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8月号 火まつり 2014
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時空にえがく美意識
富士のふもとで
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
「信仰の対象と芸術の源泉」として、世界遺産に登録された富士山。今月はその北麓に位置する富士五湖を中心に、富士山とともに生きてきた人々の足跡をたどりました。写真は11月頃の富士山を太平洋側からみたところ。富士山の向こうに富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)があります。山並みの向うは山梨県甲府周辺です。
山中湖にすむ白鳥とカバ富士五湖の東南に位置する山中湖。水戸岡鋭治+ドーンデザイン研究所による遊覧船「山中湖の白鳥の湖」(プリンセス・オデット号をリニューアル)と水陸両用バス「山中湖のかば」は、湖の景色の一部になっていました。
親子連れに大人気の KABA。外国製の「KABA 」に続き、国産の「KABA2」が導入されました。
標高約 1000mに位置する山中湖畔は、テニス合宿の聖地としても知られ 1000面以上のテニスコートがあり、多くの宿泊施設にコートが併設されています。大学の合宿場や企業の保養施設もよく見かけます。山中湖でシチューの美味しい店として有名な「キャセロール」。ビーフシチューに使われるブラウンソースは、野菜を中心に煮込んだスープを裏ごししたもので、開店以来、継ぎ足しながら熟成させているそうです。
富士山における気象観測のルーツは、新田次郎『芙蓉の人〜富士山頂の妻』に描かれ映画やドラマにもなった気象学者・野中到氏といわれています。明治 28年、私財を投じて山頂に気象観測所を建設した野中氏は、千代子夫人と共に史上初の山頂での越冬観測を試みますが、体調を崩し失敗します。その挑戦は富士山頂気象観測の道を拓き、ドーム建設につながったのです。
ドラゴン怒りの鉄拳
3
アチョッ
アチョ〜
あちょ〜
チョッ
機械文明がもたらしたもの。 先日テレビを見ていたら、
ソフトバンクの孫社長がペッパーと言うロボットの話をしながら『これからロボットは自分の意思を持つようになって、将来一家に一台ロボットの時代がやって来る。』と言うような話をしていた。『ふーん、そんなもん要らんなー。』と思ったものの、そういえば20年前は、今みたいにタッチパネルの携帯電話で画面を触りながらメッセージを送ってみたり、機械に日本語で話しかけると外国語の音声で翻訳してくれたり、個々がそんなものを持つ時代が来るなんて、遠い未来の空想世界ように思っていた。 駅のホームで電車を待っていると、ほとんどの人たちが頭をもたげて携帯の画面を触りながら何かを読んだり、書いたり、送信したりしている姿を見ると、生身の人間であるのかと虚しくなってしまう。カフェでカップルが座っていても、街を歩いていても、クルマや自転車に乗っていても、人々の意識は前に座っている彼氏では無く、画面の向こう側の世界に行っている。いつの間にか、気付かぬ間に人間性を排除するウィルスのような進化が世の中に蔓延してしまい、日に日に文明の発展という名の退化の道を辿っているように感じている。私達の生活のほとんどは機械なくして成立しなくなって久しい。私達が毎日食べているもの、ほぼ全てが機械の手を少なからず借りて生み出されているし、毎日の通勤も遠距離の移動も機械の助けなくしては成立しない。私達人間が生み出しているもの全てが機械文明の恩恵によって成り立っている。
小さな頃から好きな女の子が出来ると自分の気持ちを押さえることができず
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
に、何度も手紙を書いた。何度も書いては破り、書いては破り、同じフレーズの書き出しを何十枚も書いてはその手紙に自分の気持ちを込めて夜通し時間を忘れて書き続けた。手書きの便りで想いを相手に伝えることは素の自分の想いを伝える術だった。夜明けまでの最悪の時間帯に書いた手紙に封をして、切手を貼ってから翌朝迷いながらも決心してポストに投函する。それから、何とも言えないような不安な日々を過ごしながら、彼女からの返事を待ち続ける。しかし、待てども返事は来ないのだ。この何とも言えない不安感と期待感が入り交じった数日間はとても長くせつない時間帯だ。彼女に直に告白できるような根性は無かったが、直筆で書いた手紙に言葉では伝えられない感情を乗せて真剣に自分の想いを伝えることは大切なことだった。
ドイツで仕事を始めた時、取引先の先輩から受け取った厳しくも優しさの宿る日本語の手書きメッセージにいつも励まされていた。『このプロジェクトが実現できたら会社は大きく飛躍できる。お前の手に掛かってるんだ、宜しく頼むぞ!』と力強い直筆で書かれた手紙が送られて来ると、『よし、期待に添えるように必ず成功させよう。』と感情を込めた便りには強く心を動かされた。 そして毎月のように父から届いた葉書や手紙はその丁寧に書かれた真っすぐな筆跡から僕のことを心配する気持ちが伝わってきた。今でも父の筆跡を想い浮かべるとその時の父に守られているような安心感に包まれる。 人の手で書かれた便りには、メールでは伝わらない人間の温もりのようなものが感じられた。
機械化による利便性は現代の社会には欠かせないものとなり、社会や経済活動の進化もコンピューターを省いては成立しない。私達の生活の細部にまでコンピューターシステムが網羅され、今や子供の成長過程にコンピューターやインターネットは不可欠となった。どんな情報でも直ぐに入手できる便利さ、行きたい所にも当たり前のように機械が案内してくれる、どこでも何でもインターネットがつながり、買い物が出来る利便性を私達は手に入れた。製品のデザインも、生産も、販売管理も機械やコンピューターの力を借りて成り立っている。しかし私達は気付かない間に、機械化によって獲得したもの以上の、とり返しのつかない大切なものを失ってしまったのではないだろうか。人間と機械とのバランスを失った現代の社会問題や犯罪の根本がここに起因していると感じている。
昭和 54年に「勝山村甲州郡内ザル学校」としてスタートした工芸センターは、勝山ふれあいセンター内にあります。元校長先生や県外から移住された方なども集い、日々その技術を磨いています。子どもの頃から竹細工を作ってきた会長の小佐野さん。材料となるスズ竹は富士山の2合目(1700m)に自生する細く、しなやかな青竹です。網目が細かいため麺類のザルや米とぎザルに適し、会長は蕎麦屋から注文された高台付きのザルを編んでいました。勝山周辺の農家では古くから農閑期を中心に竹細工が盛んで、ザルやカゴを担いで険しい峠を越え、甲府まで行って米などと替えていたそうです。「戦後のコメ不足の時期も、農家は喜んでカゴ・ザルと米を交換してくれた」と会長。展示販売されているカゴには製作者名が表記されています(道の駅などでも販売)。スズ割器を使い、2〜3年物のスズ竹を4ツ割、あるいは 6ツ割にしてから肉の部分をヘギ引き包丁を使って削り、残った皮の部分(ヘゴ)だけを竹編みに使います。小さいザルで 29本使うそうです(本数は必ず奇数にする)。
ヘゴを使って底の部分から編んでいきます。縦横 3本ずつアジロに組み、そのまわりをモジリ編みにして放射線状に丸く広げます。その後でヘゴを 2本ずつ交互に編んでいきます(ザル編み)。最後は1年ものの柔らかい竹で周囲を仕上げます。
▲お茶の時間。手作りのパイやブルーベリーなどを持ち寄ります。技術伝承の新しい姿を実践されていると感じました。
河口湖大石地区に伝わる素朴な紬織物 大石紬伝統工芸館
河口湖畔の大石地区は、大雨のたびに起こる湖の増水で耕地を荒らされてきました(現在は排水路により解決)。そのため山間で始めた焼き畑の農地が桑畑に転用され、養蚕を発展させていったようです。
▼ 繭の糸くずから作られる貴重な「きびそ糸」。
大石紬の魅力は、素朴でシンプルな絣(かすり)柄や縞柄です。昔から養蚕、製糸、染め、織りにいたるまで農家の主婦が一貫して行ってきた珍しい産地で、出荷できない繭を使って作業着を織ったり、富士巡礼の人々に分けて収入源にしていたようです。今も冬場には、大石公園に近い「大石紬伝統工芸館」に近所の主婦が集まり、手作業の座繰りによって紡いだ糸で機を織り、大石紬の伝統を守っています。
(大雪山国立公園 北鎮岳)
神々のデザイン写真と文石井利雄( 旭川在住 )ガスに煙る白鳥の雪渓
其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、何と云う幸福な人たちであったでしょう。アイヌ神謡集(知里幸恵著)より
そして彼等は、大雪山をカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)と命名し、深く敬意をはらい、尊敬していました。
忍野八海で知られる忍野村にある「山梨県立富士湧水の里水族館」。富士山から湧き出る伏流水を利用した淡水魚の水族館です。
曲面の水槽を二重にした大水槽では、幻の魚といわれるイトウなど大型魚と、オショロコマなど小型魚が一緒に泳いでいるように見えます。湧水の透明度はとても高いことが分かります。
川の下流から上流にかけて、どのような魚が生息しているかを連続して展示した水槽もあります。下流にすむフナやコイ、ウグイから、上流のアマゴやヤマメ、源流近くに暮らすイワナまで、川をさかのぼりながら自然に近い雰囲気で観察できるよう工夫されています。真夏でも氷水のように冷たい富士山の伏流水が、川や湖に生きる魚たちを育んでいます。館内の温度も低く抑えられ、避暑にはぴったりの水族館でした。
センター内の「東京イノベーションハブ」に、建材・家具メーカー、塗装会社、内装業者など、多方面からの受講者が集まりました。女性の参加者も目立ちます。下は実行委員長の東海林貞雄さん。
木材塗装を考えるためには、まず木材とは何なのかを知る必要があるそうです。最初に登壇した森林総合研究所の片岡厚さんは、針葉樹や広葉樹の構造の違いを解説。道管の多い針葉樹と、道管・木繊維などが複雑に絡み合った広葉樹の特性を樹種をあげて説明しました。次に神奈川県産業技術センターの鈴木隆史さんは、木材用塗料の主な種類と、それぞれの特性を解説。セラックニスやラッカーなど古くからある塗料やポリウレタン塗料などが持つ機能や利用法を教えました。東京都立産業技術研究センターの村井まどかさんは、木材の素地調整から塗装、仕上げにいたる工程を分かりやすく解説してくれました。
▼ 森林総合研究所 木材改質研究領域機能化研究室室長 片岡 厚氏▼ 神奈川県産業技術センター 工芸技術所 専門員 鈴木隆史氏
▲東京都立産業技術研究センター 表面技術グループ 副主任研究員 村井まどか氏
▲ イボタ虫の分泌液とセラックニス。
講師の話からも、木材塗装を実践するためには、木材、塗料、塗装法をトータルに学ぶことが大切と分かりました。会場には普段なかなか見られない、ラッカーを使った伝統的な塗装方法の工程が分かる塗装見本や、イボタ虫の分泌液から生成されるセラックニスなどが展示され、木材塗装のプロが親切に質問に答えてくれました。
▼同じように刷毛で塗っても、環孔材(アッシュ)と散孔材(メープル)では、仕上がりは大きく異なります。実演によって、講座で得た知識をより深く理解できました。
初の試みとして、キャピタルペイント長澤良一さんによる実演も行われました。広葉樹の中でも、環孔材(ナラ、アッシュなど)と散孔材(マホガニー、メープルなど)では適切な塗料や塗装法が異なることを、実際に塗料を塗りながら解説してくれました。刷毛塗りのテクニックなどをスクリーンに投影し、会場全体で見られるよう工夫していました。
塗装基礎講座は来年も開かれる予定です(開催予定はコラージでもお知らせします)。
この他にも日本エンバイロケミカルズ 小林勝志さんや職業能力開発総合大学 坪田 実さんなどによる講座が続き、最後は東京都立産業技術研究センターの塗装関連機器設備を見学しました。塗装実験室では、塗装ロボットを利用して、環境にやさしく効率的な吹付け塗装法を研究しているそうです。他に塗膜の性能試験方法や、照明実験設備、家具の性能実験設備など、参加者は興味津々で見入っていました。
富士北麓の忍野村は、富士山の影となる厳しい環境のなか、
忍野八海富士北麓の村忍野八海に代表される伏流水をいかした暮らしを営んできました。
富士山とともに世界遺産に登録された「忍野八海」。忍野村では湧水を利用した川魚の養殖やクレソン、ソバ、トウモロコシなどの栽培が行われてきました。平安時代の延暦 19(800)年、富士山の大噴火によって周辺の村々は溶岩に呑み込まれました。忍野村は噴火によって生まれた湖の跡に出来た集落で、地面の下には地底湖が眠っているという説もあります。忍野八海の一画にある「榛の木林民俗資料館」は、藁葺の民家や水車小屋などを資料館として公開し、富士山麓の暮らしを今に伝えています。藁葺き屋根を修理中の「渡邉家」は18世紀後半に建造された村最古の民家で、屋根はこの地域に多い「兜造り」になっています。玄関には「ヒイチー」と呼ばれる、籾殻をいれた富士山型の厄除けを掲げていました。
座敷の奥の勝手場には、囲炉裏を囲む家族の場所があります。囲炉裏に坐る位置は、向かって手前が姑の席(嬶居床)、右は主人の席(上座居床)、左は嫁の席(下居床)と厳しく決められています。右は 2階の作業場へ続く階段です。
玄関を入って左の座敷には、仏壇や神棚が祀られています。
階段を上がると、養蚕に使われた「蚕棚」や「機織り機」のほか、古い農機具が遺されていました。稲作の難しい富士五湖周辺の村々では、明治から昭和のはじめにかけて養蚕が盛んに行われ、蚕の守り神である蚕影様(こかげさま)を信仰していました。最上階にあたる「煙だし」まで上がると、周囲を見渡せます。
ハンノキの根本にある忍野八海のひとつ「底抜池 (そこなしいけ)」。泥の下は底なしといわれ、この池で洗い物をすると底に吸い込まれてしまい、神の怒りをかうと畏れられていました。
用水路が整備されるまで、稲作を出来なかった忍野村ではトウモロコシやソバを主食としてきました。
湧水の流れ込む小川には、水草が揺らいでいます。
忍野八海のひとつ「お釜池」。釜のような窪みがあり、コイが静かに泳いでいました。忍野八海は古くから富士の霊場として尊ばれ、池の水でみそぎをしてから富士登山に向かったそうです。
それでも地球は回ってる
Mr
4
第二部「ジーノ編」 リオ再び野田豪(AREA)
ホノルル pm 7:00Mr
新作家具の発表会。パーティ会場の壁にもたれ、遠巻きに業界人たちを眺めていたジーノに近寄ってきた一人の男がいた。眠そうな目、どこかとぼけた表情、細い体にタイトなスーツ、布切れのようなブラックタイ。ネイティブのようにも日系のようにも見える。差し出された手を見てジーノは顔を上げた。男は親しみやすい笑顔で、「こんばんわっす、ジーノ、いや、 .ホワイト」と言った。知らない顔だった。「どこかでお会いしていましたか ?」「いいえ、直接はお会いしてませんっす」どことなく英語がおかしい。ジーノの瞳が微かに揺らいだ。脳内検索をしているのだ。「新作チェア、いいっすね。角の造形がなんとも ……自己紹介がおくれました。僕はジョージ・ヒル。フリーライターです」男は手に持ったキュベを口に含んだ。ジーノがようやく相手の手を握った。
「初めまして ……」男が自分のグラスをジーノのグラスに合わせようとした。
「 ……リオ(馬)」乾杯をしようとした男の手が止まる。ジーノにリオと呼ばれたその男は下唇を突き出すようにしておどけた顔をした。「すごいっすね、どうして偽名って分かったんす ?」「右手のグリップたこですね」リオは自分の手のひらを開いてじっと見つめた。右の眉がピクリと上がった。「細いグリップの拳銃、あきらかに特注です。銃底にレイ(花飾り)を彫り込んだ小銃使いの噂を聞いたことがある」ジーノが伏し目がちにそう言うと、リオが目を輝かせた。「すげえっす ……さすがジーノさんだ」リオが腕を大きく広げた。抱きつかれそうになるのをジーノが躱す。「君は、先代(マカニ・ブルーノ)の懐刀でしたよね、プリンス(ロック
No
マン)の護衛で日本に行っていた」「ああ、それは昔の話っす」「今は敵方ラフィンの 2か。よく命があるものだ」「まぁいろいろ訳ありなんす、あ、あと 2とかじゃないっす。そういう堅っ苦しいの嫌いなタチなもんで」ジーノはもう一つジャブを入れた。「Foxー Faceの件ですね」しかし、リオはもう驚かなかった。「そうなんす」神妙な顔をして頷いただけであった。思考を先回りされる会話に慣れているようだった。そこにノイズ(違和感)を感じた。「その狐顔がウチのボスの周りをやたらと嗅ぎ回ってるらしくて」ラフィンホクだけじゃない。ジーノは言った。「Foxー Faceは、つい最近、インビジブルの娘にもちょっかいを出しました」「ナツキちゃんに ?」リオが驚いた顔をした。「顔見知りなんですか ?」「いえいえ、業界狭い上に、ジーン・セバークばりの美人さんっすからね。」思わずジーノは笑ってしまった。「また古い女優が出てきたものだ。まあ確かに似ていますね」つられて笑ったリオだったが、すぐ真顔になった。「ジーノさん、何か情報持っていたら教えて欲しいんす」ジーノはリオのとぼけた顔を覗き込んだ「正式に ?」ジーノの裏の顔は故買屋だ。特に情報の売買がジーノの得意分野だ。「はい」リオが胸
No
を張って答えた。ジーノは下を向いた。考えているふりをする。必要充分の秒数を数えて顔をあげると、リオがニヤニヤ笑っていた。また、ジーノの脳内にノイズが走った。今度はアラーム音付きだ。なにかがおかしい。
「ジーノさん今、間を取りましたね、考えているフリをした。」リオはわざわざ[ MA]と日本語で発音をした。ジーノの瞳の動きがピタッと止まった。「居合術に曰く後の先が千の道を拓く ……でしたっけ ?『ソーマの木』っていう思考法でしょ ?」みるみるとジーノの表情が強ばり始める。「Professor Tsutae Araka w a(荒川伝教授)ですよね、ミラノ大学でしたっけ ?」ジーノの胸に人差し指を突き立てながら、リオが畳み掛ける。ジーノの脳からノイズが消えた。違和感の答えがでたのだ。「君か ……」ジーノの振り絞るような声。「はい。僕っす。荒川警部補 ……つまり荒川教授の息子を日本で殺しました。まぁそれも昔の話っす。ジーノさんの兄弟子っすよね、荒川先輩は」周りの人ごみを気にしてか、リオは日本語でそう答えた。ジーノは日本語を理解できない。しかし、なぜかリオの言っている意味は理解できた。温和なジーノの顔が鬼の形相に変化しつつあった。「ツインブリッジ事件も、僕の相手は君だったと言うわけだな ?」ジーノの手の中で息絶えたスウィフト署長の苦悶の最後を思い出した。怒りで目の前が白くなってくる。その時、リ
オが左手をジーノの顔の前にスッとかざし、指をバチンッと鳴らした。ハッとジーノが我にかえった。憑き物が落ちて行くように、顔の赤みが引いて行く。「だめですよ、ジーノさんらしくもない」リオはジーノを完全に翻弄していた。対人攻略で負け知らずのジーノにとって、ここまで他人に感情をコントロールされるのは初めての経験であった。「君もソーマを使えるのか ?」「はあ、まあ。長い間、荒川先輩とずっとコンビを組んでいたもんですから、見よう見まねで盗みました。我流ですよ」リオがわざとらしく頭をかいた。
思考体系を無数の葉、小枝、枝、幹などを有した大きな木に例える。その「木」に人の思考を当てはめ、ありとあらゆる情報からその人間の心理を把捉し、次の行動を推測する。つまり、「ソーマの木」とは、一種の行動主義心理学である。この学派の始祖は「パブロフの犬」で有名なイワン・パブロフ博士。ミラノ大学の荒川教授は、第二次世界大戦時この行動主義心理学をイタリア軍部用に開発したミューラー博士の教え子であり、唯一の継承者である。ミューラー博士は当時、人の行動は、推測するだけではなく人為的な外的環境(=刺激)を与えることで、制御、コントロールできるとする学説を唱えていた。その研究はムッソリーニ政権下の軍部に利用されたが、成果を待つ前にイタリアは降伏をしたのであった。つまり「ソーマの木」とは、ある人間の明確な意思下で完全に制御・コントロールする技術である。「ツインブリッジ事件か ……懐かしいっすね。まあ、そうです。僕は新米黒子参謀としてジーノさんの相手をさせていただきました。でもね、あの時負けたのは僕でしょう ? あなたの戦術に少々土をつけたくらいだったにすぎない」「少々だと ? スウィフトが死んだんだぞ」「それはお互い様っす。こっちはマカニが死んだんす」ジーノはリオを睨むと言った。「いえ、
「君はソーマを荒川に習ったと言ったな」盗んだんす」「では、ツインブリッジの時はその技術を持っていなかったということになる」「はぁ、まぁ ……」「あの時既に手強かった君が今やソーマまで使える …」
「あ、そういうことっすね ?」リオが一人でうんうんと頷いた。「つまり君が今僕の前にわざわざ顔を晒したと言うことは ……」近いうちに黒組織と警察が大きな衝突をするということだ。「ですです」「つまり僕に」「はい。今度は出しゃばるなと釘を刺しに来たんす」口を開いたジーノを制してリオが続けた。「あなたはもう僕に勝てない。だから今回はおとなしく家具でも作っててくださいね」語尾が優しさに満ちあふれていた。慈愛の声音だ。リオは完全にジーノを見下していた。 ■
富士山を遠く崇める 北口本宮冨士浅間神社
富士登山道北口(吉田口)の拠点として江戸時代から栄えた富士吉田。巨木にかこまれた「北口本宮冨士浅間(きたぐちほんぐうふじせんげん)神社」は、登山道の入口として信仰を集めてきました。境内の手水は、巨岩をくり抜いた水盤に富士の裾野からひかれた泉端(霊水)をたたえています。ちなみに「富士」の語源は古語で火の神を表す「フチ」から、
「浅間」はマレー語で煙を表す「アサッ」からきているという説もあります。古代には、富士山は足を踏み入れてはならない霊峰とされ、拝殿から遠く遥拝するものだったといわれています。平安時代になると修験者たちが入山するようになり、江戸時代には一般に広まって関東を中心に「富士講」が盛んになります。スギとヒノキの巨木を脇にしてたつ神楽殿では、奇祭として知られる「吉田の火祭」などにあわせ、富士太々神楽が奉納されます。神社の境内でご神体(富士山)に向かって舞うという、神楽本来の姿を今に伝えています。
北斎の描く富士登山
葛飾北斎「富嶽三十六景」の一枚「諸人登山」には、穴蔵の中で御来光をまつ富士講の人びとが描かれています。江戸時代に大流行した富士講は、富士山への信仰を持つ人の集まりです。当時の富士登山は、江戸から往復 10日がかりの旅だったといわれ、江戸各町の講社では毎月の行事(お焚き上げなど)を行いながら、講員からの積立によって登山者を送り出しました。登山者の世話をしたのが、富士吉田に百件近くあったといわれる御師(おし)の家です。宿泊や登山用具の手配、出発前のお清め、登頂ガイドなどの他、シーズンオフには江戸の講社をまわり、信仰の普及につとめました。境内にある富士登山道吉田口。毎年 6月30日〜7月1日の開山祭と9月10日の閉山祭には、ここで神事が行われます。鳥居をくぐると、講社の立てた登山記念碑が並んでいます。吉田から富士山五合目までの道のりは、江戸時代は徒歩やカゴ、明治時代には人力車や馬、昭和初期になると乗り合いバスが走るようになりました。鳥居の脇に立つ石像は、東京都内で活動する富士講のひとつ「丸藤宮元講」の先達(指導者)です。講社(先達の自宅)では、富士の女神である木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)を祀った毎月のお焚き上げが続けられ、白装束にスゲ笠、金剛杖という昔ながらのスタイルで「六根清浄」の声を掛け合い毎年の登山を行っています。講員にとって富士登山は信仰の実践なのです。世界遺産登録を機に、富士講の伝統を見直す気運も高まっています。
噴火で分断された湖 精進湖
富士五湖のひとつ精進湖。貞観大噴火により西湖と分断されたといわれます。富士山の手前に見える青木ヶ原の樹海は、噴火後の溶岩流に森林が再生した姿です。湖面はカヌーのメッカとしても知られ、全国大会も開かれています。
ここ数年とても気に入っていた役者が去る 2月、ヘロインの過剰摂取でニューヨークの自宅で亡くなった。フィリップ・シーモア・ホフマン、享年わずか 歳。かつてのスターが落ちぶれて、というなら話はわかる。だがホフマンの場合は、その正反対。 2005年に作家トルーマン・カポーティを演じてアカデミー主演男優賞を受賞。以後演技は一層深みを増し、まだまだこれからが楽しみという男だった。だが、もはや自分ではどうにもできないところまでヤクに溺れていたらしいから、どうしようもない。運命なのだ。困ったことに天才肌のアーテ
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ィストほど、こうした傾向が強い。何故か私は、そういうタイプに強く惹かれる。決して「破滅型人間が好き」というわけではない。若い頃から、音楽や絵や演技が気に入って、そのアーティストについて調べてみると、なぜかこれが決まって「破滅型」。直感的に、そういう人間たちが生み出す世界に惹き込まれていくのだ。 世界に名が知られるほどのアーティストは、誰しも、強い自己葛藤を抱えている。これをうまく「いなす」ことができるかどうか。そこが破滅に至るか否かの、分かれ目だ。その境界線上に張られた一本の細いロープ。その上を、何とかバランスを取りながら渡っていくほかに、道はない。それができないなら「死んだ方がマシ」。良くも悪くも自分で自分を、その高みにまで追い込んだ状況で、創造行為に自己の
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すべてを賭ける。この一瞬の爆発を「作品」という形に昇華させるには、高い技量が要る。その獲得には長期の修練が必要だ。その意味では、神童なんて、あり得ない。
それだけの高い集中力で「創造行為という戦い」を終えた後は、自己を解放しなければ、精神が持たない。追い込んで、創造して、解放する。毎日がその繰り返し。彼らは病気の時でも「創造行為」だけは、絶対に欠かさない。その精神の集中状態から自己を解放するために必要なのが昔から、散歩・旅・美食・セックス・アルコールそして、薬物。並べた順に問題が深くなる。世界には、これを同時並行で生き抜くような化け物が存在する。その代表例が、英国の画家フランシス・ベーコン(1909〜 )だ。この 5月に行われたクリスティーズ( NYC)のオークションでは、『ジョン・エドワードの肖像画のための 3つの習作』と題された 3枚一組の作品が、 8千万ドルすなわち 億円で落札されている。 その日常生活が、凄まじい。毎朝早くスタジオに入り、 5時間ほど制作に没頭する。朝の光が大切で、昼前には仕事を終える。問題は、ここから先だ。家に友人(男)を招いてワインを楽しむ。もしくは一人でパブに出かけて軽く数杯ひっかける。それから、レストランで時間を掛けて昼食。美食家で大食漢なのだ。ここでワイン 1本が空く。次いで、クラブ(英国的社交クラブ)に赴いて飲みながら、しゃべり続けているうちに夕暮れ時がやってくる。夕食は再びレストランに出向いてしっかりフルコースのディナーを飲みかつ食べた後、ナイトクラブへと繰り出していく。そこで飲み続けた果てに更にカジノへ、という日も珍しくなく、ベーコン氏は「博打好き」でもあったのだ。時にはその博打場からの帰り道、通夜営業の店で夜食という鉄の胃袋ぶり。しかも、これで氏の「飲んで食べて打つ一日」が終わるわけではない。恋人がいない時には、人恋しい彼は、なんとか友を説得して
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自宅へと連れていき、その日最後の酒を共にする。「不眠症との戦い」という宿痾を抱えていたのだ。こうして、その日最後の酒を終えた後、心を落ち着かせるために古い
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料理書を繰り返し読み、睡眠薬の力を借りて眠りにつく。これが「人生の特別な一日」ではない日常で、日にワイン 本を空にしたというから、驚くほかはない。絵画制作という創造行為、その精神集中からの解放のための、酒と美食と博打、男関係と睡眠薬。
歳代に至ってロンドンの貧民街出身の犯罪者の青年を恋人としていた時期もある。この
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激しさで人生を走り続けながら、 歳という長寿を全うし、作品ひとつの価格が 億円。「破滅型 ?なんか文句あっか」の境地ではないか。
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伯父の友人に、某全国紙文化部の将棋担当記
者がいた。大学生の頃、二人の酒席によく同
席させてもらった。この将棋記者氏は、升田
幸三( 1918〜 )に心酔していた。破天
荒な指し手で知られ、五歳の時から酒を飲み
始め、一日に酒最低一升、タバコ二百本を吸い、
その言動の機知に満ちた奇抜さで知られた天
才棋士だ。たとえば、若い女性棋士に対して「女
は将棋なんて強くなくても抱き心地さえ良け
ればいいんだ」と言い放ったという。見事に「男」
である。何事も世知辛い昨今ならば、この発
言一つで週刊誌に見出しが踊る騒ぎになりそ
うだ。大酒飲みで、決して見かけがいいとは
思えぬ風貌で、こんな問題発言を繰り返す升
田幸三。ところが、これが女性にモテた。飲
兵衛で容姿が冴えないという点だけは共通す
る将棋記者氏は、うらやましげに言っていた
「ああ見えて升田は、女にモテる。だから夜はいろいろとお盛んで ……」。「新手一生」をモットーに、「新手の考案」という創造行為に人生を賭けていた升田幸三は、その行為から発する強い磁力によって他者を惹きつけていたに違いない。見かけが悪かろうと、破滅型だろうと、関係なし。人間の魅力とは、そういうものではないだろうか。
富士には、月見草がよく似合ふ天下茶屋
太宰治や井伏鱒二が滞在したことで知られる天下茶屋は、河口湖畔から甲府方面へ向かう「御坂峠」にあります。茶屋の横を抜ける御坂隧道の完成は昭和6年、その後、昭和9年に天下茶屋が開業しました。
晴れた日は、太宰治が『富嶽百景』に「こんな富士は俗でだめだ」と書いた富士の絶景を望められます。太宰は昭和 13年9月〜 11月の 3カ月にわたり天下茶屋に逗留し、井伏鱒二のすすめで甲府市の石原美知子さんと見合いをしました。翌年に井伏邸で式を挙げ、甲府で新婚生活をスタートします。天下茶屋の2階は太宰治文学記念室になっていて、滞在中に使われた生活用具や写真、資料を展示しています。天下茶屋での日々から生まれた言葉「富士には、月見草がよく似合ふ」を刻んだ文学碑は、茶屋の向い、古い峠道の途中に立っています。右は除幕式に訪れた美知子夫人と娘の園子さん(元衆議院議員・津島雄二氏夫人)です。
御坂峠を越えて甲府市へ向かう御坂みちを、リニア実験線の延長区間がまたいでいます。騒音や積雪対策などから、ほぼ全区をシェルターで覆っていました。リニア新幹線からは、景色を眺められないようです。
クニマスの奇跡 西湖
観光化が最も進んでいない「西湖」では、
幻のクニマスが発見され話題となりました。
クニマスは元々、秋田県田沢湖の固有種で
したが、湖の酸性化により絶滅してしまいま
した。それ以前に西湖へ放流された記録が
見つかり、探索の結果、2010年に生息が
確認されたのです。土石流で失われた村を再現 西湖いやしの里根場
昭和41年9月。富士山麓を連続して襲った台風 24号、26号の豪雨により、西湖北岸の根場地区、西湖地区は大規模な土石流に見舞われ。死者・行方不明者 96名を数える大災害が起こりました。
特に被害の大きかった根場(ねんば)地区では、総戸数 41棟のうち 37棟が全・半壊し、村は壊滅状態になりました。火山性の崩れやすい土壌であり、土石流の再来も予想されることから、村は西湖の湖岸へ集団移転します。
園内では養蚕や炭焼き、ワサビの栽培などが行われ、村の原風景を再現しています。甲州で欠かせない食事のひとつ「ほうとう」。ほうとうを冷たくして、つけ汁で食べるものは「おざら」と呼ばれます。