮博物院に、唯一存命するアーティストとして作品が所蔵されているハインリック・ワンさん。1500年に及ぶ白磁の歴史と技法を超越し、白磁の世界に新しい革命を起こした先駆者として評価され、幽玄な造形美は世界の著名人達を日々魅力し続けています。何年もの歳月をかけてようやく完成し、作品として出来上がるのは100分の1個の成功率しかないものもあるそうです。Three Happiness(上)の三本脚は、三つの福 「多福」「多録」「多寿」を表し、九つの装飾は「九つの如意」という意味をもち、天から溢れる恵みを吸収できるようにとの願いが込められています。 インテリアデザイン&プロデュースを手がけられた書画家の麗清さん。「雲海に浮かぶ月をイメージし、ハインリック・ワンさんからは、静寂の中に潜む強いエネルギーを感じ、まるで月のように人を癒すパワーを持つ方だと思います」とのこと。空間デザインの監修を、橋本夕紀夫さんがされた神秘的な美空間です。
Gods of fortune, prosperity and longevity
Destined to Win
初夏は秋播き小麦が色づきはじめやがて刈取りを迎える。北国の夏は短い、お盆が過ぎると秋風が吹き、越冬用の漬物は何にしようかと、はや冬の心配だ。
GALLERY収納 青山
今から21年前、表参道駅近くに誕生した「ギャラリー収納」が、3年ぶりに南青山に帰ってきました。その場所は骨董通りのニッカウヰスキー本社ビル。マンションの建設ラッシュが続く南青山周辺など、都心のマンションライフへ向けた様々な収納プランを提案しています。
Kitchen
キッチンの脇には、コの字型のパントリースペースを提案。ダイニングスペースには低めの収納を備え、家電や小物を効率よく収めることで、ダイニングテーブルの上を常に片付いた状態で保てるよう工夫しています。
Bed Room
TVボードや書棚、化粧台などを備えた多機能な寝室は、壁から離したヘッドボードとワードローブとの間にスペースを設けることで、衣類の準備や着替えをスムーズにしています。新作「 Cシリーズ」は、キャスターで可動するオープン収納を組み合わせ、ウォークインクローゼットや納戸部屋を効率よく利用できます。物を納めることから空間プランニングへと、収納の進化を感じさせてくれるショールームです。
ふじのアートヴィレッジのニューフェースは、手作り箸の「一日一膳」。元橋充さんが一膳づつ心をこめて作っています。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
ふじのスポーツびより
6月のコラージの特集が良かった。いい取材記事だ。オイラは、日本の地方にあるインターナショナルな匂いが大好きだ。グローバルなんていう思想は、今に始まったものじゃなく、この 100年ずっと、ある人たちは実践していたんだ、を感じる。先人たちのスゴさにうれしくなる。ところでココ、「ふじの」にも懐かしい匂いの建築があるんだ。1968年に建設された神奈川カントリークラブのクラブハウスは、アントニン・レーモンドが設計している。コンクリートと木と石をつかった素材がいきているとても良い建築だと思う。ゴルフは苦手なんだけど、年1回ぐらいコラージの塩野さんたちと一緒にプレイする。2人でゴルフそっちのけで(2人とも自慢するぐらいヘタ)、このクラブハウスを味わっている。昔、BC工房で復刻していたレーモンドの奥
木材には BC工房の端材を有効利用している。パープルハートなど箸としては珍しい樹種も。
さんノエミ・レーモンドがデザインした三角スツールが、このクラブ
ハウスの片スミにあるのを発見した時は、驚き、うれしくなってしま
CC
った。ここに来る人たちは、ほとんどレーモンドを知らないだろうけ
ど、名も知らぬ作り手の想いを感じてくれているのだろう。
オイラの仕事場「きらきら工房」は、このクラブハウスのちょっと下
CC
側にある。歩いて5分の近さだ。
「きらきら工房は、自慢のバラック建築」スタッフ皆で作った。
夏の暑い中、このクラブハウスのレストランに来て、氷イチゴを食べ
たのを思い出す。
この夏は、神奈川 で早朝ゴルフを楽しむつもりだ。朝5時半から 5000円である。ゴルフというより、芝生の上を歩くのが楽しい。あっちへ、こっちへ、ウロチョロ 10Kmのウォーキングである。ゴルフ場をウォーキングできたらいいナー、などと考えていたら、これまた近くの相模湖カントリークラブが、早朝ウォーキングクラブを始めた。朝5時半から、3km、5kmと歩けるのだ。マジメにスポーツなんてやってないオイラだが、
「ふじの」に来てから、
藤野倶楽部の週1回の早朝テニスは4.5年つづいている。
オーナーのクワさんの面倒見の良さに感謝である。
「ロブ鈴木」と自称して、ゆったりテニスである。
神奈川 の月1回のゴルフも、塩野さん、クワさんとつづけたら、
きっと、うまくなりそうだが ……?
まあ、ふじの暮らしの基本は「温泉生活」。毎日、やまなみ温泉で、
温泉裸のストレッチをやってる変人オイラの方が似合っている。
著名な建築家が競演する表参道。共通するテーマのひとつはケヤキ並木との関わりです。隈研吾さん設計の「One表参道」(2003年)は、外壁にカラマツ集成材のルーバーを被せ、柔らかな印象を持たせています。伊東豊雄さんの「TOD 'S 表参道」(2004年)はケヤキの枝ぶりをモチーフにした有機的なデザイン。竣工したての團紀彦さん「表参道 Keyaki」ビルは、木立
のような列柱を外周に立てることで、並木や隣接するビルとの共生を図っているようです。モリハナエビル(設計・丹下健三)の跡地に建てられた「オーク表参道」。1階はエンポリオ アルマーニやコーチ、ネスプレッソブティック、2階はアーティストの杉本博司さんが手がけた料亭金田中のカフェ「茶酒金田中」が入っています。ファサードの設計には丹下都市建築設計が参加し、ハーフミラーで覆われていたモリハナエビルへのオマージュを表しています。
敗戦後に練兵場は米軍に接収され、ワシントンハイツ(兵舎や家族用宿舎)となります。表参道には米国人相手の小さな店が並ぶようになり、キデイランドも当時は外国人向けの洋書、高級玩具を扱う店だったようです。
オーク表参道にて、杉本博司さんによる空間「究竟
英語での礼拝を行っているインターナショナルな頂 」と数理模型「Marhematical Model 013」。
教会「東京ユニオン・チャーチ」。
▲ 1998年オープン、アニヴェルセル表参道のカフェ。
▼ Apple Store近く、モスカフェのテラススペース。
▲ サッカーワールドカップの開会同日(6月13日)にオープンした「Apple Store-Omotesando」。巨大な屋根付きテラスの3方向をガラスで囲ったような構造です。オープンカフェのメッカであった表参道らしいデザインといえるかもしれません。
▲ 青木 淳さん設計の「ルイ・ヴィトン表参道」(2002年)。周辺宅地との調和が考慮された、スケールを感じさせない、小さな箱を集合させたデザインです。
▲ SANAA(妹島和世さん +西沢立衛さん)による「ディオール表参道」(2003年)。ガラスを張った外壁の内側に、ドレープ状に膨らんだアクリルパネルを設置したダブルレイヤー構造によって、外観全体が独特の白い光を放っています。
▲ 同潤会の建物を模した「同潤館」。
▼昭和初期の青山アパートメント。
▲同潤会青山アパートメントの跡地に建設された「表参道ヒルズ」。上階には居住部「ゼルコバテラス」があり、その目前に空襲を生き延びたケヤキが立っています。関東大震災を機に RC造の耐火・耐震建築として計画された青山アパートメントは、当時最新鋭の台所設備、水洗トイレなどを備えるほか、共同の食堂や屋上を利用した浴場、子どもの遊び場など、住民同士のコミュニケーションまでを視野にいれ設計されていたことが、80年近く住み継がれてきた理由のひとつと思われます。
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戦争と日本人
バルツバルトのフライブルグと言う美しい大学街で、1年にわたる独日友好協会の厳しい研修期間を経て、ワクワクする晴々とした高揚感のなか、ドイツでの自由な学生生活をスタートさせた。 戦後社会主義と欧米中心の自由主義との隔たりの象徴として、対立国は軍事抑止力として掲げた原爆や水爆保有の増強へと走り、対立をエスカレートさせていた。この冷戦の流れは、 年代半ばソ連のゴルバチョフの登場によって歯止めを掛けられ、融和へと導くようなゴルバチョフの存在は、社会主義の中から生まれたリベラルで新鮮な時代の香り、これから来るべき変革の時代への大きなうねりを感じさせていた。 対立する時代から、お互いを認め合うような融和と対話へと向かう時代の転換期だった。その後、世界の流れは、この頃を境にして、最も象徴的な出来事であったベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統一へと繋がり、その後は東ヨーロッパ諸国自由化、旧ユーゴスラビアやチェコソロバキアの内紛と崩壊、中東諸国の内紛、そして天安門事件へと続く。この 年の動きは中国経済の台頭や社会主義諸国の開放によって、冷戦構造から平和主義・自由経済へ向かい、まとまってゆくように見えていた。 しかし、中東の恒久的平和を目指して立ち上がったイラク・フセイン専制政治に対するアメリカや NATOの湾岸戦争の始まりによって、世界はまた誰も望まない新たな対立の序奏へと動き出し、その後のタリバンによるアフガニスタンの実効支配やハマスなどイスラム原理主義の台頭する中東諸国の
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かれこれ 年近く前のこと。僕がまだ 歳の時、ドイツの南端に位置するシュ
ドラゴン怒りの鉄拳
2 吉田龍太郎( TIME & STYLE )
イラク、イラン、シリア、エジプト、そしてアフリカといった国々での内戦。昨年から続くウクライナとロシアの紛争。さらに先日からのイスラエルとパレスチナによるガザでの報復戦争……。 世界の映像は冷戦時代や世界大戦時へと巻き戻されているような気がして、戦後生まれの日本人が経験をしたことのない血生臭い火薬の匂いがしてきた。
政治家や一部の人間だけかもしれないが、戦いに前向きな日本人の性(さが)が芽生えてきている気がしてならない。ロシアや中国も軍備を増強し、韓国などの近隣諸国も反日本の狼煙をあげるなか、アメリカにすがるように日本も集団的自衛権と言う建前を巧みに使いながら、アメリカの意図による対ロシア、対中国との冷戦状態へと、政治の舵は切られ始めている。 取り返しの付かないところまで日本の危機が迫っていると感じるのは私だけだろうか。日本がふたたび軍事国家へと進む気配に危機感を抱く近隣諸国の心配は、ごくごく当然の受け止め方だ。武器を捨てて戦わないことは、武器を持って威嚇するよりも勇気のいる戦いであり、戦争を回避する勇気ある有効な選択の一つである。戦後日本の在り方は、世界の中で唯一無二の平和への理想国でもあったが、私達は今、その理想と誇りを捨てようとしている。
私がドイツでの学生生活を始めた頃は、学生寮の学生の大半は外国人ばかりだった。戦後の西ドイツは労働力を担保する意味や大戦の反省もあって、外国人を受け入れる政策が進んでいた。当時の西ドイツには、様々な国々から労働者や留学生など多くの外国人がやってきて、ドイツでの仕事や勉強や生活を望んでいた。その多くは比較的裕福な外国家庭の学生が多かったように思う。どこの国の学生達も自分たちの国に対する強い愛情と使命感を抱いていたように感じた。 日本からの留学生だけが、甘ったれた気持ちで使命感も持たずに、なまぬるい卒業旅行の延長気分で、のらりくらりとした意味の無い贅沢な学生生活を送っていた。もちろん、勉強に対する真剣さも他国からの留学生とは歴然とした差があった。あたかも六本木で遊んでいるかのような若者達が、日本のバブルで儲けた親から贅沢な仕送りを受けて、外国の自己責任社会にもとづいた自由に溺れ、酒池肉林の宴を繰り広げているような有様だった。そんな魂の抜けた日本からの留学生には、世界で起こっている時代の変革の動きや、様々な国々の文化や慣習、そしてそれぞれの民族の国民性を理解することなどできない。まさに、世界には様々な国があって、そこにはそれぞれの文化慣習があり、豊かさと貧しさ、国々の歴史観、国と民族の遺恨の連鎖、そして今も続く内戦など、世界は多様なのだということに対し、日本人の認識はとても低い。その見識と認識の低さは優しさや繊細さなどではなく、ただただ無知なだけなのだ。 留学生の中にはイスラエルの他、パレスチナ、イラン、イラクなど中東イスラム諸国の若者も多く、それぞれの国の関係や歴史を知らない私達には、彼らの人間関係は理解できなかった。ある時間になると自国の方向に向かって祈りを捧げ、ある時期になるとラマダンの断食をして、神に自分を捧げる宗教観や習慣も初めて知った。そして、彼らが誰しも自国への強い誇りと愛情を抱き、イスラムの宗教を強く信じていて、神と国と家族は絶対的な存在であり、そのためには自分の命をかけることを、日本人として初めて知った。
僕にはいつも仲良くしていたイスラエルからのユダヤ人留学生の友人がいた。ある日、パレスチナからの男子留学生達がたむろしているところで僕は呼び止められた。 お前は日本人だから空手ができるだろうと言われ、彼らの一人と組み手をするようにと背中を押された。彼らは全員で円陣を組んで日本人がどんな行動を見せるか、鋭い真剣な目付きで睨んでいる。『これはまずい空気だな』と感じつつも、何かをやらなければその場から去る事はできない雰囲気を悟り、一人の若者と組み手をすることになってしまった。その若者はパレスチナ兵の猛者のように、殺意を剥き出しにした恐ろしい形相で僕に掴みかかって右の拳を突き出してきた。生まれて初めて『殺される』と感じた。そして彼は僕を突き飛ばし建物の壁に頭を押し付けると、頭すれすれのコンクリートの壁に、自分の素手の拳に体重を思い切り乗せて『ゴツッ』と打ち付け、ニヤリと笑った。頭上のコンクリート壁に突き刺ささった、重く拳がぶつかる鈍い音と固いコンクリートから響いた振動は今も脳裏から離れない。その彼の瞳の奥からは躊躇の無い冷酷な殺意を感じた。その時に悟ったことは、世界には心から憎しみを持つ人々が存在していること。生きることは戦うこと、生きることは殺すことが現実の日常にある人々や国々があって、生きるために戦う覚悟をしている人々が存在すること。誰かと仲良くすれば、関係の無い場所で敵意を抱く人間が存在すること。 本当は集団的自衛権とか、抑止力とか言っているような人間達にこそ、様々な国々でお互いの家族や子供を殺され続けてきた民族の、本当の憎しみの存在と恨みの連鎖が存在することを伝えなければならない。世界の戦争の歴史はまさに恨みの連鎖によるものだ。そこにあるものは全てに正当な理由が存在し、家族や国への正義があり、愛情がある。どちらにも戦う理由があり、しかし、その負の連鎖がさらなる悲劇を生み続けているのが中東諸国イスラムの現実なのだ。 僕はイスラエル人の留学生と仲良くすることで、パレスチナからの留学生の感情の中に僕自身には理解できない敵意を抱かせてしまったのかもしれない。もしくは僕の行動の中に。彼らに対し感情を逆撫でするような行為があったのかもしれない。無知な若い日本人が何かしら、彼らの大切なものを侵したのだろうし、それは彼らにとって許されることでは無かったのだろう。まさに今の無知な日本と世界の関係と同じようなものだ。イスラム諸国では常にどこかで戦争と恨みの連鎖による殺戮が繰り返されている。その紛争解決のために、他国や同盟国が武力による介入をしては、負の連鎖を招いてきた。
人類の歴史は戦争の歴史だと言われている。どの時代、どのような国にも公明正大な戦争の理由が存在した。しかし人を殺すという事実には、公明正大な正当性は存在しない。近年の日本の歴史はどうだろうか。日本は数十年前に韓国や中国などのアジア諸国に踏み込み、そこに住む人々を殺し、侵略した歴史の事実を忘れてはならない。 現在からたった数十年前に、日本は近隣国を侵略し、多くの隣人を殺し、そして多くの日本の若者達を戦闘に巻き込んで自らの手で日本の子供達を殺したのは私達日本人自身、私達のたった1、2世代前のことなのだ。私達の世代の日本人はその真実を忘れず謙虚な気持ちで、これからの日本の進む道を決めなければならない。いつの時代も無知な大人達の判断によって、多くの国民の尊い命が犠牲となり、また後世の人間達がその罪を償うことになる。また、その遺恨は現在でも中国や韓国など、近隣諸国の人々の心の中に残り続けている。現代の無知な政治家達の責任は、すなわちその国民、私達自身の罪であり責任である。国のリーダーは武力で国を守ることよりも、国民の心を高揚させる、胸躍るような夢や未来の心の豊さへの希望を与えてゆかなければならない。いみじくもアメリカから与えられた憲法が私達の国のお守りとなった。 戦争をしないはずだった私達は70年後、また同じ過ちを繰り返そうとしている。アチャ、アチャ、アチャー。残念で無念でしかたがない。
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