Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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神戸 / 洋館の証言 時空を超える美意識 https://collaj.jp/春風駘蕩 2023 慶応3年(1868)神戸開港若林秀岳が幕末に描いた「武庫連山海陸古覧」。神戸空港上空あたりから眺めた図で、神戸港(兵庫の津、神戸の津)に多数の商船が停泊しています。海側の町は外国人と日本人の雑居地で、外国人居留地は砂地でした。六甲山地の麓に北野村(のちの異人館街)が見えます。港との間には田畑が広がっていました。 兵庫の津神戸の津雑居地北野異人館街外国人居留地生田川 米国、英国、仏国など西洋列強の圧力により開国を余儀なくされた江戸幕府。下田、箱館に続き、神奈川、長崎、兵庫、新潟を開港します。米領事のハリスは大坂の開港を要求しましたが、幕府との交渉のすえ近隣にある良港として兵庫が選ばれました。しかし兵庫の津は、かつて「日宋貿易」の中心として栄えた歴史ある港町だったため、実際には隣接する漁村、神戸の津に外国人居留地が設けられることになりました。 穏やかな漁村に外国人居留地の建設が始まりました。上海租界を設計したイギリス人ジョン・ウィリアム・ハートによって、南北の京町筋(幅20m)を中軸に碁盤の目状の街路が設けられます。明治元年(1868年)には第1回の居留地永代借地権の競売が行われ、25.8ヘクタール、126区画の利用権が落札されると、商館、領事館、ホテル、教会などが次々と建てられました。旧神戸居留地十五番館(国指定重要文化財)は、第1回目の競売でフランス人ガンダンベルが落札し、明治3年にホテルを開業。明治11年に焼失しますが、明治13年頃までに木骨煉瓦造2階建て寄棟造の洋館が建てられます。南側2階に2カ所のペジメント(破風)とベランダをもつコロニアルスタイルで、ローマを思わせる柱列やモルタルに目地をつけた石造風の意匠が印象的です。後ろのガラス張りビルは、現所有者であるノザワ(不燃建材メーカー)の本社です。 昭和41年からはノザワ本社として大切に利用されていましたが、平成7年1月17日の阪神・淡路大地震により全壊してしまいます。もともと砂地だった旧居留地では20棟を超すビルが全壊しました。十五番館の部材はすべて回収され、外観を変えることなく、最新技術を導入した耐震構造で約3年をかけ再建されました。地盤の液状化防止策には「深層混合処理工法」(土中にコンクリート壁を作る)が採用され、建物下には免震ゴムを入れ、煉瓦積の煙突を鉄骨鉄筋コンクリートに変更し柱として機能させました。これらの工夫で地震力を約1/3に低減しています。日本の文化財の免震化は初めての試みでした。 横浜正金銀行神戸支店(設計:桜井小太郎)は、神戸市立博物館として利用されています。旧居留地は東洋で最も美しい街と評価され、当初から車道と歩道が分けられ、ガス横浜正金銀行燈が配置され、地下には総距離1880mの下水道も設置されました。煉瓦を筒状にした下水道は、150年経ったいまも一部が現用されています。旧居留地はブライダルの撮影スポットとしても人気です。 エルメス神戸のある旧居留地38番館は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、構造設計は東京タワーで知られる内藤多仲博士。昭和の初めにナショナルシティバンク銀行として建てられ、2階にはバイエル薬品が入居しました。1980年代、38番館などの保存運動をきっかけに元外国人居留地の整備事業がはじまり、現在の美しい街並みが形成されました。 日本でいち早くガス燈がともった旧居留地では、今もガス燈風の明かりが灯され、建物の色調や看板を規制することで神戸らしい街並みを守ってきました。電化された際も、電線が地中化されたため電信柱はありません。海岸通りの神戸メリケンビルはかつての神戸郵船ビルで、初代米国領事館の跡地に大正7年、曾禰達蔵・中條精一郎により設計されました。震災の前年に耐震補強工事を行っていたため軽微な被害ですみ、BELCA賞を受賞しています。 海岸ビル商船三井ビルディング 居留地南端にある海岸通りには遊園地やプロムナードが設けられ、外国の婦人たちが着飾って散歩し、艦隊の軍楽隊が演奏を披露しました。昭和初期になると海に面して神戸郵船ビル、香港上海銀行、海岸ビル、商船三井ビル、オリエンタルホテルなど海運会社、商社関連の石造ビルが並びました。「海岸ビル」(左)は河合浩蔵の設計で、旧三井物産神戸支店として建設されました。震災で全壊認定を受け高層ビルに建て替えられましたが、保存した外壁を低層部分に再構築しています。「商船三井ビルディング」(右)は関西で多くのビルを手掛けた渡辺節の設計。構造設計は内藤多仲。外壁のテラコッタや内装のプラスターなど、渡辺が米国で視察した技術を生かしています。 Vol.46 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ まるで秘密の花園に足を踏み入れた物語のお姫さまのように 若者にも人気の神戸中華街「南京町」。この場所はもともと、居留地ができるまで外国人と日本人が一緒に暮らした 「雑居地」でした。居留地が完成すると西洋人は居留地は居留地に移りますが、華僑たちは雑居地に居残ります。日用品から食材、衣料品など何でも揃う市場として発展し、昭和になると中国料理店が増えはじめました。 市民に長く愛された南京町でしたが、第二次世界大戦の空襲で焼け野原になり、アメリカ兵相手の「外人バー」ができて市民が近づきにくい場所になります。そこで南京町商店街振興組合と神戸市は、1981年から南京町の観光地化を目指した整備事業にとりかかりました。店舗の土地を削って道路幅を広げ、広場やトイレを設けたり、中国風の門を建て春節祭をひらいたり。手作りで始まったイベントが評判を呼び、多くの客で賑わうようになります。阪神・淡路大震災の際は南京町で屋台の炊き出しが行われ、それをきっかけに屋台での食べ歩きスタイルが定着しました。 海岸通り「海岸ビルヂング」の隣に、日本で唯一の神戸華僑歴史博物館があります。欧米人と共に来日し、上海や香港で培った技術をもとに飲食店、洋服の仕立て屋、洋家具製造などをはじめ、やがて船会社や為替仲介などを担い神戸の発展に大きく貢献してきた華僑社会の歴史を豊富な資料をもとに紹介しています。 海岸ビルヂング 明治44年1竣工の「海岸ビルヂング」(旧日濠会館)は、「海岸ビル」を手掛けた河合浩蔵の設計です。窓の上部には唐破風の彫刻がデザインされ、様式にとらわれない自由なディテールがファサードを彩ります。 玄関から一直線に駆け上がる階段のダイナミックな空間デザインが特徴です。 河合浩蔵は、建築学会の前身造家学会の設立に尽力した建築家です。ジョサイア・コンドルに学んだ後ドイツに留学し、帰国後はエンデ・ベックマン事務所で官庁集中計画に関わりました。内務省に勤務して、大阪の控訴院、裁判所などを手掛け、神戸市に移住。1905年河合建築事務所を開設し、関西建築界の長老的な存在となりました。 ら 139大原千晴食文化ヒストリアン英国骨董おおはら 卓上のき星たち★味覚の記憶を探る過去と未来 居する 事。「あの時って?」と聞けば、それは今から のに、 人は何をもって「おいしかった」と心に刻むことになるのか。 コロナによる面会制限が解除されたので、先日、老人施設に入 歳の叔母をその部屋に訪ねた。 3年ぶりに、面会室ではなく、いつでも自由に居室で会える ようになったのだ。「毎日色々なお料理が出されるみたいだけど、どうなの?」と尋ねてみた。「よく工夫されているわよ。そういえば、あの時の松花堂弁当おいしかったわね」という返 事だった。叔母の言葉で、思い出した。今は亡き祖母と私の母、そして叔母など親族が揃って、和食の店でお昼に松花堂弁当を食べたことがあったのだ。高齢でいろいろなことを忘れている 年前に食べた松花堂弁当のことを思い出す。なぜそん なに昔のことを。「あの時は楽しかったよね」話を続けていくうちに叔母が微笑みながら発した、このひとこと。そこにヒントがありそうだと気がついた。 私にはその松花堂弁当が「美味しかった」という記憶は、ない。だが、その時おもしろい出来事があったことは、よく覚えている。席は掘りごたつ風の作りでテーブル席。場所の記憶は鮮明だ。私の左隣に祖母が座り、その正面に母、叔母は私の向かいに座っていた。卓上には松花堂弁当の箱が4つ並ぶ。ちょっと贅沢な弁当で、焼き魚として鯛が入っていた。三婆大いに語り合い、いつものことながら私が口をはさむ間もない。おおむね食べおえた頃、母がわずかに食べ残した鯛を指して、祖母がこう言った「それ、食べないなら、こっちに寄こしなさい」。祖母は生粋の江戸っ子で、言葉は活きのいいべらんめえ口調だ。なので、私の耳には「その鯛、こっちに寄こしな!」と言ったように聞こえた。 当時彼女はすでに 歳間近だったはず。同年代の女性の中でも 背が高く大柄で、中年以降は、小太りという言葉では控え目すぎる存在感があった。「鯛を残すなんて、もったいないねぇ」と言いながら、体を傾けて、母の松花堂弁当の箱を引き寄せようと手を伸ばす。 「お母さん、止しなさいよ! その歳でそんなに食べるの。それだから太るのよ。ほんと、いじきたないんだから」娘二人が口々に、祖母をたしなめ始める。祖母は気にせず、グイと弁当を引き寄せ、母が食べ残した鯛の切れ端を箸でつまみ上げて一言「こういうところが一番おいしいんだから」 40 92 80 年も前の出来 。とにかく大食漢。 40 グルメじゃなくて、大食漢なのだ。その一方で、持って生まれた色彩感覚が抜群で、着物道楽が半端ではなく、いつだっておしゃれだった。しかも美人。それが口を開けば、べらんめえ口調で、食べれば大食い。そのうえ江戸っ子らしく気風がいいというか、浪費家というか。地味で質実剛健な軍人ながらも飛び切りのグルメだった祖父とは喧嘩が絶えなかったという。当然だろう。亡き母同様に見かけと中身にギャップがある、なかなか大変なおばあちゃんだった。 叔母が「あのときのお弁当おいしかったわね」と言ったのは、「このときの松花堂弁当」のことだったのだ。繰り返すが、私の舌には、その松花堂弁当が 「おいしかった」という記憶はない。だが、「あの席は楽しかった」という思い 出は鮮明に心に残る。 歳の叔母の記憶の中では、「楽しかった」=「美味し かった」となっているに違いない。長い年月を経て記憶がメロウになり、場の雰囲気と味わいが渾然一体となってとろけていき、「おいしいお弁当」として記憶に刻まれたのだ。多分私もやがては「あのときの松花堂弁当おいしかったなあ」という日が来るに違いない。人は何をもって「おいしかった」と記憶す るのか。その最も大切な要素が、ここに、ある。「おいしさ」は人と人の関係を結ぶものとして記憶される時、最も深い味わいのあるものとして心に刻まれる。だから食材や料理や酒を、こうした関係性から切り離してランク付けしても、格付けそのものは実は、あまり大きな意味を成さない。なぜなら、そのランク付けが「料理を食べる人が感じる美味しさに、そのまま反映される」なんてことは、まず、あり得ないからだ。人が何をもって「おいしかった」と記憶するか。それは、極めて多面的で複雑な関係性の中で形作られ、心に刻まれるものなのだ。星3つ、だから何? 記録に残る古代ローマや、ルネサンス期の贅沢な宴席料理を食べた人々が、個人的にどのようにその味覚を捉えて記憶したか。これを様々な資料から解き明かそうとする研究者たちがいる。これは現在の食文化史研究の最前線で、最も高度な研究の一分野と見られている。「遠く過ぎ去った時代の味覚」という捉えがたいものを、同時代の多様な文化の中に流れる様々な感覚を参考にしながら、解き明かしていく。大量の資料を探りながら、人間の五感のあり方と結 92 IC IC AI IC IC な「知性」を持ち始めたら、どうなるのか。これは「製品」なのか、それとも「生き物」なのか。確かテスラのイーロン・マスクが、人間の頭にチップを埋め込む実験を行う、自分から進んでその実験台になる、と言っていた。ここまで行くと、人間の記憶の領域とチップに埋め込まれた「的記憶」の境が、徐々に曖昧になっていくはずだ。そういえば、チップはその出発時点から「メモリー」すなわち「記憶素子」と呼ばれていた。その記憶素子が文字通り、人間の記憶の一部として組み込まれる時代が目前、ということになる。 人は何をもって「おいしかった」と心に刻むことになるのか。その大切な記憶を、誰かに書き換えられないよう、気をつけなければいけない時代に突入し始めたようだ。ROM、RAM、SIM。 培養肉は、ウシ、ブタ、トリから採った細胞を培養液で増やし、肉塊に整形する。 AI チップを埋め込んで、これが何らかの「感覚」や原始的 びつけて、調べ上げていく。これを現代に生きる我々の感覚で理解できる形で説明する。考えただけで気が遠くなりそうだ。 興味深いことに、過去を探るこうした地道な研究の土台と、大きな部分で重なり合う研究が現在、フードテック(食品加工製造技術)の最前線で行われている。すなわち「食感と味覚の再現追求」という動きだ。多数の人々が「おいしい」と感じるデータを抽出して、判断も取り入れながら、「おいしい食品」を生み出す研究開発。分子生物学的なレベルまで踏み込んでの開発競争が行われている。その最も先端的な例が「培養肉の開発」(細胞農業)だ。あえて言うと、これは味覚の3Dプリンター製造だ。培養肉は、植物性の素材から作られる大 AI 豆ミートのような「代替肉」とは違って、間違いなく「本物の肉」ではある。 一方で、これは完全に人工的に作り上げられた「製品」でもある。もし、この「人工培養肉」に メリケン波止場 観光客に人気の「メリケン波止場」は、明治元年に第三の波止場として建設されました。近くにアメリカ領事館があったことから「米利堅波止場」と呼ばれます。 阪神淡路大震災によって、神戸港の116kmに及ぶ水際線が被害を受けました。大型岸壁や物揚場の大半が被災し、上屋、荷役機械、倉庫、コンテナターミナルなどが全て使用不可となり、船での物資輸送がストップしてしまいます。神戸だけでなく関西圏全体に大きな影響をもたらしました。 メリケンンパークの「神戸港震災メモリアルパーク」では、被害をうけた波止場の一部を震災遺構として展示しています。港湾関係者の必死の努力により、緊急物資の受け入れや避難する人たちの輸送手段として波止場は利用され、震災2カ月後の3月20日には、ガントリークレーンによるコンテナ荷役が暫定的に復旧しました。 メリケン波止場は移民の港でもありました。神戸は横浜と並ぶ移住者の出発港で、約25万人のブラジル移民が旅立っています。全国から集った移住者たちは、港から1.5kmほど内陸の「国立移民収容所」(神戸移住センター)に1週間ほど滞在し、出国の手続きや健康診断、語学や移住先に関する講習を受けてから、家族で客船に乗りこみ南米へと旅立っていきました。 ブラジルの日系団体からの、日本で唯一現存する移住関連施設を保存して欲しいという要望をうけ、平成21年、施設は「神戸市立海外移住と文化の交流センター」として整備され、移民ミュージアムが設けられました。50日以上の船旅に慣れるよう、廊下や階段、寝室、食堂、浴室など、建物全体が客船に似た作りになっていて、寝室にはベッドが置かれました。施設で過ごす間に、ハイカラな神戸の街にでて買い物やデートを楽しむ人も多かったようです。 1885年頃から1972年までの移民数の調査では、北 海道、福島、新潟、東京、静岡、滋賀、和歌山、岡山、広島、山口、などの各県が1万人以上の移民を送り出しています。特に九州では福岡約57000人、熊本約77000人など移民が盛んでした。米国の支援をうけた南米への移民は国策として大きく宣伝され、具体的な手続きは外務省公認の海外振興株式会社で行われました。当時のブラジル移民案内には、仕事や収入、資格や家族構成、、渡航費用(政府から支給される)、持ち物などが紹介されています。渡航前は衣食住は完備され、農地が支給されると説明されましたが、実際には粗末な小屋に暮らし、原野での過酷な労働を強いられることが多かったようです。 花見の名所 花隅城跡。 写真&文 大吉朋子 「自由ってなんでしょうか。」 「大吉さんって自由そうでいいよね」「大吉さんって自由な感じだよね」「なんか、自由そう・・・」 私はこういった感想を頂くことがしばしばある。当初はそんなものかと気にも留めていなかったのだが、たびたびその言葉を聞くようになり不思議に思うようになった。いったいどんなイメージでその言葉を私に伝えてくれているのだろうか、と。 「自由」よく使う言葉だけれど、私自身、他者に向けてはあまり選ばない言葉である。だからなのか、気に留まる。その会話の時に不思議に思うことを聞き返してみればいいのだが、なんとなくそういう感じでもない気がして、簡単な言葉を返してその会話は終わっている。気軽に感想として伝えてくれているだけだと思うものの、受け取る側はその時だけでなく少しづつ蓄積されているものだから、だんだん気になり、こちらも別の感想を持ちはじめてくる。 「どこを切り取ると自由に見えるのだろうか。その方は自由ではないのだろうか、自由と感じられない状況にあるのだろうか。自由になりたいのか、自由に憧れているのか。自由が羨ましいのか、どうなんだろうか」。私の目に映る「自由」な感じの人とはどんな人物かと思い浮かべてみた。まずは、まとっている空気が軽いというイメージが浮かぶ。嘘のない正直な人。現実を素直に受け入れて、それをそれとして楽しんでいるような人。何かにとらわれていない人。大人になってもどこか「こども」のような明るい雰囲気をもつ人、という感じだろうか。 「自由」とは、自らをもって由となす。他からの強制や束縛を受けずに、自分の意思や本性に従い思うままにふるまうこと、などと書かれていた。「自らをもって由となす」という言葉は感覚的にはしっくりくる。良い事もそうでない事も、あらゆることにおいて言い訳をしない潔い姿勢を感じるし、フィジカル的な姿勢にしても、凛としてまっすぐ前を向いて、濁りのない空気をまとっているような人物像が浮かぶ。 前出の私に向けられた言葉は、いつ頃から意識するようになったのかはっきりしないけれど、私がいわゆるフリーランスになってからのように思う。今でもそうだが「自由業」とか「フリーランス」という言葉はなんとなく抵抗があり、当初の頃は正直恥ずかしさと怖さで口にできなかったことを思い出す。何が怖いかと言えば、自分を「自由業の人」という位置づけにすると、何者でもない自分がほんとうに「ただの自由な人」というカテゴリーに入り、浮ついた感覚を自ら OKしたような、社会から措いていかれる感覚が沸いてくる、みたいなことだったと思う。なかなかネガティブである。今、40代後半の年頃になり「自由な人」をどう受け取るかというと、励みになるというのか、そうあろうと前向きになり背筋が伸びる。「自由」という感覚をもっと洗練して、誠実さと寛容さを兼ね備えた気持ちのいい人間でありたいと、あらためて思う。そして「自由」は「責任」と表裏一体ということも、いつも心にとめている。 「責任」という言葉は重さがあるけれど、自分の人生、仕事、思考、行動、健康、使う言葉など、自分にまつわるものすべてに対して自由であり、それが故の責任が生じる。まぁあたりまえなのですが。だから私は他者に気軽に「自由ですね」とは言えないという所以でもあり、自分に向けられる言葉への不思議さにもつながっているのだと思う。そして、こどものような純粋な心とはいかないまでも、できるだけ余計な重しをはずし、フラットな心と頭で物事に向き合う感覚を忘れないようにも実はしている。物事を複雑にしたがる大人が多い気がするけれど、複雑にすればするほど余計な感情も渦巻いて負のスパイラルに入るが、そぎ落とせばシンプルに答えや道筋や大事なことが見えてくる。 次の機会には、どんなイメージで、何を感じて私に「自由」という言葉を伝えてくれたのか聞いてみようと思う。そして、もしも、その方は自由でないと感じているなら、何がそう感じさせるのかを聞いてみたい。だれにも邪魔されない自由の領域は思考のように思うけれど、さまざまな事情が絡む大人にとっては、思考の自由は一番ハードルが高いのかもしれない。 「相楽園」は神戸市の公園として唯一の日本庭園で、元神戸市長小寺謙吉氏の先代、小寺泰次郎氏が明治18年頃から造営をはじめ、明治末に完成しました。当時は蘇鉄園と呼ばれ、第二次世界大戦で本邸は焼失しましたが、厩舎や門だけが残りました。 堀辰雄の作品にも登場する「旧ハッサム邸」が、園内に移築・保存されています。昭和30年代、ハッサム邸が朽ち果てていくことを惜しんだ人々の活動が、神戸の異人館保存のきっかけとなったと言われます。インド系イギリス人の貿易商ハッサム氏が、明治35年頃北野町に建てた和洋折衷の洋館で、イギリス人建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルが設計しました。木造2階建、寄棟造棧瓦葺で、中央の廊下をはさんで両側に居室を配し、前面にベランダをとったコロニアルスタイル。阪神・淡路大震災時に落下した煙突を前庭に保存しています。 旧ハッサム邸のとなりには、空襲で焼け残った厩舎が保存されています。「海岸ビルヂング」などを設計した河合浩蔵の代表作で、L字型の正面1階は馬車庫、2階は厩舎員の宿舎、東側は吹き抜けの馬房になっています。円型の塔屋や屋根窓・切妻の飾りなどが、バランスのよい構成になっています。馬車をもち運用するには、こうした厩舎が不可欠でした。 神戸市の庁舎だった相楽園会館は、レストラン、結婚式場「THESORAKUEN」として活用されています。長年、神戸市のレセプション会場として使われてきましたが、利用率の減少から民間活力の導入が検討され、クレ・ドゥ・レーブのコンペ案が採用されました。日本庭園ではウエディング撮影が行われていました。 姫路藩主本多家が使っていた「川御座船」の一部が保存されています。参勤交代に使われた川御座船は、西側諸国で盛んに作られましたが、現存するのはこの一艘といわれます。失われた船体部は推定で全長約27mあり、姫路藩の水軍「御船手組」によって運用されました。 異人館で知られる北野には、関西ユダヤ教会の神戸シナゴーグや日本最古のモスク神戸ムスリムモスク。日本唯一のジャイナ教寺院バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院など、国際色豊かな宗教施設が点在しています。 昭和7年、詩人竹中郁の出版記念会に出席するため、28歳の堀辰雄は神戸を訪れます。街の印象を綴った「旅の絵」は「新潮」に掲載されました。竹中と異人館街を歩きながら「こんな家に暮らしてみたい」ともらしたのが、相楽園に移築されたハッサム邸や、異人館「伝統的建造物16」(下)だったと伝えられています。 山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪めかかっている。そうしてどれもこれもお揃いの鎧扉が、或いはなかば開かれ、或いは閉されている。多くの庭園には、大粒な黄いろい果実を簇がらせた柑橘類や紅い花をつけた山茶花などが植わっていたが、それらが曇った空と、草いろの鎧扉と、不思議によく調和していて、言いようもなく美しいのだ。                               堀辰雄『旅の絵』 萌黄の館 萌黄の館(旧小林家住宅)は、昭和53年から一般公開されています。設計はハッサム邸と同じハンセルと伝わり、木造2階建ての寄棟造り。台形状のベイウィンドウの上げ下げ窓に鎧戸をつけ、煉瓦装飾の煙突を掲げた、典型的なコロニアル様式です。アメリカ総領事のハンター・シャープが建設し、その後、神戸電鉄社長の小林秀雄氏が暮らしました。 1階玄関ホールの左手に応接室、右手に食堂、2階には寝室、化粧室、子供部屋などがあり、暖炉のマントルピースは美しい装飾タイルで飾られています。昭和50年代、朝の連続ドラマ「風見鶏」により異人館ブームが起こり自宅のまわりに観光客が集まるなか、小林家は一般公開に踏み切り別の家に移ったそうです。家具・調度品には小林家のものが残されています。 風見鶏の館 本当の物語神戸の異人館を代表する「風見鶏の館」は明治38年ころ、ドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマス氏の自邸として建てられました。ここに暮らしたエルゼ・トーマスさんによって当時の暮らしぶりや写真が伝えられています。エルゼさんは明治32年横浜で生まれ、一度帰国してから明治35年に再来日し、家族3人と8人ほどの使用人と共に神戸での暮らしが始まりました。(参考文献:『風見鶏 謎解きの旅』広瀬毅彦著 神戸新聞総合出版センター刊)1階の応接間は夫人のサロンとして使われました。街に出ることも少なかった夫人たちは、互いの家を行き来してアフタヌーンティーやテニスを楽しんだようです。アール・ヌーヴォーをとりいれた内装には、花や植物のモチーフが散りばめられています。設計はドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデ。1872年ポーランドに生まれ、ドイツで設計を学ぶとウィーンやベルリンで活躍。1901年中国上海に渡り、1903年横浜居留地にあったゼール設計事務所に入り、ゼールの帰独にともない事務所を継承。東京、京都、大阪、神戸、朝鮮などで活躍しました。風見鶏の館は木骨構造で、外壁を煉瓦で仕上げ、2階はハーフティンバー、屋根はスレート葺きです。 1階には台所がなく、半地下でコックが作った料理をエレベーターで1階食堂に運びました。食堂は中世的なデア人で、トーマス氏の故郷コブレンツに建つシュトルツェンフェルス城をイメージしていると言われます 大正3年、トーマス夫妻とエルザさんは、エルザさんの上級学校進学と夏の休暇を兼ねて、シベリア鉄道でドイツに一時帰国しました。その最中に第一次世界大戦が勃発し、トーマス氏はドイツ軍に徴兵され、神戸の邸宅や会社は没収されトーマス氏は全財産を失います。しかしドイツで再び事業を成功させ、フランクフルトに風見鶏の館に似た大邸宅をもったそうです。やがて連続テレビ小説「風見鶏」をきっかけにエルザさんの消息を知った神戸市は、エルザさんを日本に招きました。80歳になったエルザさんは65年ぶりに神戸を訪問。99歳で息を引き取るまで5回の来日を果たし、写真や証言によって復元工事に貢献しました。 第 99回内田 和子 つれづれなるままに 辞書とチャットGPT チャット G P Tが何かと騒がしい。是々非々はいろいろあるようだが、瞬時に知りたいことを教えてくれる「魔法の小槌」なら、便利に使ってみたいとも思う。今や、新聞を読んでもわからない言葉が多く、辞書を引いても出ていない。パソコンで検索しても、何を言っているのかよくわからないことが多く、その度に用語の検索をかけて、つなぎあわせて、ようやく「ああ、そういうこと」と理解することもある。メモを 50 片手に何度も、用語検索をしているうちに何を調べているのかわからなくなることもある。チャット GPTについては、 AIの専門家が、膨大な資料を調べてくれる助っ人のようなものと解説していた。今更論文を書くわけでもなく、膨大な説明は読んでも理解は難しいかもしれないが、 A Iの行き先は、人類の予想を遥かに超えていくのだろうとも思う。 そんなニュースを見ながら、昔アメリカのテレビドラマで、「奥様は魔女」という番組を思い出す。鼻をピクピクと動かすと、掃除や家具の移動まで、あっという間にやってしまう。年も前のドラマだが、忙しい毎日、鼻をピクピクするだけで、思い通りにことが進むなんて、なんて便利なんだろう、特に重い家具があっという間に入れ替わったり、部屋の中が瞬時に綺麗になってお客様をお迎えできる、なんと羨ましいことかと、ドラマの内容はともかく、あのピクピク鼻の威力はよく覚えている。チャット G P Tにそこまで期待はしないが、今差し迫って困っているのは、資料の分類と廃棄の分別。7〜8年前の新聞の切り抜きの整理である。時事、政治、論評、簡単料理、人生相談、などなど、その時気になったものをそのまま切り取って箱に積んである。断捨離をしようと、そのままごみ袋と思ったが、ふと手を止めると、政治関係の記事が多く、随分と憤っていたことを思い出す。もう何年も前の記事だが、論評や投書も含めて、国民の怒りがそこには書か 40 れている。その時何があったのか、その後どうなったか、切り取った新聞 記事は、半分以上そのままに箱に戻した。歴史を逆回しで見るようなもの だが、何を切り取ったのか、何に憤ったのか、もう一度読んでみたいと思 った。新聞は数年前から i P a dで読むようになり、気になる記事はス クラップで保存している。紙を切り取ることがないので便利である。論評 や含蓄のある言葉に出会うと、後でゆっくり読みたいとスクラップするが、 再読したことはない。スクラップしたことも忘れてしまうのかもしれない と思いながらも、スクラップする。 断捨離を機に再度目にした新聞の切り抜きは、さまざまなことを思い出す「記憶の糸」になっている。いつまでたっても断捨離ができないのはこの 50 せいだとわかっているが、スクラップした記事を、チャット G P Tなら上手に分類、整理して、記憶、その時の感情まで思い出させてくれるかもしれないと思った。 昔々社会人になりたてのころ、もう年も前のこと、無論パソコンはない。調べごとは辞書を引く。課の書庫にある辞書はみんなの共有物、一応上司に言って書庫から借りる。その辞書で何かを調べて戻すとき、みんなが私をみている。そんな気がした。後でわかったことだが、その辞書の表紙にはグラビア写真がかけられていた。気がつかないまま戻したが、今ならその辞書をごみ箱に入れて、上司をセクハラと訴えていたかもしれない。最も今は辞書を借りるなんてことは皆無だろうが・・・・なぜかチャット G P Tの話題で思い出した。 年前、設計事務所でもパソコンが普及し、製図板から一人一台のパソコンで設計をするようになった。当時、多くの設計事務所の所長さんとお話しする機会を得たが、パソコンの中にある所員の描く図面が見えないので、何に迷っているのか、何に悩んでいるのかがわからない。プリントされた図面からもそれを読み取ることができない。手書き線の強弱や濃淡ではそれを汲みとることができたが、パソコンの普及によって指導しづらくなったと・・・しかし、パソコンの持つ可能性の方が遥かに高い、ご自分は使わなくても、色々不都合はあっても、時代の変革期と考え、若い所員たちの可能性に大きな期待を持たれたのだと思う。 チャット G P Tは、再び訪れた時代の変革期なのでしょうか。でもワクワク感が全くしないのは楽しくないのです。 異人館で知られる北野町は、高台から神戸港を見下ろす眺望の良さが人気となり、第二次世界大戦まで200棟以上の洋風住宅が建ち並んでいました。しかし戦災や戦後の高度経済成長、建物の老朽化により、多くの異人館がマンションやホテル、商業施設に建て替えられました。ハッサム邸の移築・保存やドラマをきっかけに異人館保護の機運が高まり、昭和55年、北野町・山本通地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。阪神淡路大震災の前には約80棟の異人館が残っていましたが、大半が被災しました。 平成7年1月17日の震災翌日から自転車を使った調査がはじまり、24日には京都の文化財担当職員が派遣され、25日から国による第一次被害調査がはじまると同時に雨対策のシート養生など応急対応が行われました。3月からは復旧修理事業がスタートし、復旧修理にかかる補助率が1/3から10%に変更され、所有者の負担が軽減されます。はじめに居宅として使用されている洋館7件の緊急修理が優先され、シュウエケ邸、洋風建築物26番、レイン邸、萌黄の館、旧サッスーン邸、旧グラシアニ邸、ボリビア領事館、風見鶏の館などの修復工事が着手されました。 「うろこの館」近くの喫茶店ティファニーの休日。 うろこの館神戸で最初に公開された異人館「うろこの館」。明治の末、外国人居留地に高級賃貸住宅として建てられ、大正期に北野町へ移築されました。ドイツ人ハリヤーが暮らしたことから、旧ハリヤー邸とも呼ばれます。 「坂の上の異人館」は、一時期、中国領事館として使われていたと考えられています。 ラインの館(旧ドレウェル邸) 神戸の洋館に多い「コロニアルスタイル」はイギリスのアジア進出にともなって植民地で発展し、日本に持ち込まれました。外壁は下見板張り(イギリス下見)にペンキ塗りで、1、2階の境目に蛇腹をまわし、眺めのいいベイウィンドウ(張出し窓)に鎧戸を付けています。深いひさしの下はベランダになっていて、列柱が並ぶ姿がクラシカルな印象を与えます。神戸にはハンセルはじめ優れた建築家が暮らし、意匠を凝らした洋館を設計しました。北野物語館(左)は世界で唯一、スターバックスが入居した国の登録有形文化財です。震災の被害で解体されましたが、神戸市により再建されます。かつてはドラマ「風見鶏」のモデルパン職人ハインリヒ・フロインドリーブが所有していました。 新神戸駅近く、生田川。 原田の森王子動物園で知られる原田の森。もとは原田神社(王子神社)の神域の森で、明治22年、キリスト教主義教育を目指す関西(かんせい)学院の最初の校舎が建てられました。関西学院は昭和4年、上ヶ原校地に移転しますが、残された煉瓦造のチャペルは神戸文学館として活用されています。最近になって、王子公園再整備計画にともない、関西学院大学の誘致計画がもちあがり話題となりました。 明治37年、米国リッチモンドの銀行家ジョン・ブランチの寄付をもとにM・ウィグノールの設計で建てられた「ブランチ・メモリ・チャペル」は、学院生の信仰の拠り所でした。平成18年からは神戸ゆかりの文学作品を紹介する神戸文学館として利用されています。関西学院の卒業生稲垣足穂をはじめ、記者として働いたラフカディオ・ハーン、細雪を書いた谷崎潤一郎、正岡子規、今東光、横溝正史、山本周五郎など神戸は作家、詩人、歌人の創造の場となってきました。神戸文学館の向かいには、原田の森ギャラリーがあります。設計は村野藤吾。昭和45年、兵庫県立近代美術館として開館し、新しい県立美術館「芸術の館」(設計:安藤忠雄)の完成と共に、平成14年から市民ギャラリーの場に転用されました。 特別な材料を使わずにエレガントでリッチな空間を創造する手法には、一見の価値があります。平成28年には、綜企画設計の設計で耐震補強工事が行われました。 隣の西館は、平成24年横尾忠則現代美術館としてリニューアルオープンしました。2023年5月7日まで、開館10周年を記念した「横尾忠則展満満腹腹満腹」を開催。10年間で開催した約30本の展覧会をぎゅーっとまとめた総集編的な展示でした。 キュミラズム・トゥ・アオタニ建築家武村幸治の監修で令和3年につくられた空間コラージュ作品。 その36 青山かすみ 今年の桜前線はかつてないモーレツな勢いで北上中。空気中を舞う花粉や黄砂の量も半端ないからか、コロナ禍明けと喜んでマスクを外して歩く人は多くないようだ。それにしても春の嵐とは言い得て妙な言葉である。一気に森羅万象が動きだす。 卒業入学、入社式、お引越しやリニューアル、ついでに自分 自身の入院などなど、どちらを向いても転入転出の目白押し。劇的変化に右往左往しちゃいました。短い春休みを満喫しようと駅や空港は三年ぶりに混雑を見せ、一見身の回りのすべてが同じようなスピードで回りはじめたかに見える2023卯年の春なのだが。日本が抱える色んな部分のきしみも明快に、また浮き彫りになった気がする。 陸上自衛隊機のいわゆるブラックホークと呼ばれる頑丈なヘリコプターが、宮古島の近海を偵察中に突如消息を絶った事故。この件には悔やんでも悔やみきれぬモノが残ります。我が連れ合いは、これはまさに八甲田山の二の舞だと的確に指摘してくれたけれど、私はその通りと思った。もう三十年以上も前に制作された高倉健さん主演の映画「八甲田山」をすでにご覧になられ た方も多くおられましょう。青森の豪雪地帯を雪中行軍とし訓練が行われた陸軍の実話を元に、何年間もの月日を労し完成させた逸話を持つ名作である。このストーリーで注目すべきは、健さんが率いるコースと北大路欣也さんの率いたコース、二通りが在ったこと。そして健さんコースには地元の地理に詳しい農家の方がガイドとして道案内をしてくれたのに対し、欣也さんコースはガイド的存在を置くことなく自分たちだけで判断した結果、大きな犠牲を出してしまい悲劇に見舞われたのです。 日本は南から北まで長細い島国だから、それぞれ地域の特性を理解するまでに時間が掛かる。特に北部と南部の地理的事情を深く理解するには何年も掛かって当たり前である。近年、東シナ方面の防衛に力を注がなければならない日本の事情に理解出来る部分もなくはない。しかし、沖縄本島やその周辺、その先の先島諸島に住む人々との関係性はどのように築いてきたのだろう。はたして築く努力はなされてきたのだろうかと頭を傾けざるを得ない。日本に住む私達はそれぞれの立場でもっともっと自国のことを知るために努力しなければなりません。 芦屋と並ぶ神戸の高級住宅地「御影」には、和風鉄筋コンクリート建築の傑作「白鶴美術館」があります。入り口は重厚な石造りで、青銅製の横開きシャッターの門をくぐり、アプローチの石段を美術館入り口に向かって進みます。 エントランスホールから、中庭越しに本館が見えます。昭和6年、白鶴酒造7代目嘉納治兵衛(正久)が、自らの古希を記念して設立した、私立美術館のさきがけともいえる美術館です。 嘉納治兵衛は明治20年、白鶴醸造元嘉納家の長女と結婚し、7代を襲名しました。酒造業のかたわら煎茶、抹茶をたしなみ雅号「鶴堂」「鶴庵」を名乗って東洋美術を蒐集します。美術思想普及のためにはコレクションを一般公開することが必要と考えた嘉納治兵衛は、収蔵品の優作500件をもとに白鶴美術館を設立。3年の歳月をかけて青銅葺き屋根、城郭風の重厚な本館が竣工します。本館の外装は回廊に大島産の花崗岩を使い、欄干の親柱、手すりを水磨きで仕上げ、床は鉄平石を張っています。壁面はリソイド塗り、軒裏は漆喰塗り、屋根は本瓦屋根風の銅板葺です。 本館と事務棟(玄関・受付)は長い廊下で結ばれています。廊下の床を一段下げ、窓に連子をはめて調光することで、静謐な雰囲気が醸し出されます。床は鉄平石、黒テラゾー、壁・天井は漆喰塗りを透明ラッカーで仕上げています。 和館のスタイルをとりながら、美術品を守るため耐火、耐震性を高い鉄筋コンクリート造になっています。床には鉄平石、壁面に天然石オニキス、長押に真鍮、壁・天井の漆喰塗りなど、質の高い材料が使われ、蟇股の細かな造形など、随所に職人の技の高さを見ることができます。 階段の木部はチーク材、床はチークなどの寄せ木張り、壁には織り裂地を張っています。展示室の天井、柱、長押にはヒノキ、窓枠はケヤキ。2階天井は漆喰塗りの格天井に飛鶴が描かれています。鉄筋コンクリートは湿気が多いと考えられていましたが、白鶴美術館では漆喰や木、布などの材料を使い施工期間を長くとることで、美術品保護が第一に考えられています。 御影には明治の末ころから、朝日新聞社創業者村山龍平邸など実業家の邸宅が建ち、高級住宅街が形成されていきました。白鶴美術館に近い旧乾邸は、昭和11年頃、乾汽船創業者乾新治邸として、建築家・渡辺節により設計されました。神戸市による特別観覧が年に数回行われています。 阪急御影駅近くに建つ「豊雲記念館」は華道小原流三世家元小原豊雲のコレクション記念館で、清家清の設計です。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】