時空を超える美意識
https://collaj.jp/流し雛 2023
ふたつの城下町
臼杵と杵築
Kitsuki
杵築大分
Usuki
臼杵キリシタン大名大友宗麟が国際都市へと発展させた大分(豊後府内)。大分を挟むように、南北にはふたつの城下町「臼杵」と「杵築」とがあり、中世そのままの歴史を感じることができます。
大分駅からJR九州 日豊本線に乗り45分ほど、臼杵川の鉄橋を渡り、大正6年開業の木造駅舎 上臼杵駅で降りました。
福良天満宮は、福を招く赤猫の神社として親しまれています。もともと赤猫とは、明治時代に米相場、煙草製造などで財を築いた大塚幸兵衛のニックネームでした。商売で成功し衆議院議員にも選ばれた幸兵衛を、他の商人はやっかみをこめて「あかねこ」と呼びましたが、後世になって商売繁盛・招福のシンボルとして祀られるようになりました。
高台にある境内から、臼杵の城下町が見渡せます。この景色を気に入った山田洋次監督は、「花も嵐も寅次郎」のロケ地として、この場所を選んだそうです。
町の名所である「二王座歴史の道」へ向かいました。狭い坂道を降りたり登ったり。石垣や塀の立派な家が並びます。大友宗麟の庇護のもと、臼杵には16世紀半ばからキリスト教会や宣教師の住居が建てられ、ノビシャドと呼ばれる修道士の育成期間が設けられたと考えられています。
▲ 明石原人を発見した、直良信夫博士の記念館。▼岩盤をくり抜いた「金毘羅井戸」は、臼杵名水のひとつ。
二王座の入り口「甚吉坂」は、大友宗麟の武将吉岡甚吉が、薩摩藩の島津軍と戦い武勲をあげたことから名付けられました。明治10年の西南戦争でも、薩摩軍と臼杵隊が戦闘を繰り広げた場所でもあります。
二王座の町並みは、阿蘇山の火山灰が固まった凝灰岩を掘削して造成されました。東西の「切通し」に沿って古い建物が密集し、江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。石畳の道を軽自動車が行き交います。
休憩所として利用されている旧真光寺。臼杵独特の雛人形「うすき雛」は、質素倹約のため紙で作られていました。
古い佇まいを残す斉藤家。善法寺は九州最古の真言宗寺院といわれ、1334年(建武元年)の創建です。
切通しの形状にあわせ、建物も複雑に変形した形状をしています。高度な大工の技術を感じさせます。
臼杵の商人町は「町八町」と呼ばれ、宿場だった田町、キリスト教会のあった畳屋町、中国人街だった唐町、造り酒屋の多い横町・浜町など狭い路地のような道に、昔ながらの店舗が並んでいます。町人の多くは美濃(岐阜)出身の人々でした。
Vol.45
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
こんな気持ちの名前をボクはまだ知らない
浜町にある「野上弥生子文学記念館」。明治18年、小手川酒造の長女として生まれ、15歳で上京すると、同郷の夫・野上豊一郎と共に夏目漱石に師事して小説を書き始め「海神丸」や「秀吉と利休」、「森」(未完)など99歳で亡くなるまで執筆を続けました。隣には生家である小手川酒造があります。
かつて野上弥生子が遊んだ酒蔵の景色が残されています。小手川酒造では、日本酒「宗麟」の他に大分県産の裸麦を使った黒麹酎も製造しています。酒蔵には1986年からの焼酎のカメが並び、20年貯蔵した貴重な焼酎「一粒の真珠二十年」もあります。九州を代表する味噌・醤油メーカー「フンドーキン」の工場は、臼杵川の中洲に建っています。小手川酒造の分家筋にあたり、昔は酒造りの閑散期に味噌・醤油を造ったところから、野上弥生子の叔父・小手川金次郎により創業されました。弥生子は故郷に帰ると、味噌の味、社員の待遇、借り入れの返済など、経営のアドバイスをしていたようです。1970年に完成した味噌工場は、過酷な肉体労働から現場を開放した画期的な製造ラインでした。
1929年、野上弥生子購入しが44年を過ごした東京・成城の家が、臼杵川の河口に移築されています。スペイン瓦、モルタルの外壁、南欧を思わせるデザイン、円形のサンルーム「ロタンダ」、煖炉の煙突などが、昭和初期の知識階層が好んだ、洋風住宅の姿をよく表しています。
野上弥生子成城の家の隣には、臼杵出身の政治家山本達雄の別荘「山海荘」があります。江戸時代後期に建てられた臼杵城の御殿を移築したと伝えられます。
臼杵城
凝灰岩の島・丹生島に築かれた臼杵城。島は三方を海で囲まれ、西側の干潟だけが干潮時に陸地と繋がりました。1562年、この城を築いた大友宗麟は大分(府内)を拠点としていましたが、司祭ガスパル・ヴィレラの書簡には、謀反を起こした家臣から身を守るため丹生島に移った事が記されています。難攻不落の海城は、島津軍の猛攻から民を守ったこともありました。
馬具「あぶみ」の形に似ていることから、鐙坂と呼ばれる登城口。凝灰岩がたびたび崩落を繰り返すため、階段には鉄製の落成防御壁が設けられました。
1576年ポルトガル副王から大友宗麟に贈られた大砲「国崩」は、量産され島津軍との戦闘に使われました。
南蛮貿易の富を背景に、北九州6カ国の大名にのぼり詰めた宗麟でしたが、1578年薩摩の島津氏との合戦に日向耳川で敗れると、キリスト教を重んじ寺院を弾圧した宗麟と仏教徒との家臣との分裂が激化。1586年には島津軍が臼杵にまで攻め込みます。宗麟は城下の人々に臼杵城へ逃げ込むよう呼びかけ、領民を保護した様子が宣教師ラグーナの記録に残されています。宗麟が大坂城に赴き豊臣秀吉の救援を求めたことをきっかけに、秀吉による九州平定が行われました。
九州平定ののち、臼杵城は大友宗麟の嫡男義統に引き継がれますが、秀吉はバテレン追放令によりキリスト教や南蛮貿易を禁止します。義統は朝鮮出兵の際、小西行長の救援要請を無視したことが秀吉の逆鱗に触れ、領地を取り上げられ幽閉されます。臼杵には秀吉の家臣が派遣され、関ケ原の合戦後は美濃から転封した稲葉家が明治維新まで城を治めました。
かつて南蛮貿易でポルトガル、スペイン、明の船が行き来した臼杵港。今は対岸にある四国・八幡浜港との間を結ぶ大型フェリーが往復しています。
港のそばの臼杵市中央公民館(1979年)は日建設計の作品。
ハリオ初のフラッグシップストア
HARIO Satellites
設計神谷修平(KAMIAYA ARCHITECTS)
photo:Katsumasa Tanaka
創業100年を越える耐熱ガラスメーカーHARIO初のフラッグシップショップ「 HARIO Satellite」が、羽田エアポートガーデン「ジャパンプロムナード」にオープンました。2020年オープン予定でしたが、コロナ禍の影響で3年間延期されていました。ジャパンプロムナードは、第3ターミナル(国際ターミナル)とエアポートガーデンを結ぶ連絡通路にそって、日本文化をテーマにした扇子、傘、お茶、和菓子店などが15店舗並んでいます。店舗を設計した神谷修平さん(KAMIAYAARCHITECTS)は、他の店舗は天然木やベージュ系で和を表現すると予測し、あえてモノトーンを使って日本の表現に挑戦したそうです。テンポロジー未来機構とのコラボレーションでお届けします。
photo:Nanako Ono
▼ 耐熱ガラスの原料、オーストラリア産ホワイトサンド
ハリオが長年、耐熱ガラスの原料として使ってきたオーストラリア産ホワイトサンド(珪砂)。これを壁全体に塗り込むことで、ハリオのブランドアイデンティティを表現したいと考えた神谷さんは、独自の左官材「ホワイトサンドウォール」の開発に取り組みました。左官職人と協働して、左官技術を分析し、新たな技法を開発する「アナリティカルクラフトマンシップ(分析的伝統工芸)」により、今までにない左官の表情が生まれました。photo:Nanako Ono▼最初の実験では、左官の表情がフラットになってしまい、ホワイトサンドの良さをひき出せませんでした。
▼2度目の実験では、表情は出たものの、模様にムラや凹凸がでて、左官の美しさを感じられません。
▲3度目でやっと編み出されたのが、通常は平滑にする下地塗りに凹凸をつけ、仕上げ塗りで隙間を埋め、表面をフラットにする技法でした。下地塗りのパターンは、左官職人の手の動き(下から右上に動く)を活かしたものにして、再現性を高めました。神谷修平さんは1982年愛知県に生まれ、早稲田大学大学院修了後、2007年から9年間、建築家・隈研吾さんに師事し、設計室長としてイタリア・米国・中国などの海外プロジェクトを担当しました。2016年にはデンマークへ渡り、ビャルケ・インゲルスのBIGに参加。海外コンペのプロジェクトリーダーとして活躍し、2017年に帰国してカミヤアーキテクツ一級建築士事務所を設立。遠藤新設計の邸宅をホテルにリノベーションした「葉山加地邸」などで注目をあつめ、博多の美術館、軽井沢の別荘など数々のプロジェクトが進行中です。
棚や什器にはMDFを採用し、黒い製品を目立たせるように黒系のカラーリングが調整されています。照明はモデュレックスのスポットライトと棚下灯によって製品を演出しました。実施設計・施工は丹青社。
臼杵大仏
市街から南西へ約5km。「臼杵大仏」は凝灰岩に刻まれた磨崖仏で、平安後期〜鎌倉時代にかけて4カ所に彫られました。詳しい造営の経緯は不明で、1995年国宝に指定されました。
ホキ石仏第二群の阿弥陀三尊像。豊後地方には平安後期の磨崖仏が集中してありますが、なかでも臼杵石仏は、木彫のような立体感ある造形が特徴です。
ホキ石仏第一群の如来三尊像。中心に大日如来、右に釈迦如来、左に阿弥陀如来を配しています。
旧平井家住宅は、江戸時代後期の上級武士の暮らしを今に伝えています。ここに住んでいた高田氏は、元は美濃国高田城の城主で、稲葉家に仕え臼杵に移ったと考えられています。
通常、武家屋敷の玄関は天井を張りますが、この家は天井を張らずに屋根裏の骨組みをみせています。
鐵の造形
木本一之展
2023年2月26日〜4月9日美術館あーとあい・きさ(広島県 三次市)
▲ 美術館あーとあい・さきは、広島県 三次(みよし)市の吉舎町にあります。
▼木本さんはドイツをはじめ、ヨーローッパ各地の伝統的な鍛鉄工房で修行を重ねました。
広島で活躍する鉄の造形作家木本一之さんの展覧会が4月9日まで開催中です。木本さんは建築家石山修武さんとの共作でも知られ、ヨーロッパ各国で学んだ鍛鉄の技を応用し、20代から多様な「鐵の造形」を生み出してきました。今回は初期作品から最新作まで47点を展示した規模の大きな個展となりました。
2000年代につくられた作品は、アンビルドな建築を思わせます。
風がつくった神殿(2014)
獄舎と神殿(2010)知の陣地(2011)1966年、広島県に生まれた木本さんは、武蔵野美術大学で金属工芸を学び、卒業の翌年には日展に初入選。ヨーロッパの鍛鉄工芸に興味をもった木本さんは、1991年〜95年の4年半にわたりドイツ、スイス、チェコのマイスターの工房に弟子入りし、野外彫刻や鍛鉄の制作、文化財修復などの仕事を手掛け技術を学びました。現地で制作した作品は、チェコ国際鍛鉄会議特選、ハンブルク国際鍛鉄展入選、ポーランド国際鍛鉄展大賞などヨーロッパで高い評価をうけました。
大分県立美術館 OPAM
大分県立美術館は、大分市の中心部寿町に2015年オープン。大分産スギを使った組子細工をモチーフにしたようなデザインで、設計はプロポーザルコンペで選ばれた坂茂建築設計です。
1階アトリウムは吹き抜けの大空間で、前面は大型ガラス折り戸になっています。上に開くと、外と一体化した広場になります。
展示室Aでは「イメージの力 河北秀也のiichikodesign」が、2023年2月11日〜3月29日まで開催されています。三和酒類のロングセラー「いいちこ」は、いまや全国区の麦焼酎となりましたが、発売当時は九州でもあまり知られていませんでした。展覧会では「いいちこ」のポスターを中心に、河北秀也氏のデザインの足跡を紹介しています。
iichiko ポスター A444用紙:ミセスビーノーマル4C+特色2Cロケ地:ハワイ大分県立宇佐高校を卒業した河北秀也氏は、1967年東京芸術大学工芸科に入学すると、日本デザインセンターなどデザインの現場に出入りして大学2年のときサクマ製菓「いちごみるく」のパッケージデザインを担当。大ヒット作となり注目を集めました。
営団地下鉄のマナーポスターシリーズ。
卒業制作に選んだ「東京の地下鉄路線図」は、世界一複雑な地下鉄の乗り換え経路を明快にしたことが評価され営団地下鉄に採用されました。その後手掛けた地下鉄マナーポスターシリーズは、チャップリン、マリリン・モンロー、スーパーマンなどをモチーフとした、パロディー広告の元祖とも言われています。
▲1984年のiichikoポスター第一作「A1」。焼酎のイメージを一新したいという思いから生まれたポスターの種類は、500点以上になりました。
河北秀也氏の義兄は、大分県宇佐の三和酒類に関わっていました。小学生の頃から学校が休みになると、義兄のトラックに乗って日本酒の配達に付き合っていた河北氏は、義兄が開発した焼酎「いいちこ」のプロモーションを依頼されます。「デザインには一切口をださない」ことを条件に引き受けたものの予算は少なく、地下鉄構内に、月に1度1週間だけポスターを掲示することからスタートしました。
2階のカフェには坂茂さんが長年にわたり活用してきた、紙管を使った椅子やパーティションがあります。
3階では「コレクション展Ⅳ造形紀行「デザイン」の楽しみ」を開催中(2023年2月2日〜4月10日)。大分を代表する抽象画家宇治山哲平をはじめ、ネオ・ダダを提唱した吉村益信のほか、木版画や装幀で活躍した恩地孝四郎の創作の展開を、大分市の古書店・カモシカ書店からの特別出品を交えて紹介していました。1935年に創刊された雑誌『書窓』は、恩地孝四郎が本づくりに欠かせないタイポグラフィの知識や印刷技術などを紹介した月刊誌でした。
地域の伝統的な食
例えば、玄界灘で獲れた鯛のプリプリのお刺身を食べるにあたって、博多育ちと東京育ちでは、好む醤油が違う。博多育ちはまず確実に九州産の「甘みの強い醤油」を選び、「関東の醤油なんて塩辛いばかりで、鯛の旨味をぶちこわす」と思うはず。一方、東京育ちは「鯛の刺身に甘みの強い醤油なんて、まっぴら御免」と言うに決まっている。地方地方の味覚の嗜好の違いは、年前に比べればだいぶ薄れてきてはいるが、いまだに根強く残っている。このように、人が育った場所の違いは、基本的な味覚の嗜好の違いに直結している場合が多い。そこに昨今盛んになりつつある産直。「日本は地域ごとに食文化が多様だ!」と喜びたいところだが、話はそう単純ではない。
全国ブランド
地域の伝統的食嗜好が残る一方で、現代は全国津々浦々まで展開する巨大スーパーや外食チェーン、コンビニチェーンを通じて、日本中ほぼどこでも
同じ食品が入手できる体制が出 30来上がっている。全国ブランドの食品メーカーから送り出される様々な加工食品や飲料や菓子類もまた同様に、全国で同じものが手に入る。牛丼・ハンバーガー・宅配ピザ、レトルトのカレー、インスタントラーメン、ハム・ソーセージ類、さらには調味料からビールやお茶やコーヒーに至るまで、函館と島根で「あれ、おいしいよね」と話が通じる時代になっている。新幹線の駅の周りなんて、地名を示す看板がなければ、自分がどこにいるのかわからなくなるほど、全国展開の飲食店が並んでいるところが多い。食の画一化は、今現在も着々と進行中だ。
グローバル・ブランド
また、こうした巨大資本のチェーン店や加工食品普及の主役は、必ずしも日本の資本とは限らない。ハンバーガーやフライドチキンや宅配ピザやアイスクリームや飲料を見れば明らかなように、特にアメリカ発や欧州発の国際資本グループの食関連会社の製品が、日本を含めて世界の主要都市でも同じように普及している。
このように今、日本国内では、上記3つの勢力が、私たちの食欲と財布を狙って、しのぎを削って競い合っている。ここ半世紀ほどは、2と3が爆発的に伸びていて、1(地方)はひたすら防戦一方という状況だった。しかし、ここにきて、この動きに変化の兆しが出てきた。「地方」が攻勢に出始めたのだ。では、その変化が生じた原因は何か。それは一般消費者の、中でも特に、食への意識と関心が高い人々の間で、「2と3の洪水」に対する反感が強まりつつある、ということに尽きる。インターネットと物流経路の整備が進んだ結果、産直が容易になったことも背景にある。そしてこの「大資本発の画一的食品への反発」という動きは、先進各国で共通して起きている動きであるということを強調しておきたい。そのひとつの現れが「地産地消重視」という考え方だ。
■地産地消の危うさ「地産地消」とは、地元産の食材を地域で消費しよう、という考え方だ。これまで全国ブランドの資本に牛耳られてきた市場に、地域産の食材で挑戦し、僅かでもその市場を地域のものとしていく。この考え方そのものは、誠に素晴らしいものだ。農産物に限らず、地酒・地ビール・地ウィスキー、更には昨今大注目の地ワイン。大いに盛んになってもらいたいとは思う。だが、敢えて言わせて頂くと、
話はそう単純ではない。「私は地産地消重視で、地元産の食材を中心に食べるよう努めています」なるほど。しかし、その「地元産の作物」を育てるために使われる肥料や農薬、畜産であれば、牛や豚や鶏に食べさせる穀物を中心とするエサ、農業機械を動かし、ハウスの暖房を担うエネルギーの源たる石油や天然ガス、農機製作の主原料たる鉄やアルミや諸々の部品の「原材料」となる鉱石は、ほぼ百%が輸入品だ。さらには単純な道具であればあるほど、かなりの部分が輸入品で占められている。衣類と百円ショップの品々の原産地表示を確認するだけでも、これは明らか。マスクさえ国産品が全く入手できなかったことは、まだ記憶に新しい。
冒頭の醤油に話を戻すと、たしかに日本には今も、各地に中小の酒蔵や味噌醤油屋さんがたくさん残っている。日本中「地元産の味噌醤油」に溢れている。では、その味噌醤油を作るために使われる大豆はどうか。容器にわざわざ「国産大豆使用」と表示されていなければ、まず輸入大豆が使われているはずだ。これは豆腐についても同様だ。蕎麦こそ和食の代表みたいに思っている人が多いが、百%国産そば粉のみで営業中などという蕎麦屋は、ごく少数だ。同じように「本日の和定食:焼き塩鮭定食」が六百円だとしたら、その塩鮭はまず国産ではないだろう。だいいち調理場はステンレスで覆われていませんか。包丁の刃の原材料は国産ですか?鍋釜の素材は? 農業にしても伝統食品産業にしても、今では海外からの素材(原材料)やエネルギーや道具類なしでは成立しないものとなっている。私たちは耳に心地よい「地産地消」というスローガンに酔うことなく、自身の足下をしっかりと見つめ直してみる必要がある。
■食料安保
ここに来て食品価格が急上昇している。その原因は国内要因ではなく、ウクライナ紛争の他に様々な海外情勢の急変によって生じた事態であること、皆様よく御存知の通り。これこそ、我が国の食に関するもろもろが、大きく輸入に依存している何よりの証拠だ。大食品メーカーや袋菓子製造会社くわえて外食産業は、その影響を被る度合いが高い。なぜならこれらの会社は、一般家庭よりも遥かに高い割合で、海外の食材に依存しているからだ。これに加えて日本の場合、お隣である台湾や北朝鮮の情勢について昨今、誰もが漠たる不安を覚えている。こうした不安感情を突く形で、「食料自給率アップを」だとか「食料安保」という言葉を目と耳にする機会が急に多くなってきた。
国として食の自立重視は確かに大切だ。だが
「我が国が戦争に巻き込まれる危機が迫っている。下手をすれば隣の大国により列島が海上封鎖されてしまう可能性も考えられる。これに備えて食料の自給率アップに邁進しなければならない!」とまで言われると、「???」と思わざるを得ない。というのも、こうした主張は「危機感を煽って政府から既存の農業事業者向けに新たな補助金を引き出す」そのための主張だと感じられる場合が多いからだ。日本の農業には、極めて大きな可能性が秘められている。だが、その秘められた可能性を花開かせるためには、農地・農業従事者・生産方式・農産物流通に関する法制度と社会構造を革命的に変革する必要がある。その変革に成功すれば日本の農業は、極めて競争力がある一大成長産業となる可能性が高い。オランダやイスラエルに伍して、小さくとも世界で輝く農産物や農産加工食品の輸出大国になることも十分可能だ。上手に演出すれば、アグリツーリズム(農業観光)で世界中から地方に観光客を引き寄せることだって難しくないと思う。
現在世界の最先端で競われている農業関連の技術革新の進展が凄い。もはや既存の「農業」という言葉では表現できない、新たな産業が生まれつつある。日本は、この新たな産業で主導権を握ることができる条件に恵まれている。ただ、旧態依然たる制度と産業構造が温存されているため、現状では完全に「宝の持ち腐れ」状態だ。腹をくくって、この現状打破を目指す、根性のある政治集団の登場を待ちたい。
杵築の城下町
大分市から別府湾をはさみ北へ約20km。杵築は石畳の坂で知られる城下町です。V字型に切れ込んだ谷に城下町が形成され、谷底は町人の町。南と北の台地は武家の町になりました。南北の台地は坂道で結ばれ、「酢屋の坂」(手前)、「志保屋の坂」(奥)など20カ所以上の坂道が、それぞれ個性的な魅力を放っています。
杵築を治めたのは大友家と縁の深い木付(きつき)家でした。応永元年(1394)、4代木付寄直が城を築き、城下町が形成されます。武家屋敷の情景を残す北台武家屋敷通りは、大原邸、能見邸、磯矢邸など家老の屋敷が並ぶメインストリートでした。杵築は「京都につづく着物で歩きたいまち」を目指し、和装の方は観光施設の入場無料など様々なキャンペーンを展開中です。瀬戸内海を望む高台に建つ杵築城。天然の要害に囲まれ、戦国時代には島津氏など最強武将の侵略を退けました。しかし豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、主君・大友義統が失態の責めを負って改易されると、当主木付統直は連帯責任をとって帰国途中に入水自殺し、17代続いた木付氏は滅びます(大友義統自身は延命しています)。その後は秀吉の配下が杵築に入り、1600年には速見、国東郡を領有した細川忠興の飛び地領になります。1645年、徳川家に仕える能見松平英親が豊後高田藩から転封し、杵築藩3万5千石を明治維新まで治めました。
北台武家屋敷通りに建つ「大原家」は茅葺屋根が特徴。杵築の武家屋敷は茅葺屋根が主流でしたが、1800年に起こった大火のあと瓦葺きに変わっていきました。
大原邸はその規模や立派な回遊式庭園のつくりから、藩の重役に与えられたと考えられています。座敷の障子の腰板は、廊下側に段差があることを示しています。台所はあえて天井板を張らず、茅葺屋根を煙で燻し虫がつかないよう工夫されています。
勘定場の坂は、登城する老中の馬や籠が行き来しやすいよう、段差の低い石段です。
心・体・思考の健康をデザインする写真&文 大吉朋子
とっておきの休み時間12時間目「Harley-Davidson」
先日、約 20年ぶりに Harley-Davidsonのお店へ出向いた。ずいぶん長い間、バイクに乗ること
も触れることもなく過ごしてきた私にとって、色々な思いや記憶が蘇る時間となった。
23歳からの 5年間、私はハーレー乗りだった。日々、ハーレーに乗って青山の職場へ通い、休みの日には都内や近郊、山や海へとバイクを走らせ、とにかくあちこち乗りまわり、当時の私の生活や人生に欠かせない存在だった。
「ハーレー乗り」なんていうと凄そうだけれど、私は車やバイクに強い興味があったわけではない。どちらかと言えば興味はなく、車の免許もオートマ限定。最初に乗った車の車種すら覚えていないオンチな私だが、突如、バイクに乗ろうと思いたち、二輪免許をとりに教習所へ通い始めた。まずは、クラッチって何?からの勉強だった。
晴れて自動二輪の免許を取り、さぁバイクを買おうと思ったものの欲しいと思うバイクになかなか出会えなかった。そもそもバイクの種類を知らないし、選び方もよくわからなかったこともあるのだが……。それでも、こういう時には出会うもので、職場のすぐ近くに「これだ!」というバイクが停まっていた。タンクをみると「Harley-Davidson」とあった。「Harley-Davidson」名前は知っていたけれど、それまでの私の人生で、かすりもしない世界のシ
ロモノだった。(映画イージーライダーも知らなかった)にもかかわらず、私にとてもフィットする感
覚があり、ひとまず大型バイクだというから、すぐに大型自動二輪の免許を取りに教習所へ行った。
大型バイクというと必ず「バイクを起こせないと乗れないでしょ?」と聞かれる。小柄な私にとっては確かに大きいのだが、当時毎日重い家具を運んでいたおかげで、実はバイクの重さはまったく気にならなかった。それよりも私が苦労したのは車高。教習用バイクは私には車高が高く、シートの位置も当然高い。かろうじて靴の先端が地面についているかいないかという状態。そのため、教習中に一時停止をする時には、少しでも左右バランスを崩すとすぐにバイクを倒してしまう。
バイクを倒すと教官が飛んでくる。そのたびに何か言われ心が折れそうになるし、周囲の視線もなんとなく感じる。ただ、あまりにも倒すものだから、倒しても瞬時にバイクを起こし、教官が来る前に走り出すということをしだいに出来るようになっていた。それでも教官に追いかけられ、何か言われていたと思うけれど。
ようやく大型自動二輪免許が取れ、さっそく自宅から一番近いハーレーのお店に出かけた。その頃の私には中古車という発想がなく、見つけたお店も正規ディーラーということで、いきなり新車。欲しいと思っていたバイクは「パパサン」と呼ばれる 883ccのスポーツスターだった。ハーレーとは無縁そうな私にお店の方も驚いていたが、もちろん迷うことなくその日に購入した。そこから1年ほどしてローライダーに乗りかえ、その後数年してファットボーイというさらに大きなバイクに乗りかえた。最終的には大変なことが続いたために手放すことにしたけれど、ハーレー乗りの時期は素晴らしい体験をたくさんしたと思う。
そして、約 20年を経ての再会。当時、本当にお世話になった店長は副社長になられて、ぐっと風格が増した雰囲気だったけれど、私のことを覚えていてくださり、昨日のことのように当時の雰囲気や会話の調子、慣れ親しんだ感じが一気に溢れタイムスリップした。
帰り際、外には私が最後に乗ったバイクと同じ型のバイクが置かれていた。シートもタンクもマフラーもエアクリーナーもあちこちカスタムしていたから、まったく同じ姿ではなかったけれど、間違いなくあのバイク。我ながらこんなバイクに乗っていたのかと驚いたけれど、少し誇らしい気持ちにもなった。あの頃、私のバイクには申し訳ないこともたくさんしたものの、ハーレーでの経験や時間は良いこともそうでないことも、すべてが人生の宝物だと心から思った。そして、無事に健康に年を重ねられていることにも心から感謝した。
Harley-Davidsonとの時間は、私に、強い体と運とエネルギーに恵まれた自分を何かの形で世の中に還元しようという思いを生んだ。久しぶりのハーレーとの出会いはあらためて、その思いを心に刻む清々しい時間だった。
ヨガ数秘学
-大吉朋子 .
2023年 3月は 10のエネルギーが流れます。
「10」はスタート、可能性の開花を表す数字。2月に手放し、すっきりとした環境や気持ちで新しいスタートの時期となります。3月は何かひとつでも新しいことを始めてみることがおすすめです。上手くいくかどうかを考えるよりも、まずは始めてみる。果実を実らせるにも、まずは種まきから始まります。すると、しだいにアップダウンしながらもエネルギーは上向いていきます。恐れることなく自分自身の可能性を信じ、志高く、自分の足で大地にしっかり立ち、さらなる高みをめざして残りの3月を有意義に過ごしていきましょう。
2023年 4月は 11のエネルギーが流れます。
「11」はスピリチュアルの数字。ヨガ数秘学でいうスピリチュアルとは、物質的な世界の外側にある世界を表します。この世には目に見えるものや現象と、目には見えないけれど私たち誰もがつながっている「見えない世界」があり、言葉にするのは難しいですが、自然や大いなるもの、人知を超えた叡智、宇宙、神などがそれにあたります。4月はそういった目に見えないエネルギーとのつながりを意識して、果てしなく広がる世界を想像し、大いなる流れに身をゆだね、自然との調和を大切に日々過ごしてまいりましょう。
【 4月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
論理的思考や枠組み、ルールといったことが自然と身についている4月生まれの方々。とても冷静で落ち着いた思考を持ち合わせる一方、自分のバランスが崩れてくると、物事のプラスとマイナス両面で見ることや平常心を保つことが難しくなったり、型にハマりやすくなることもしばしば。イマイチ調子が出ないとき時、思っている感じと違う時には、少し離れて全体を見るようにしてみてください。自分らしい落ち着きを取り戻せることと思います。
北台の「カトリック杵築教会」。武家屋敷の跡地に建ち、門構えや塀を活用しています。和風なつくりが町並みにマッチしていました。
北台にある田島家の塀は、石垣の上に荒土の塀を載せています。家老の屋敷は500〜600坪あり、いまも宅地の多くは江戸時代からの地割を残しています。杵築市は城下町の景観を守るため、2階建て以下の高さ制限、色調制限、構造等の制限を設けています。
杵築城を望む高台に建つ「一松邸」。昭和のはじめに建てられた政治家・一松定吉氏の邸宅です。
杵築を豊かにしたのは、畳表の材料となる七島(しっとう)の栽培でした。イグサよりも丈夫で人気があり、関西・関東にも運ばれ、3万5千石という石高よりも多い収益をうみだしました。
一松邸から城と瀬戸内海を望みます。八坂川河口には砂州が広がり、城の下には漁師の小屋が並んでいました。遠くには四国の佐多岬も見えます。
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