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10月号 夕月夜 2014
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山河はつづく富山
時空にえがく美意識
Copyright . 2014 Shiong All rights reserved
年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ
大伴家持
〈意味〉毎年、鮎が走るころになったら、辟田川(どの川かは不明)に鵜(う)を幾羽も潜らせて、鮎を追って川の瀬に遊ぼう。
越中に派遣された大伴家持が、天平勝宝2年(750)春に詠んだ歌。。伝統的な鮎漁は、家持にとっても毎年の楽しみだったようです。富山県の「七大河川」のひとつ庄川は、古くから鮎の名所として愛されてきました。
▲庄川流域の砺波平野は、広大な水田に屋敷の点在した「散居村」で知られるほか、豊かな水と電力を活かした、金属工場や化学工場、建材工場があります。
▲ 昭和初期に完成し、砺波平野の用水をまかなってきた「庄川合口ダム」。その上流には小牧発電所があります。庄川では大正時代昭から、水力発電の開発が進められてきました。
庄川をさかのぼり庄川峡にさしかかると、小牧ダムが見えてきます。昭和 5年に竣工した重力式ダムは、東洋一の高さのダムとして評判になりました。これを開発したのは、セメントで知られる浅野財閥の創始者・浅野総一郎氏(富山県出身)で、庄川での大規模な電力開発をもくろんでいました。ダムには木材運搬用コンベアやエレベーター式魚道が設けられていて(現在は不使用)、かつては伐り出した木材を川で運んでいた材木業者との争議もあったようです。ダム湖の観光利用はここから始まり、船でしか行けない秘境の温泉として有名な大牧温泉への遊覧船も出ています。
深い山に閉ざされてきた庄川上流の「五箇山」(赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷)は、ダム工事にともなう道路や橋、鉄道(今は廃線)などによって、街と結ばれていきました。
コスモス
秋は秋桜
鈴木 惠三(BC工房 主人)
落ち武者伝説の里で鮎を食す古民家の宿おかべ
五箇山の入り口にあたる庄川峡・長崎集落は、平家落ち武者伝説の残る温泉地です。わずかな平地に民宿が点在し、天然温泉と庄川名物の鮎(アユ)を楽しめます。そのうちの一軒、古民家の宿「おかべ」を訪ねました。
太い梁や柱には漆塗りのケヤキ材が使われ、飴色に輝いていました。囲炉裏のまわりの壁は煤けて黒くなっています。
岡部家は地元で「おやっさま」と呼ばれる旧家で、先祖は藤原賀房の血を継ぐと伝えられています。五箇山の集落は古くから自給自足の生活を続け、林業や養蚕、塩硝(火薬原料)の生産などで栄えてきました。岡部家が昭和 2年建造の母屋で民宿をはじめたのは昭和 50年代。温泉を開発し集落全体で民宿による村おこしを試みたそうです。
庄川名物の鮎を 30年以上にわたり焼き続ける13代目の岡部さん。清水を引き込んだ生け簀で臭みをとり、串に挿してから囲炉裏に1時間以上かけます。庄川の鮎は水温が低いため大きくなりにくく、これを何匹も食べるのが庄川流域の特徴です。「落ち鮎」と呼ばれる秋の鮎はお腹にたっぷりと卵を抱え、頭から尾まで美味しくいただけました。
ホンコサマ料理は山里の伝統的レシピとして注目され、山菜や自家製野菜の豊富な料理にもその一端が見られます。ソバつゆは少し甘めでダシの効いた、京風の味付けでした。
一人に5匹の鮎がつきました。他に鯉の洗いや自家製野菜、利賀ソバなども。五箇山には「報恩講」(ホンコサマ)と呼ばれる親鸞聖人の命日(11月28日)前後に人を招き精進料理を振る舞う習慣が残っています。岡部家でも輪島塗の膳や椀を揃え、山菜料理やソバ、小豆(親鸞上人の好物)の煮物、豆腐田楽などで客をもてなしてきました。清水を引き込んだ庭の泉には、珍しいモリアオガエルが繁殖しています(普段は樹上にいて見えません)。
先々代が家一軒分ほどの対価を払ったといわれる金沢仏壇。精工に作られた黄金の寺院の上には鳳凰が彫刻され、北陸ならではの蒔絵や螺鈿、木彫、金箔など工芸技術の粋が結集していました。
長崎集落の山神様「蔦崎社」。夫婦円満、子宝に恵まれる神社として、遠くから参る人もいるそうです。五箇山は「倶利伽羅峠の戦い」で敗れた平家の落ち武者伝説をはじめ、南北朝の敗軍や一向衆たちも受け入れてきたといわれます。武士たちは山里の村人と同化し独特の文化を生み出してきました。その姿は民謡「こきりこ節」や「麦屋節」に唄い継がれています。17
主です。生まれはアゼルバイジャンのバクー、石油の歴史を語る時、絶対に欠かせない極めて重要な都市です。イスラーム教徒で、シーア派でいらっしゃいます。
冒頭「戦前日本のある事柄を ……」と触れたのは、スパイ事件
で有名なリヒャルト・ゾルゲのこと。ゾルゲは、このバクー生ま
れ。なぜドイツ人であるはずのゾルゲがバクー生まれなのか。一体
バクーという都市には、どういう歴史があるのか。なんてことを
調べ初めると、国際政治の巨大な力のぶつかり合う重要ポイントな
のだという構図が見えてくる。このカスピ海沿岸の都市は、十九世
紀末から現在に至るまで、巨大な資本と優秀な人材と富と権力を夢見る野望が渦巻く政治の坩堝です。そのバクーでも一、二を争う強力な名門一族に誕生したのが、このメーリバン・アリイェーヴァ氏(1964年8月生)です。父は空軍士官学校長、母はアラブ語を専門とする言語学者、祖父は著名な作家、父方の伯父は初代駐米大使。 1981年
まずは写真をご覧下さい。女優 ?それともモデル ?戦前の日本の政治に関するある事柄を調べていたら、この美しい女性の写真に遭遇。突然「これ誰 ?」状態に。探ってみれば、意外なことの連続で、次々と面白い話が飛び出してくる。今回は、
「食卓」を少し離れて、この驚くべき人物についてご紹介してみます。彼女の名前をグーグ
3
ル検索すると、山ほど写真が出てきます。驚かされるのは、その美貌とファッション。というのは話半分で、それより何より、彼女と共に並ぶ人々の凄さです。文字通り「きら星のごとき」と言っても、大げさでもなんでもない。正に「セレブ」そのもの。で、まず年齢は今年五十歳。お嬢様がお二人に、ご子息がお一人。そのお嬢様に
人子供が生まれているので、この美貌で 人のお孫さんがいる「お
ばあちゃん」です。そのあまりの「若さ」に、この美しいお顔につ
いて、いろいろと辛辣な噂をたてる人々もいるようですが、そんな
のは無視 !なぜって、この人、もともと見かけで人生を渡ってき
た人じゃないからです。本物のドクター、お医者様です。後でお話
3
しますけれど、この国の女性としては飛び抜けた学歴と職歴の持ち
歳で高校卒業と同時に結婚。子供の頃から抜群の優秀
ローマ法王フランシスコと。
この国は、日本とは違って、国家としての歴史的なアイデンティティーがいまひとつ明確ではありません。その弱さを克服する形で、多くの人が忘れていた「アゼルバイジャン的伝統」に連なる音楽とアートを積極的に支援し始めます。ソビエト崩壊後、何となく漂流し始めていた国家意識を目覚めさせ、国民に自信を抱かせる。周到な戦略に基づいた、精神的な意味での国家創成にあたる活動という感じです。単なるチャリティーではない、政治性が感じられます。そして、 2003年に、亡き義父の名を冠したハイダル・アリエフ財団を設立し理事長に就任。チャリティーと文化保護に重点を置き、国境と宗教の境界を飛び越える形で、めざましい外交活動を展開していきます。それがどれほど華々しいものであるか ……今年 5月には北京で習近平夫人と会談(大統領夫人として)。6月には、財団理事長として単身ヴァチカンでローマ法王フランシスコに謁見を賜る。 2月にはロシア連邦議会の大物女性議員と会談。この他にも、国内で毎週のように、海外の代表や使節団と面会し、学校や養護施設を訪問し活発に動き回っています。この活動により、アゼルバイジャンという小国の認知度は急上昇。一体どこの国の誰と会っているかを詳しく見ていくと、その深い戦略性が見えてきます。立場上いろいろ批判もされていますが、バービー人形 ?とんでもない。自分の特質をとことん活かす術を心得た、非常に魅力的な大政治家ではないかと。
さで、結婚後も学業を続け地元の医科大に入学。後モスクワに移り、ロシア最古の歴史と伝統を誇るセチェノフ・モスクワ医大を卒業し、その後 1992年までの 4年間、眼科疾病研究所に勤務します。この間ご主人はといえば、モスクワ国際関係大学に通い、その院を卒業後 1990年まで同校で教壇に立っている。二人共に優秀ですね。このご主人というのがアゼルバイジャン共和国第 3代大統領の長男で、 2003年に父親を継ぐ形で大統領となったイルハム・アリエフ氏( 1961年 月生)です。旧ソ連圏内で初の権力世襲とのことで、父親以来の強権独裁的な政治手法と一族による産業資本の支配等々なにかと批判されています。しかし、ソビエト(ロシア)という巨大な影の下、レーニンが「バクーなくしてソビエトなし」と言ったという油田、複雑な民族紛争、隣国アルメニアとの厳しい戦争等々の危険要素がたくさんある国です。国家として生き延びるだけでも大変そうという感じで、「強権独裁」でもなければ国を治めることはできないのではないか、と感じます。
で、美しきメーリバン・アリイェーヴァさん。モスクワから母国に戻って数年後の 1996年、米国系国際石油資本シェブロン社の支援の下に文化友好財団を設立し、音楽と美術を中心とする各種文化事業に取り掛かります。この事業が要注目なのです。
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中国のファーストレディと。
風の盆の街 越中八尾
▼かつては花街だった「鏡町」。踊りを階段の上から鑑賞するのが名物で、もう場所取りが始まっていました。
五箇山から富山市街へ向かう途中「おわら風の盆」開催中の八尾に立ち寄りました。全国的に知られる風の盆は毎年 9月1日〜3日に開催され、数十万人の観光客で賑わいます。八尾にある11の町が保存会支部をつくり、それぞれの町やステージで、夕方から明け方まで踊りや唄を繰り広げるため、昼前の町はまだ目覚めたばかりでした。
富山と飛騨を結ぶ街道筋にひらかれた八尾は「富山藩の御納戸」と呼ばれるほど栄えた町でした。飛騨との交易や売薬、養蚕などで富を蓄え、かつて旦那衆の築いた街並みを、踊り手たちが流していきます。
美瑛富士と紅葉
神々のデザイン
写真と文石井利雄( 旭川在住 )
北の晩秋
山に雪がくるとなぜか気忙しくなる。街での生活は何の変りもなく、寒くなっても自動運転の暖房機に守られ、高機能の衣服に守られて幸せであるという。本当にそうなのか、怪しい気がしてならない。
美瑛の丘から大雪山を望む
コンパクトシティを目指す富山市地方都市の将来のあり方をふまえ「ちょうどいいサイズ」のコンパクトシティを目指した改革を進め、全国の自治体からも注目されているホットな富山市を訪ねました。
かつて富山藩の城下町として発展した富山市は人口約 42万人の県庁所在地で、平成の大合併により周辺町村と合併し面積で約3割、人口で約4割を占めるまでになりました。そのなかで直面しているのが「市街地の低密度化」です。富山県は一戸建住宅や自動車保有率が高く、道路もよく整備されているため、地価の安い郊外へ街が拡大していきました。しかしこれからの超高齢化社会やエコ社会を考えると、人口の低密度化は公共サービスの低下をまねき、膨大なエネルギーを消費します。そこで富山市は中心繁華街の活性化とともに公共交通の充実を進める『公共交通を軸としたコンパクトなまちづくり』を目指したのです。
繁華街の中心であった大和百貨店の跡地に建設中の「富山市ガラス美術館」(仮称)。設計は隈研吾氏です。
2009年には中心部を走る路面電車が環状線化され、新型 LRTが導入されました。富山駅前から富山城、総曲輪フェリオ(大和百貨店の入る複合テナント施設)、ガラス美術館前などを通る反時計回りのルートで、10分ほどの間隔で運行され観光にも便利です(200円均一、ホテルで割引券を配布)。日本の路面電車としては初の「上下分離法」により、線路は富山市が負担し、運行は鉄道会社(富山地方鉄道)が行っています。LRT「セントラム」のデザインは GK設計・GKインダストリアルデザインと、富山市の島津環境グラフィックス(島津勝弘氏)のチームによって行われました。レトロな路面電車も現役で、頻繁に往来する路面電車は街に活気を与えています。その一方、繁華街の中心であったアーケード商店街は盛り上がりにかけるように感じました。城の外堀を明治期に埋め立てた通りに芝居小屋や寄席がたち「総曲輪(そうがわ)」の名で親しまれてきた商店街は、店舗リニューアルやホテル、シネコン、高層マンション開発などで、新しい求心力を生み出そうとしています。コンパクトシティの実現には、交通インフラ・商業施設・魅力あるコンテンツ・住居供給など、バランスのよい整備が必要と感じました。昭和レトロな商店街「千石町通り」。昭和7年創業の平野屋は、自家製アイスクリームの店として富山市民で知らない人はいないお店です。甘味屋としてはじまり、食堂をへてアイスクリーム専門店になりました。さっぱりとした味わいで、何個でも食べたくなります。総曲輪フェリオ向いにある和菓子舗「鈴木亭」。慶応2年(1866)の創業で、初代・岩城茂助による秘伝の「杢目羊羹」で知られています。菓子修業のため江戸にでた茂助は、江戸練羊羹で有名な「鈴木越後」で年季を積み、富山に戻り鈴木亭を開業しました。そして白インゲンの白と、小豆の赤で立山杉のような年輪を表現した羊羹を編み出したのです。店舗の内装は年輪の浮き出た杉材で統一され、目の前を通るセントラムをデザインした羊羹もありました。観光バスがひっきりなしに停まるのは「越中反魂丹(はんごんたん)」で知られる池田屋安兵衛商店です。反魂丹は富山の薬売りのルーツともいわれ、江戸時代から柳行李を背負った薬売りによって全国に浸透し「越中富山の反魂丹、鼻くそ丸めて萬金丹、それを飲む奴あんぽんたん」というキャッチフレーズを知らない人はいないほどでした。実は萬金丹は伊勢地方で作られる古い万能薬で、このフレーズはライバル商品に対する一種のネガティブキャンペーンだったのでしょう。引退する行商は、後輩に得意先の名簿を売り渡し、退職金代わりにしていたそうです。
富山発 ゆとりスタイルの提案 SUKENO HOUSE
住宅延床面積全国 No.1(平均150㎡強)を誇る富山。伝統的な家屋が減る一方、ハウスメーカーの家も増えています。そんななか、富山から新しい生活スタイルを提案する「SUKENO HOUSE」のモデルルーム(富山市経堂メガヒルズ)を訪ねました。外観はシンプルな切妻。まわりには里山の樹々を植え、木製フェンスでプライバシーを確保した中庭を設けています。玄関を入ると、右手には茶室的にまとめられた和室があります。入り口は頭より低い高さで、背を屈めながら入ります。リビングと玄関はガラス張りのチャンバーで仕切っています。1階リビングは床に国産の杉材、傾斜天井に米栂を使用。SUKENO高岡(前号 55ページ)による北欧家具でコーディネートされています。吹き抜けの階段部1、2階の窓から採光をとり、冬場は曇天の多い富山でも自然光を感じられるよう工夫されています。
リビングとバスルームをつなぐ空間は、キッチン&ダイニングスペース。カウンターやテーブルに無垢板を贅沢に使い、中庭の緑を眺めながら調理や食事を楽しめます。SUKENO HOUSEは中庭の植栽空間にも力を入れています。ウッドや大判タイル張のデッキに外部用ソファセットを置き、外で過ごすゆとりの時間を提案。日照の少ない地域だからこそ、北欧のように日差しにあたる機会を増やすことは大切です。
2階の寝室は、コテージ風のプライベート空間。イタリア製アイアンベッドや壁に塗られた色調でヴィンテージな雰囲気を演出。
リビングからの開放感ある眺め。冬場は床下エアコンを利用した床暖房によって全体を温めます。豊かな山河に恵まれた富山の自然を感じながら、スローライフな生き方を実現できそうです。
立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
大伴家持
〈意味〉立山に降り置いている雪は、夏のいま見てもあきることがない。神の山だからにちがいない。
富山の街からは、立山連峰がよく見えます。コンパクトシティ構想にともない、
市の中心部には高層マンションも目立つようになりました。過疎化のすすむ山間
部から都市中心部への移入も、今後増えるかもしれません。
▲ JR富山駅では、北陸新幹線開通にともなう高架駅化工事が進められていました。
JR富山駅北口に、駅から湾岸部をむすぶ LRTポートラムの乗り場があります。元々は JR富山港線が通っていましたが、高架駅化によって廃線が予定されていました。そこで富山市は第三セクターの「富山ライトレール」を設立、2006年にLRTとして生まれ変わらせました。本数を増やし終電を 23時台と遅くする、駅数を増やす、駅接続のバス路線の開設といった工夫の結果、湾岸地区の新規住宅着工件数の増加や、高齢者の行動機会を増やすといった効果をあげています。
帰宅時間帯のポートラムに乗り、富山港方面へ行ってみました。富山駅で多くの通勤客が乗り込み、目的の駅で降りていきます。LRT化によって、自動車通勤していた若い層の利用も増加しているようです。古い駅舎の残る東岩瀬駅で降りました。
「森家」
岩瀬の大町通りには、北前船で繁栄した廻船問屋の街並みが残されています。その一軒「森家」は内部の見学も可能です。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
いまふたたびの … あれから一年ー後編ー
13
外来患者が一人もいない静まり返った待合室にようやく知り合いが到着、先生に告げると、「どうぞ」と言って、撮ったばかりの T画像をみながら説明をはじめた。
C
最初に撮った CTは白黒で、輪切りと正面から。二度目に撮った造影剤の入った CTはカラーで 3次元。両方をみせながら、緊急手術も視野に入れた造影剤入り CT検査をしなければならなかった理由を説明した。 家庭の医学書で臓器の絵をみたことはあるが、自分の体の中にある臓器が目の前のモニターに写しだされても内容を理解することは出来ない。家族を呼べというのはこういうことか。医者は理解の出来ない患者に何度も同じことを説明しなければならず、冷静に理解し判断出来る聞き役が必要なのである。面倒なことを引き受けてくれる「家族」と言うのはそのためかもしれない。 でも、この年になると頼りになる家族は少なくなってくる。みんながみんなすぐに飛んできてくれる家族がいる人たちばかりではない。などと余計なことを思いながら、コンサートはもうはじまってしまったなぁと、妙に落ち着いている。そうではない。要するに自分の状況に向き合う事ができないのである。「今日のところは、帰ってよし。」となったが、検査のための予約を年内一杯入れていく。なんの前触れもなく「緊急手術になるかも」といわれたときには、それこそ心臓が止まるかとおもったが、医者は慣れている。帰り際「ごめんね。脅かして。びっくりしたでしょう。」と軽く言う。少し落ち着きを取り戻し、埼玉アリーナーにいる友人に電話をかけた。スタンディング情景が目に浮かぶ。結果を聞きに行くだけだからと、この日にしたことをひどく後悔した。 心臓の 3次元写真はあちこち位置をかえて見せてくれたが、まるで手のひらの模型をみているようだった。「きれいです。ちゃんとしてます。」そう言われても ……まぁ検査が済むまで仕方がない。メタボ解消に通いはじめたスポーツクラブもしばしお休み。夏休みの旅行をキ
つれづれなるままにいまふたたびの … あれから一年。
ャンセルして DVDを買い込んだ。オードリー・ヘプバーンの懐かしき映画からメリル・ストリーブの最新作、そして、昔ちょっとだけ見た韓国テレビドラマ( 時間)、これにはおまけに NG版や日本向けコマーシャルビデオもついており、大いに楽しんだ。 9月の初旬 3回目の検査を終え、すぐに何かという緊急性もないようで、お酒は OKというお許しがでた。中止していた暑気払いを秋の味覚会に変更し、あちこち電話をして、土
70
瓶蒸しや松茸ご飯も味わった。 病は気からというが、本当にそうかもしれない。はじめに手術と言われた時は、次から次へと不安が広がり、エンディングノートを買いに本屋さんのそのコーナーに立ったりしたが、もう一人の自分がちょっと待ちなさいよ、と戒める。親
20
しい友人は、「早くに見つけられてよかったじゃない。身体は傷物になるけどね。でも私なんか帝王切開でもう充分傷物だから。」とあっけらかんに笑って言う。「いつでも呼んでね。」という人もいる。それだけでも気が楽になる。コレステロー
ル減少の秘薬をレシピ付で届けてくれた人もいる。抱えた不安をそれぞれに分け持ってくれる友の存在はありがたい。 三浦雄一郎さんが 歳を過ぎてから 7回の手術をしてエベレスト登頂を果たした、とテレビで知った。 1キロのステーキを平らげるということは真似できないが、限界に挑戦するその姿に、気概だけでも万分の 1煎じて飲まなければ、と大きな勇気をもらったような気がした。自分の身体につきあっていくことにしようと、ようやく覚悟ができた。 長い間の不摂生からくる生活習慣病も原因の 1つと聞く。食材選びをしながら、こまめに料理をするようになった。食べ過ぎはよくないとおもいつつ新米はもう 1杯と箸が進む。 「おひとりさまの救急車」あれから 1年、今となっては笑い話だが、あの時はなんとも心細かった。もっともそれがキッカケでコラージへの掲載がはじまったのだから、人生なにが待っているかわからない。これからも日々のつれづれを綴っていきたいと思う。おつきあいいただければ幸いである。
海外見本市リポート全ての鉄路はベルリンに通ず
鉄道技術見本市 InnoTrans(イノトランス) 取材・撮影 コラージ特派員:HERMINE
世界最大の鉄道技術見本市「 InnoTrans(イノトランス)」が、9月23日〜28日、ドイツ・ベルリンのメッセベルリンで開催されました。鉄道王国ヨーロッパの威信を示す見本市です。
イノトランスは隔年で開催され10回目を迎えました。毎回順調に規模を拡大し今年の展示面積は約 20万㎡、広大なメッセベルリンのほぼ全てを使いきりました。何といっても圧巻なのは、屋外に並ぶ鉄道車両の実物展示です。屋外展示場に引き込まれたレールや路上に敷設されたレールの上に、140以上の車両が展示されていました。
日本でも都市活性化策として注目されている路面電車(ライトレール)。路面電車の多いヨーロッパ各都市では超低床型 LRTの導入が進み、様々なデザインの車両が発表されていました。
ライトレールから近郊電車、大陸横断高速鉄道まで、実車に乗りながら美しい色彩計画や人間工学的な配慮、バリアフリー対応が行き届いた最新のインテリアデザインを堪能できます。
ヨーロッパらしく、インテリアに使うシートや照明、内装パネル、床材などインテ
リア関連の展示が充実し、内装デザイン会社のブースもありました。
日本鉄道車両輸出組合(JORSA)もパビリオンの1フロアを丸ごと使ったプレゼンテーションを展開し、お寿司やお茶で「おもてなし」していました。日本の誇る「Shinkansen」の知名度はヨーロッパでも高く、一般市民が名前だけでなく、安
全性や時刻の正確さなどの知識まで持っていることには驚かされました。
今も再開発の続くベルリンでは、市のシンボルであるクマのマスコットをよく見かけます。これに加え存在感を増しているのが東ドイツの信号標識から飛び出した「アンペルマン」でした。
Auschwitz-Birkenau
アウシュビッツ=ビルケナウ第二収容所
1945年までにナチの強制収容所で殺害されたユダヤ人は、戦前戦後のユダヤ人口減少の推計から約580万人であったと言われている。ナチスによって殺害された被害者はユダヤ人以外の人々を含めると1100万人以上、もしくは1700万人とも言われ、実際どれくらいの人間がナチスによって虐殺されたのかさえも定かではない。戦後のニュルンベルク裁判ではアウシュビッツだけで400万人のユダヤ人が死亡したと認定されていたが、現在はアウシ
ュビッツ=ビルケナウ強制収容所での死亡者数は150万人とされている。
ユダヤ人を強制的に収容したナチ政権下の強制収容所はアウシュビッツのあるポーランドやドイツだけでなく、ヨーロッパ周辺国のオーストリア、ハンガリー、チェコ、イタリア、セルビア、ギリシャ、ノルウエー、オランダ、ベルギー、フランス、イギリス、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラル
ーシ、ウクライナなど広範囲にわたり、ナチスはヨーロッパ全域からユダヤ人や反体制派、身体障害者、同性愛者などを本気で根絶しようとしていた。はじめ強制収容所は労働強制収容所であったはずだったが、1942年頃から戦火
Konzentrationslager Das
が増すにつれて組織的大量虐殺を目的とした絶滅収容所へと変貌していった。現代の冷静なドイツ人気質を思うと、戦争は如何に人間の理性を破壊し、集団的な妄想や強迫観念が作り出す狂気によって大きな過ちを犯すことを、現代に生きる私たちは自覚しておかなければならないと感じる。
人の命の尊さを思うと、1945年までの短い年月の間に580万人のユダヤ人の命が奪われ、ヨーロッパでは1100万人を越える命が失われたことは紛れもない事実である。しかし、時間の経過とともにホロコースト否認論者によって、実際にはナチスによるユダヤ人の大量虐殺は無かったと主張する者や
ドラゴン怒りの鉄拳
5
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ガス室は無かったなどと言う研究者など、歴史的事実を認めない人間も世界に多く現れきたことも事実だ。これだけの多くの証拠や証言がありながら時の経過とともに事実を認めない人間も現れることもまた、私たち人間の恐ろしいところである。このような想像を超えた恐ろしい国家的虐殺が現実の70年前にドイツの人々の手によって行われていたのだ。日本で現在、繰り広げられている歴史認識問題に端を発する論争や新聞社に対する糾弾は、大きく捉えれば戦後70年を経た日本人の戦争責任に対する忘却の一端であると言える。
580万人のユダヤ人が虐殺された数の多さを伝えたいのではない。ほとんどすべての亡くなったユダヤ人は小さな乳児から少年少女、そして青年から大人そして老人に至り、また何の罪も無い普通に暮らす私たち同様の一般人であったはずだ。強制収容所に連行され殺された唯一の理由は、彼らがユダヤ人であると言うことだけだった。 そして、もう一つの大きな事実は、その虐殺を行ったナチ政権下のドイツ国民も今と同じように堅実で誠実な気質を持った理性的な一般的ドイツ国民であったことだろう。1933年にアドルフヒットラー率いるナチスが政権を握り、他国への侵略とユダヤ人の虐殺へ向かう狂気の背景には、不景気による経済的な疲弊があると言われるが、ヒットラー率いるナチスはそんな疲弊した社会背
景を利用し、暴力的な弾圧や専制による強迫観念で
国民を次第に洗脳していった。世界の中でも特に優
秀な国民であり、高い生産性を誇る理性的なキリス
ト教信者が大半を占めるドイツの国民であっても、
ヒットラー率いるナチスの力に従うしかないのが現
実であった。
しかし、戦後の日本とドイツの大きな違いは、ナ
チス政権下に行ったユダヤ人に対する大量虐殺を公式に認め、侵略をしたヨーロッパ各国に謝罪を行い、現在も歴史認識を次世代に継承しながら、過去に対する罪の償いと賠償を行っていることだ。またナチスによるユダヤ人の虐殺を否定することを禁じた法律を定め、歴史の事実に国として向き合い続けることで、この大きな罪を二度と繰り返さないと言う強い意思を国として掲げている。各地の強制収容所跡地は残され、ドイツ全国の多くの場所にユダヤ人の慰霊碑が名前入りで立てられている、そしてユダヤ人の為の施設が各地に作られ、ユダヤ人の尊厳と自国民に対する尊厳も同時に守られている。これが正しい国家の歴史に向き合う姿勢であり、その姿勢は過ちを記憶に留めると同時に、内なる倫理観の成熟を促している。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所は1979年に世界遺産に登録されているが、負の世界遺産として世界各地から多くの人々が訪れ、その凄まじい事実を知り、人間と戦争の愚かさに言葉を失っている。僕がアウシュビッツを訪れた時はドイツから若者たちや家族連れが多く訪れていた。しかし若かった僕は、亡くなった多くのユダヤ人やナチスが行った残虐な行為、撤退する際に焼き尽くせず残った数トンという髪の毛の山や、集団で虐殺されたガス室の凄惨な現実を目の当たりにして、そこに来ていたドイツ人を悪の化身のように蔑み、全てのドイツ人の存在を憎む気持ちにしかなれなかった。今となっては、勇気を持って自分たちの国が過去に行った殺戮の現場を訪れ、正面から向き合った勇気ある現代のドイツ人に大きな尊敬と敬意を表する。
第一強制収容所跡から第二強制収容所跡に向かうと、そこは映画『シンドラーのリスト』にも出てくる、多くのユダヤ人を乗せた貨物車の線路を引き込んだ大きな強制収容所跡であつた。 第一強制収容所が ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)という標語を門に掲げ、最もよく知られた歴史的象徴として博物館的な存在であるとすれば、第二強制収容所跡は、まさにユダヤ人が虐殺された状態が時間的風化をしながらも、その絶望感や恐怖感、飢餓感を残す恐ろしい空気が漂う場であった。現在は立ち入り禁止の建物の中には、ナチスが焼き尽くせなかった当時の姿が残されていた。そして、建物の周辺の自分が立つその足下には、大量にそこら中に白い欠片が散りばめられていた。ハッと我に返り、それがそ
こで虐殺されて焼かれたユダヤ人の人間の骨であろ
うことに気づき、脳が震撼し、心臓が動転した。大
きな罪を犯したような気持ちになってすぐに離れよ
うとした。僕は知らない間に虐殺された多くのユダ
ヤ人の骨の上に立っていたのだった。
大きな第二強制収容所には外からのユダヤ人を直
接収容できるよう、収容所を取り囲む高い壁の真ん
中に最も高い塔を持つ線路の引き込み口が設けられていた。そこから大量のユダヤ人が運びこまれ、また、多くのユダヤ人が高い塔を見上げ、外にでることを望んだことだろう。長く引き込まれた線路の敷石を見つめ、何気に自分のズボンのポケットに二つの石を入れた。なぜか分からないが、自分の心にこの場所を留める為にそうしたように思う。 第二強制収容所の高い塔をくぐり抜けようとすると、塔からサイレンのような音が鳴った。僕は塔を見上げたけれど、既に廃墟となっていてサイレンが鳴るような状態ではなかった。僕はその時、ズボンのポケットに入れた二つの石を握りしめた。そして自分の車に乗り込み、シートに腰掛けたその時に二つの石をポケットから取り出して、車の外にそっと放した。 その石は外に持ち出すべきではないよ、と誰かがサイレンによって知らせてくれたように感じた。
富山・新潟の県境にあたる糸魚川市は、古代から翡翠(ヒスイ)産地であるとともに、日本列島を東と西にわける糸魚川 -静岡構造線の通る境界の街として知られた地域です。そこに建築家・村野藤吾氏晩年の傑作「谷村美術館」があります。美術館へ向かう長い回廊にたつと、聖域を思わせる白い庭に有機的なフォルムの建物が見えてきました。
inspireD谷村美術館(新潟県 糸魚川市) 村野藤吾が託したもの
▲糸魚川の市街地に近い静かな田園に囲まれています。
谷村美術館(1983年開館)は、「玉翠園」と名付けられた庭園と共にあります。作庭は足立美術館(島根)などで知られる中根金作氏。借景の山々を活かし広大な自然風景を感じさせる「観賞式庭園」(室内から眺める庭園)となっています。もう一カ所、少し離れた場所には翡翠原石などを配した回遊式庭園「翡翠園」もあります。
谷村美術館へ向かう回廊に、模型と現場写真が展示されていました。村野藤吾氏(建設当時92歳)は足繁く現場を訪れ、油土で作った模型を使いながら曲面のニュアンスや仕上げの風合いなどを直接指示していたと伝えられています。地元の黒姫山から産出した石灰石などをふんだんに使い、柱のところどころに亀石を配し、アクセントを付けていました。谷村美術館は、木彫芸術家・澤田政廣(さわだ せいこう)氏による仏像作品の展示館として建設されました。建設にあたったのは地元の建設会社である谷村建設。その初代社長・谷村繁雄氏と澤田氏、そして村野氏との類まれなる出会いと強い思いが結実し、この美術館を生み出したのでしょう。
この独特のフォルムは澤田氏の仏像作品10体に合わせ設計され、個々の仏像の部屋を一体につなげたプランになっています。壁や天井は作品と呼応した形態や自然採光のための開口を持っていて、それがそのまま外観に現れています。
製作過程を NHKが取材・放送し話題となった「金剛王菩薩」(澤田氏 88歳の作)の展示室。
自然光と人工光が絶妙にミックスされ、光明皇后様がモデルともいわれる「光明佛身」(澤田氏 42歳の作)を浮かび上がらせています。各部屋には、仏像と対峙するためのベストポジションが設けられていました。
外壁の経年変化とともに、シルクロードの石窟寺院を彷彿とさせる谷村美術館。巨人の手でこねられたような存在感から、村野氏が未来の建築に託したメッセージを感じました。