コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
9月号 夕月夜 2014
http://collaj.jp/
万葉かおる高岡
時空にえがく美意識
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
▲ 北陸新幹線に使われるE7系(現在は長野新幹線)。
▼現在は越後湯沢から特急はくたかに乗り換えて行きます。
北陸新幹線の開業(2015年 3月)で東京からもぐっと近くなる「高岡」は、江戸時代から続く鋳物の街としても知られています。高岡駅前で路面電車(万葉レール)を見守る銅像は、万葉集の編者 大伴家持。天平18年(746)越中守(えっちゅうのかみ)として高岡へ派遣された家持は赴任中の5年で多くの歌を詠み、223首が万葉集に収録されました。
かからむと
かねて知りせば
越の海の
荒磯の波も
見せましものを
大伴家持
こうなると前々から知っていれば、
この越の海の荒磯にうち寄せる波でも
見せてやりたかった
氣多神社と大伴神社
伏木のパワースポット「越中一宮 氣多神社」。長い階段をあがると、加賀前田家の家紋(加賀梅鉢)をつけたブロンズ製の馬が奉納されていました。氣多神社の銘水。創建は養老 2年(718年)僧・行基によるものと伝えられ、戦国の戦乱によって焼失する以前は周囲に大伽藍が並んでいたそうです。
上杉謙信の戦火により焼失した本殿は永禄年間(1558.1569年)に再建され、室町の寺社建築の特徴をよく伝えています。空海筆といわれる額「一宮」を掲げた本殿の柱には、弁慶のこぶしの跡といわれるくぼみがあります。
氣多神社に隣接する大伴神社は、大伴家持の没後 1200年(1985年)を記念して、家持の高岡に対する貢献への感謝をこめ、大伴家持卿顕彰会によって建立されました。
境内にたつ大伴家持顕彰碑の脇石には、家持が越中の自然風景を描いた歌「越中三賦」にちなみ、立山・黒部川上流の石、射水川(現在の小矢部川)上流の石、岩崎ノ鼻の石を配置しています。家持は奈良の都とは異なる高岡の自然や風習を愛しみ、歌を通じて都の人々に伝えようとしたのです。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
いまふたたびの …あれから一年。
12
1年に1度の健康診断、中性脂肪の数値がじわりじわりと上がってきたのを除けば、他はほぼ標準値内、まぁまあといった成績である。が、ここ数年、診断結果の封筒にはなにやらおまけがついてくるようになった。 最初は3年前、封筒を横目に1週間ほど出張に出掛けそのまま開封するのを忘れてしまった。1ヶ月以上たち書類にはさまれた封筒を発見。中の秘密めいた封筒には
「開けるな!」と封印が押してある。中性脂肪の数字がちょっと上がった程度と強気でいたが、膝がガクガクしてきた。胃にポリープらしきものがあるから至急に精密検査を受けなさいとある。すぐに病院へ向かった。
30年以上も前に胃カメラを目の前にしたことがある。毎日決まった時間に吐き気がおこり、いくつか病院を訪ねた。原因不明で最後は胃カメラを飲むしかないと太い管を出されたが、それだけは勘弁と逃げ出した。思いめぐらし、幼児期にかかっていた小児科医を訪ねた。診断は、軽い自立神経失調症という。全く信じられない事だった。医者は、病気ではないからと薬は処方しないという。結局、帰りにやきとりとビールで暑気払いならぬ気落ち払いをした。以来、ぴたりと吐き気は止まった。名医である。あの「胃カメラ」と再びご対面と思うだけで胃がムカムカしたが、今度ばかりはやきとり・ビールというわけにはいかないかもしれない。覚悟を決めて病院へ行った。
医者は、あの時とは比べ物にならない細長い内視鏡を持って事務的に処置をしていく。一瞬喉に違和感はあったものの、管はすんなりと喉を通った。それでもモニターに自分の胃の中が映し出しているのを見るのは、気持ちのいいものではない。看護婦さんの白衣の裾をそっと持っていた。「大丈夫ですよ」と笑いながら言うが、検査結果が出るまでの長い時間、不安で一杯になる。結局、二人の医師の診たてで、「なんでもない」ということにおさまったが、うれしくもなんともない。気持ちは落ち込んだままである。
つれづれなるままにいまふたたびの … あれから一年。
その翌年、またも封印付で精密検査とある。年齢も年齢だが、年々健康診断も精密さが増し、今迄発見されなかったものが見つけられてしまうのか、何度も何度も時間をかけての検査が続く。結果は、1年の経過観察ということで、煩わしいことはひとまずお預けとなった。 で、今年の健康診断。またもや封印のついた紹介状が入っている。精密検査は毎回別の場所だが3度目となるとあまり気にならなくなっている。 CTスキャンの検査結果は1週間後に出るという。
ジ・アルフィーのコンサート当日、午前中に銀座でお買い物、美容院で髪をカットして気分は上々。ビール付で軽い昼食を取り、病院へ向かった。受付を終えると、すぐに血液検査をするという。何?と思いつつ採血をしていると、背の高い先生が現れ、「ちょっと待って」という。その顔が気のせいか引きつっている。「えー何ですか?今日は、これからアルフィーのコンサートなんです。」というと、誰のファン?高見沢君?などと返してくるが、目は笑っていない。いきなり点滴を打たれ、すぐに家族を呼べという。「ちょっと待って」それはこちらのセリフ。いやはや頭の中はまっ白である。ただ、コンサートの時間は刻々と迫り、待ち合わせた友人に連絡を取らなければならない。かろうじて「行けない」と留守電に入れ、さて困った。いきなり家族といわれても、地方にいる姉も兄もすでに自分のことで精一杯の年まわり、いらぬ心配をかけたくないと渋っていると、「掛けたの?」と医者は言う。
しかたなく、都内にいる知り合いに事情を話し来てもらうことにした。その間、心電図、造影剤を入れた CTの再撮影と、点滴を腕にくくり付けながら、矢継ぎ早の検査が進む。ビールを飲んだと言ってもおかまいなし。テレビではみたことがあっても点滴は初めてで、バーを持ちながら病院を歩くとは思ってもみなかった。検査室のベットの上には、買い物袋が2つ3つそのまま置いてある。旅行用にと買ったスラックスとハンドバックが袋の中で、じっと息をひそめている。楽しい気分はいっぺんにしぼんでしまった。 つづく
伏木北前船資料館北前船の寄港地として栄えた伏木の港。廻船問屋を営んでいた秋元家の邸宅が北前船資料館として公開されています。大きな切妻の屋根をかけた土蔵の上には、船の出入りを見張る「望楼」が設けられています。
大きな木造家屋のようにも見えますが、中は衣装蔵、調度蔵という2棟の2階建て土蔵になっています。
越中国守館跡(高岡市伏木気象資料館)
大伴家持が暮らした国守館跡に建つのは、旧伏木観測所です。廻船問屋・藤井能三たちにより日本初の私設測候所として明治16年(1883)に開設され、明治 42年(1909)この地に移ってから100年以上にわたり気象データを送り続けているそうです(現在は無人観測)。
朝床に聞けば遥けし射水河朝漕ぎしつつ唄ふ船人
大伴家持
朝の床で遥か遠くに聞こえてくる。射水河を漕ぎながら唄う船人の声だ。
家持が赴任3年目に詠んだ歌。国守館の寝室に聞こえる船人の唄声を描いています。伏木での暮らしにも慣れはじめ、地元民の生活に目を向けた心持ちが伝わってきます。
勝興寺(越中国庁跡)
家持の時代、国庁(役所)の置かれた場所にたつ勝興寺。地方都市としては破格な規模をもつ寺院で、元は「古国府城」という山城でした。戦国時代は浄土真宗本願寺教団(一向宗)の拠点であり、その後加賀藩主前田家とのつながりも深めた勝興寺は、北陸の有力寺院としての地位を築きました。現在は平成の大修理が進められています。唐門は京都・興正寺から北前船で運ばれ移築された門で、見事な彫刻に目を奪われます。右の鼓堂や本堂、経堂などの建物は、京都・西本願寺からモチーフを得ているといわれます。勝興寺の門前町 伏木の人々は、寺と生計をひとつにして、加賀藩から特権をえた勝興寺に守られながら、北前船をはじめとする海運業で栄えたそうです。
高岡古城公園(高岡城址)
越中国庁跡ちかくの高台にたつ「高岡市万葉歴史館」。大伴家持の生涯を紹介した展示や万葉集にちなんだイベントを開催し、万葉集研究の交流拠点となっています。高岡市街の高岡古城公園では、お堀の水上舞台で万葉集 20巻 4516首を3昼夜にわたり朗唱する高岡万葉まつり朗唱の会が開かれています(10月の第1金・土・日)。
In
タケオとジョージが来てくれた
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記
特別寄稿
『世界の果てまで行ってコウボー』
JAWA 写真・文 タケオ
恐るべし、『JAWAのミスター』スズキ・ケイゾウ氏。この地に入って 20年、ついにレンガ積みのコテージまで造っちゃいました!
毎朝テラスで小鳥のさえずりと、大音響のコーランを聞きながら。鈴木さん特製の厚切りベーコン炒めと、大好物のマンゴーの朝食。
コテージのインテリア、『やはり究極は天蓋付きのベッドですよね!』個性ある素敵なインテリアのコテージは全部で 5棟、ファミリータイプも建設中。タケオ『鈴木さんには驚かされっ放しですよね!』ジョージ『イヤ参ったねー』近くのリゾートビーチにて。
工房? イヤイヤ、立派な大工場です。(管理棟より仕上げ棟を見る)工場の建物まで格好良すぎです。
コテージからの日の出。JAWAから世界に打って出る BC工房の新しい挑戦。何から何までイッパイ学ばせて頂きました。おかげさまで最高の夏休みになりました。鈴木さん、有難うございました、そしてごちそうさまでした。 オータニ タケオキレイに管理された治具、基本は手作りですが、品質面は機械化。『これは儲かってます!』
ランチはいつもBC工房の社員食堂で、スタッフと共に。『味・ボリューム共に満点!』
高岡では千本格子のことを「さまのこ」と呼んでいます。町家を再生した高岡市鋳物資料館では、高岡の鋳物史を紹介しています。加賀藩藩主・前田利長は高岡入城後の慶長16年 (1611)、城下町づくりの一環として大阪堺の流れをくむ近郊の鋳物師を招き鋳物場を開きました。高岡開町 400年を記念して「たたら吹きの再現」が行われました。溶解炉に風を送る足踏み式の「たたら」が復元され、前田利長公愛用の鯰尾形兜を鋳造しました。町にはたたらを踏みながら唄われていた「やがえふ」がうたい継がれています。
はじめは鍋・釜・鉄瓶や農機具など鉄鋳物が作られていましたが、江戸中期には釣り鐘や灯籠など銅鋳物も生産され、民衆への仏教の広がりとともに、仏具づくりも盛んになります。江戸末期になると技巧をこらした大型の花瓶や香炉なども作られ、工芸美術品として陶磁器とともにヨーロッパへも輸出されました。今年2月に開催されたアンビエンテ国際消費財見本市
(フランクフルト国際見本市会場)に、シマタニ昇龍工房製の.子が、TIME & STYLEによって出展されました。来場客もはじめて聞く音色に驚いています。
最大で直径約1mの.子を作るそうです。永平寺や南禅寺など全国の名刹におさめられています。4代目昇龍の島谷好徳さん(高岡銅器伝統工芸士)。
「.子」は日本人独特の音への美意識から生れたと語ります。修業時代の好徳さんは祖父の横で 5年間以上、.子の調音(鳴り出し)に耳を傾け続けました。その音色には「甲・乙・聞」の 3種類あり、
・
甲(カン):打った瞬間にでる「カ.ン」となる音。
・
乙(オツ):ワ.ン、ワ.ンと鳴る中音域の音。
・
聞(モン):最後まで鳴り続ける「モ...ン」音。3音のバランスがとれた時、不快にさえ感じる金属音が、.子の音に生まれかわるそうです。
好徳さんが.子の製造工程を解説してくれました。最も重要なのは口の部分(ハタ)で、この輪が音色を決めるそうです。材料は黄銅(真鍮)板で、通常よりも銅の割合が多い銅7割:亜鉛 3割のものを使います。これも音色と大きな関係があり、江戸時代の.子を調べると、この割合になっていたといいます。「ハタ」の部分を金槌で叩いては伸ばし(鍛金)、金属の密度を高めていきます。叩くと黄銅は硬くなるため、高温の炉で熱して叩いてを繰り返します。上は炭とコークスを使った炉。下は昇龍工房オリジナルの「バイ」(.子を叩く道具)です。満足できるバイが少なくなったため、特許製法を開発しました。伝統的な仏具の世界も徐々に進化しています。溶接した後は溶接跡を金槌でつぶし、炉で真っ赤に熱しながら金床を使い形を整えます。これを数十回繰り返し、やっと.子の形は完成します。金型などを使わずに鍛金で一点一点つくるため、作り手により形に特徴がでるそうです。
ここから.子づくりの本番と好徳さん。金槌で音を出してから「ハタ」を叩いて調音を進めます。5分で調音できるものもあれば、1日掛かるものもあるとのこと。.子には歴史に培われた正しい音色があり、それを探し求める仕事だそうです。仏教伝来から1500年の年月をへて培われた荘厳な音は、万葉集にも描かれた日本人の感性を示しているようです。
耳を守るため、調音をするときも耳栓をします。金属加工の技術者であると同時に、繊細な調律師でもあります。
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり
大伴家持
(たまくしげ)二上山に鳴く鳥の声の恋しい時がやってきた
家持が赴任していた越中国庁の背後には、奈良の二上山(にじょうさん)と同じ名を持つ
二上山(ふたがみやま)がありました。山に鳴くホトトギスを待ちわびた歌です。
第6回 Vectorworks教育シンポジウム 2014
『デジタルの力』をテーマに、6回目を迎えた「Vectorworks教育シンポジウム」。CAD環境の進化するなか、建築・デザイン教育の最前線を伝えるセミナーには、教育関係者を中心に全国から沢山の人があつまりました。
最初に登壇したのは、VectorworksのベンダーであるA&A新社長の川瀬英一さん。変化の激しい社会情勢のなかで、CAD教育現場の支援をしっかり継続してゆきたいと宣言しました。今回は特別講演に、梅干野 晁さん(放送大学教授)と原田真宏さん(マウントフジアーキテクツスタジオ)を迎え、分科会にはデワンカー・バート・ジュリエンさん(北九州市立大学教授)、中大窪千晶さん(佐賀大学准教授)、松本康史さん(大分県立芸術文化短期大学専任講師)、福田一志さん(日本工学院八王子専門学校非常勤講師)が登壇しました。
「Bioclimatic Designのすすめ」をテーマに、CADを利用した
環境設計教育の重要性を訴えた梅干野晁さん。バイオクライマ
ティックデザインとは「放射、気流、放射」の兼ね合いをコント
ロールすることで快適な環境を作り出すという考え方で、ハンガ
リー人建築家 Victor Olgyayによって提唱されました。
首都圏の夜の熱画像(右)をみると、都心部の熱は早朝になっ
ても下がりません。その要因は緑地の少なさで、緑を増やすこと
でヒートアイランド現象の緩和を期待できます。緑化の検証に有
効なのが、梅干野さんと A&Aが共同開発した屋内外統合熱環
境シミュレーションツール 「サーモレンダー」です。
▲ 自然の力を活かしたチンパンジーの巣と蟻塚。
▲ 快適な環境は「放射、気流、放射」の相対関係で決まる。
▲ 人工天蓋の屋外通路と樹木の街路(表参道)の比較。
▲ サーモレンダーを利用した宅地のシミュレーション。
▲ サーモレンダーを利用した都市開発のシミュレーション。
ボロノイ図
次回の奨学金テーマ「思い切って新常識人になろう」について、大河内勝司さんから発表がありました。今の常識にしばられて
八戸工業大学天坂幸紀さん大河内勝司さん
いるといいものは出来ない。新しい常識を思考旅のきっかけをつくる鞄できるのは学生の特権。
「新常識人」になろうと大河内さん。選ばれた3名の学生が、今年も奨学金を壇上で受け取りました。
神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
高原沼の初秋
(大雪山国立公園)その昔アイヌのスクプヘカチ(青年)とポンメノコ(年頃の娘)は、沼のほとりで日暮れまで恋を語らい、その変幻自在の五色に我を忘れたことだろう。しかし北の秋の日は、釣瓶落しに足早に暮れるのを、さぞ恨めしくおもい嘆いたであろう。
8月17日(日)、恒例の深川八幡祭り「神輿連合渡御」が行われました。通常は3年に一度のお祭りですが、東日本大震災による中止(2011年)を調整するため、前回(2012年)から2年での開催となりました。53基の町神輿が練り歩く、深川のあつい一日をレポートします。
「葵太鼓」の勇壮な演奏に送られ、お神輿は富岡八幡宮へ向います。その頃、神輿総代の幹事たちは八幡宮でお
A.M.6時
祭りの安全を祈願していました。
A.M.5時 町会のひとつ「三好2丁目」の神酒所に、暗いうちから沢山の担ぎ手が集まります。婦人部の皆さんがおにぎりや惣菜、お茶を用意して腹ごしらえさせます。
A.M.8時富岡八幡宮前の永代通りには、53基の神輿が順番取りに並んで集合します(順番は毎回変わります)。お神輿の担ぎ手だけで2万5千人以上、見物人も合わせ30万人以上が参加する最大級のお祭りが始まります。
11時
A.M.お神輿は三好2丁目の資料館通りへと戻ってきます。待ちわびていたご長老の声援に、女性達でお神輿を担いで応えます。昔、女性はお神輿を担げませんでしたが、今は祭りの華として欠かせない存在です。
14時
P.M.永代橋をわたり、お祭りの興奮もピークに。見物客と担ぎ手の一体感も高まります。街の景色はかわっても、お祭りの熱狂は江戸の昔から連綿と繰り返されてきました。
富岡八幡宮前で各町のお神輿を迎える神輿総代たち。無事の帰還を喜びあいお祭りは終盤をむかえます。
17時
P.M.神酒所前に夕日がかかるころ、お神輿を先導した有志や婦人部の皆さん、総代の方々がお神輿を担ぎ、長い一日は終わりをむかえます。そして3年後のお祭りへの準備がここからスタートします。
高岡大仏
高岡市のシンボルのひとつ高岡大仏(大佛寺)は、明治40年から約 25年の歳月をへて、古式の焼型重ね吹き技法で建立された、高岡の職人魂を感じる大仏です。
ドラゴン怒りの鉄拳
4
自
C
由を
MAH
T
与
I
える。
FRE 202520
『ARBEIT MACHT FREI』(働けば自由になる)。ドイツ語で書かれたこの言葉を知らないポーランド人とユダヤ人はいない。ポーランドにあるナチスの強制収容所、アウシュビッツの入口にアーチ状に掲げられた、あまりにも有名な言葉であるから。初めて目にしたのは 代半ば、ただこの ARBEIT MACHT FREIと言う文字を見つめ、あまりにも重すぎる意味を理解するため息を飲み込むしかなかった。 僕が初めてポーランドの古都クラコフ近郊にあるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れたのは、まだポーランドが社会主義国としてソ連や中国との連携を保っていた 年くらい前だったと記憶している。ポーランドは第二次大戦のナチス占領から受けた破壊や、戦後ソ連を中心とした社会主義体制への移行、そしてこの 年間はベルリンの壁崩壊から社会主義崩壊の影響を受けるなど、常に時代に翻弄され続けて来た。まだソ連社会主義の影響が色濃く残るなか、ナチス支配による残虐な記憶を封印し時が止まったように、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所は残されている。この施設は、アウシュビッツの
ARB
労
T
は
EI
働
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
場はマイナス
20
第一強制収容所、ビルケナウ村の第二強制収容所、モノビッツェ村の第三強制
収容所の 3カ所に分かれていた。 1933年にナチの党首であるアドルフ、ヒットラーがドイツ国の首相に任命されて以来、 1945年の強制収容所の開放まで約
10
年の間、ユダヤ人を中
心として、共産主義者や学者、そして身体障害者、同性愛者などの多くの人々がナチスの弾圧によって厳しい迫害を受け、想像を絶する多くの命が失われた。アウシュビッツはホロコーストや絶滅収容所とも呼ばれ、アーリア人至上主義によって反ナチ分子の排除から始まり、戦時中にその動きがエスカレートして行き、ユダヤ人がユダヤ人と言う理由だけで強制収容所に入れられるようになっていった。
終戦までにドイツによるホロコースト強制収容所で殺されたユダヤ人は 600万人以上、 1100万人を越え、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で殺害された犠牲者は 120万人とも 150万人とも言われている。その強制収容所は人間が生きて行けるような環境では無く、人の体がギリギリに入る升目のような棚に人々は収容され、言葉にできない非衛生的な場所と、冬
度を越えるような極寒のなか強制労働を強いられ、病気で死ん
で行くものや毒ガスを噴射して大量に殺戮する目的で作られたガス室に送られ、数百万人のユダヤ人が命を落としていった。 僕がアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の第一強制収容所を初めて訪れ、そこに残された殺戮の記憶を目にした時、それは大きな部屋いっぱいに埋め尽くされた人間の髪の毛の山であった。その中に少女の三つ編みが残されていた。収容された人々は男性であれ女性であれ、所持品は全て没収され、髪の毛は全て刈り取られ、入れ墨の番号を入れられて収監された。第一強制収容所には他に、スチールフレームの丸眼鏡が絡まりながら部屋いっぱいに埋め尽く
は毎年
11
された場所も存在した。また、人々が履いていた靴で一杯になった部屋など、その場所で殺戮された 100万人を越えるユダヤ人の痕跡が残されていたが、 1945年にソ連軍を中心とする連合軍が進行してくる直前、ナチスが証拠隠滅のために強制収容所を破壊し、その痕跡を消そうとしたとも言われている。しかし、その証拠を完全に消し去ることはできなかった。初めて訪れた時には正直、当時、僕が住むドイツの人々が人間の存在を越えた悪魔の化身のように感じ、普通に生きてきた人間がそこまで残虐になれるものかと、しかし、それが私達人間の本性なのかと、人間としての自分の存在に戸惑いを感じた。 戦後ドイツはユダヤ人の殺戮を認め、ユダヤ人に対する人種差別や迫害を繰り返さないよう法律で定め、はっきりと謝罪して現在も各地の強制収容所跡で
月9日に犠牲者への追悼式典を行いながら、自らの過ちを認めてユダ
ヤ人や近隣諸国への金銭賠償を続けている。そんなドイツの中にも、ユダヤ人の大量殺戮の事実や毒ガスによる殺戮の事実は無かったと主張する反ホロコースト識者やネオナチも現れ始めている。
どこかの国では、慰安婦問題や侵略の事実は無かった、証言者の偽証であり新聞社の誤報であると多くの識者や政治家が大声で正義を主張している。そして、その国には戦争責任は無い、悪いのは近隣諸国の被害者意識であるかのような言論が日に日に強くなっている。慰安婦問題の有無の前に、近隣諸国に対し、先の戦争に対してはっきりとその責任と謝罪をしてこなかった国の責任は大きい。その国が他国に侵略した事実を認め、二度と同じ過ちを起こさないこと、識者と言われる常識を逸した人間達の言葉に惑わされない、まともな判断ができる国民でありたい。現在に生きるドイツ人が聡明誠実で素晴らしい人々であるように、当時のドイツ国民の多くも誠実で素敵な人々であったに違いない。一部の識者や政治家を省いては ……。
建築家 ピエール・シャローとガラスの家 展
2014年10月13日まで、フランスの建築家ピエール・シャロー(1883.1950年)の全貌を紹介した日本初の展覧会が、東京・汐留の「パナソニック 汐留ミュージアム」で開催されています。
記者向け内覧会では、本展の監修もつとめたポンピドゥー・センター、パリ国立美術館主任学芸員オリヴィエ・サンカルブルさんの解説がありました。「ガラスの家」で知られるピエール・シャローは、フランス・ボルドーに生まれ、はじめ家具メーカーにつとめデザインを学びました。1919年の独立後は家具デザインやインテリアデザインを中心に活動し、前衛芸術家やモダニズム建築家とも交流。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代に、富裕層の建築・インテリアを数多く手がけ、晩年の10年を米国で過ごしました。
3点ともピエール・シャロー≪ガラスの家≫1927-1931年 PhotocCentre Pompidou - MNAM Biblioth.que Kandinsky - Georges Meguerditchian
シャローの代表作「ガラスの家」(1927-1931年)はパリ左岸に現存する邸宅で、早くからのパトロンであったジャン・ダルザス医師からの依頼で建設されました。18世紀アパルトマンの 3階部分をそのまま残し、低層部をくりぬいた空間の中につくられたリノベーション建築です。半透明のガラスブロックで覆った大空間の中には、上層階を支えるための黒と朱色に塗装された鉄骨が立ち、ファサードは夜、ランタンのように光り輝きます。1階は仕事場の医院で、2階は応接サロン。その上には家族のための個室が並びます。シャローは可動式の家具や浴室などの設備も手がけ、エレガントで繊細なデザインと空間の機能性を両立させました。
1925年のアール・デコ博で、シャローは建築家としての名声を得ます。SAD(芸術家装飾家サロン)のパビリオン「フランス大使の館」の休憩室では、金物職人ルイ・ダルベと協働した吊りベッドを置いた空間を提案しました。ダルベとシャローの関わりは深く、スチール製の脚部にアラバスター(雪花石膏)製のシェードを載せたフロアスタンド「修道女」(1923年)もダルベとの共作です。この他にも会場には、可動式の家具も展示されています。エレガントな装飾美と機能的なモダンデザインの両面を備えたシャローは、世紀末から第二次大戦間の建築・デザインをつなぐ作家の一人として、今後ますます再評価のすすむ存在と感じました。「修道女」
フォーユアアンビエントすけの庄川にかかる高岡大橋のたもと三女子(さんよし)に、昭和 40年代
から店を構えるインテリアショップ「SUKENO」。高岡市・富山市圏
高岡のライフスタイル発信基地の生活者にむけ、常にあたらしいライフシーンを発信してきました。
1990年代のこと「高岡にすごい家具店があるらしい」というわさは、東京のインテリア業界でも話題になっていました。そして1999年、SUKENOは東京・目黒通りに輸入家具中心のショップを出店します(その後、南青山に移転。現在は Minottiのモノブランドショップ)。その本拠地である高岡の店内には、オーナー助野忠夫さんによるクロスオーバーな世界が広がっていました。
▲フランスの作家の陶器。
▲オーナーの助野忠夫さん。▲ コスタボダ(スウェーデン)のガラス器。▲ 織部焼の器。
▲ 高岡の真鍮鋳物や京都の竹細工。
▲ 最近人気のトルコ産カーペットをリサイクルした敷物。
▲フランスで買い付けたラリックのガラス器。
▼ デンマーク製のヴィンテージなソファベッド。
2階のキッチン&リビングを提案したコーナー。SUKENOは家具ショップとしてはいち早く、キッチンや水まわり設備のプランニング販売を手がけ、現在はハウジング事業も展開しています。イタリアや北欧の家具を扱い始めたのは1970年代後半。最初は全く売れず、実売の中心だった旧来の婚礼家具と、店内の展示がズレていた時期もあるそうです。しかしその試みが「輸入家具の SUKENO」というイメージを地元に植え付け、高級家具店としての基盤になりました。
何をどのように発信すれば人々の心を動かすのか?助野さんはトライ・アンド・エラーの繰り返しを楽しんでいるようです。
ヴィンテージな世界観をもつ地下のコーナー。SUKENOの発祥は、祖父が商っていた高岡駅近くの日用雑貨店にあると助野さん。昭和 35年(1960)に先代が家具店を創業し、昭和 42年(1967)には三女子に移転。当時は新婚カップルの多い新興住宅街で、助野さんも新婚予定宅への飛び込み営業を経験しています。ヨーロッパ放浪の後に東京・王子の家具メーカーで修行し、高岡へ戻ったのは 25歳の頃。インターリュプケのシステム収納を置いたところ富裕層の新婚家庭にヒットし、富山県でインターリュプケが何故売れるのかと輸入元にも不思議がられたそうです。輸入家具の直輸入化をすすめ、90年代には数十社のメーカーを扱う輸入家具の WEBカタログを立ち上げ、業界を驚かせたこともありました。目黒店では WEBや 3D -CADを使ったプランニング販売によって小面積の家具店のあり方を示しました。高岡と東京を行き来するなかで、いま助野さんの心を動かしているのはフランスの骨董市で見つけた品々のようです。
オランダでは一定の制限の下、大麻(カナビス)の吸引が合法化されています。アムステルダムの街、とりわけ中央駅からほど近い「歌舞伎町的エリア」を歩いてみれば、これを吸わせる店が何軒も並んでいて、あの独特の草の香りが歩道にまで漂っています。店の外で吸っている人々も珍しくなく、あたかもスタバやドトールのごとく、日常の当たり前の街角の光景。この国ではこうした「大麻喫煙店」のことをなぜか「コーヒーショップ」と呼びます。敢えて言えば、大麻が、タバコやコーヒーと同様の「嗜好品扱い」になっていることを象徴しているって感じです。それにしても、写真にある「カナビス入りアイスクリーム」、これを見た時には、さすがに、度肝を抜かれました。
このコーヒーショップ(大麻喫煙店)という「悦楽の場」、これが都会だけの話かというと、決してそうじゃない。例えばチーズで有名なゴーダ、周りは牛と羊の牧場がひたすら続く、のんびりとした農村地帯の真ん中にある酪農産物の集散地。そんな田舎の町にも、コーヒーショップは、あります。鄙びた田舎町の街の一角に溶け込んでいる大麻喫煙店。なんだか「喫茶店」みたいな感じで、徐々に私の目にも「ごく当たり前の日常」と思えてくるから不思議です。なーんて書くと、「ひょっとして大麻合法化論者なの?」と誤解されてしまいそうですね。
誓って私は、大麻合法化論者なんかじゃありませんので、念の為。
1609年、平戸(長崎)にオランダ商館が誕生します。今から四百年前、オランダが空前の繁栄を迎えつつあった時代です。あの小さな国の大男たちが世界を股にかけて築き上げた海洋交易ネットワーク。これは、東インド会社の庭であった東南アジア、台湾、インド、南アフリカ、カリブ海から北米の各植民地を結ぶグローバルなものでした。この頃アムステルダムの貿易商人たちは競って、世界の果てからはるばる帆船で運ばれてくる様々な嗜好品を分類し、格付けし、大金を払って最高のものを追い求めています。オスマン(トルコ)帝国から輸入されたチューリップの球根一つに、家一軒が購入できる金額を注ぎ込んだ時代です。その当時からオランダは、コーヒー豆とタバコ(特に葉巻とパイプ用)そしてチョコレートへのこだわりが半端じゃない国だったのですね。実際、コーヒー豆とタバコとチョコレートについては、パリやロンドンに優るとも劣らない水準の専門店が、現代のアムステルダムには、あります。こうした専門店に連なるものとして大麻喫煙店も存在している、なんとなく、そんな感じが濃厚です。 海外植民地で帝国を築き上げたという点は、スペインやポルトガル更には英国なんかも同じです。でも、これらの国では、大麻喫煙が合法化なんてされていません。大
86
英帝国の場合は、ヴィクトリア時代にアヘンの吸引がかなりの広がりを見せていたことは間違いありませんし、今だって薬物に対する社会的な許容度と広がりは、日本の比じゃないと感じます。でも、合法化されてるわけじゃない。では、なぜ、オランダだけが、という疑問が沸いてきます。実は歴史的な背景から来ていることですが、国家が個人を法律や慣習で縛る社会と文化のあり方が、他の欧州諸国と微妙に異なるところがある。個人の自由度が高く「何事も自己責任で」という気風が強い、ということになりそうです。
オランダ貿易商の邸宅の庭。
人間が口にするものに対する「タブー」は、地域により異なるし、また、時代によって大きく変化します。例えば、「お昼に酒を飲む」という行為。僕が子供の頃は、これはかなりヤクザなことで、真っ当な社会人のすることじゃない、と思われていました。それが今では、フレンチやイタリアンはもちろん、「てんや」だの「日高屋」のような大衆チェーン店でさえ、当たり前になっています。これ、皆さんあまり気にしないみたいですけれど、見過ごせない変化ですよ。言うまでもなくイスラーム圏では今だって、原則として飲酒は犯罪です。あの「自由の国アメリカ」でさえ、1917〜33年の間は「禁酒法の時代」で、「飲酒=犯罪」でした。それからまだ百年経っていません。そのアメリカで今、カナビス(マリファナ)合法化の動きが、かなり大きな流れになりつつある。既にコロラド州では合法化されていて、これを量り売りする店が登場しています。オバマさんやクリントンさんだって学生時代に経験していると言われるくらいで、米国で大麻吸引は 1960年代から「当たり前の通過儀礼」になっている感じです。フォアグラ販売禁止令の場合と同様に、今後カリフォルニア州で認められるかどうか、これが分岐点になるだろうと言われています。 中高年には懐かしい TV番組「ロックフォードの事件メモ」で知られるジェームズ・ガーナーがこの7月、 歳で亡くなりました。彼、若い頃は、いろいろと問題行動のある大酒飲みだったんですね。あるとき猛反省して禁酒、その代わりに、マリファナを始めた。晩年のインタビューでこう語っています「酒をやめてマリファナに変えてからは、心が落ち着き、問題行動がなくなりました。これで救われたようなものですよ」。かつて禁酒法のあった国で、今、マリファナ合法化の流れが生まれている。事の是非は別にして、時の流れとともに社会のタブーが大きく変化するという代表例になりつつある。食文化ヒストリアンとして、要注目の動きだと思っています。
広辞苑によると『道具』とは、①仏道修行の用具。仏具。②物を作り、また事を行うのに用いる器具の総称、だそうです。高岡には、この『道具』という名をもつ創業約110年の鋳物工場があります。その5代目として会社を託されたのが、道具志朗さん。時代の変化にあわせた鋳物製品のあり方を日々模索しています。事務所の棚に並ぶのは、明治時代から作られてきた数々の置物です。明治期にはパリ万博によってジャポニズムブームに湧いたヨーロッパへ、戦後になると米国や中国にも輸出されていたようです。▲ 原型を外す前に、水を垂らして砂型に水分を含ませます。
真鍮を鋳造するための砂型(生型)をつくる工程。砂には石川県産の細かな山砂をつかい、精度を大切にしています。砂に水分を含ませて粘り気を調整しながら、原型を手で持ち上げて取り外す繊細な技。22歳の若い職人は「型を持ち上げる時が一番緊張する」といいます。細かな砂に写し取られた型は、少しの手先の狂いでもすぐに崩れてしまいます。
砂型(生型)をつくる工程
④砂型を脚で踏んで固めます。ただ踏むだけでなく、型に押し付けるように踏んでいくそうです。
① 原型(これは金属プレート型)に離型剤をまきます。
② フルイを使って、細かい砂を原型にのせていきます。③ スコップなどで粗めの砂を型に投入します。⑤ 原型を外し、余分な砂を吹き飛ばすなど細部を整えます。
▼数種類の砂と樹脂を混練し自硬性の砂を作ります。ブロンズは真鍮よりも粘りがあり、砂型の硬さが必要とのこと。
ブロンズやアルミニウム鋳造などを行う作業場では、自硬性(時間とともに硬化する)砂型を使い、複雑な形状や大型の鋳造品を作ります。大型の砂型同士を頑丈に締めあげ、鋳造時に型がずれたり、熔けた金属が漏れるのを防いでいます。後ろに見えるのはブロンズとアルミニウムを熔かすための炉です。同じ炉は使えないため金属に合わせ別個に設けます。TAKAOKA dining table
工場の一画では、TIME & STYLEのテーブル用金属脚が作られていました。脚部に真鍮やアルミニウム鋳物を使ったテーブルは、高岡の鋳物文化を表現しています。道具さんにとっても家具を手がけるのは初めてで、品質や重量など様々な課題に向き合い、さらなる向上を目指しているそうです。
「10年位ごとに仕事の内容は変化していくものだと考えています」という道具さんは、今はプラスチック製品を鋳物でつくる新技術 RIM成型も手がけています。高岡でも量産型メーカーが増えるなか、職人の技を現在に生かす方策を考え続ける道具さん。先人が技術の粋をつぎ込んだ作品たちも、それを応援しているように感じました。