被災された方の生活を支える
〈令和6年能登半島地震災害義援金〉
(日本赤十字社)にご協力お願い致します。
下の画像の右側をクリック(タップ)すると記事をご覧頂けます。
コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします |
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
Backnumbers
昭和タイムトンネル 荻窪 時空を超える美意識 https://collaj.jp/秋燕 2025 昭和史の舞台「荻外荘」 ▲ 荻外荘の名は西園寺公望によって付けられました。▼荻窪駅からグリーンスローモビリティで 10分ほどです。 荻外荘(てきがいそう)は昭和 2年(1927)、大正天皇や渋澤栄一の主治医だった入澤達吉博士が、東京帝国大学の教授退官後の住まいとした「楓荻荘(ふうてきそう)」が始まりです。設計は常子夫人(中牟田子爵家)の妹鶴子の夫である伊東忠太に託されました。昭和12年からは近衞文麿が所有し「荻外荘」と名を変え政治の舞台になりました。▼荻外荘の半分は1960年、池袋・染井霊園近くの天理教施設に移設されます。杉並区の荻外荘復元プロジェクトにより2014年に買い取られ、元の場所に戻りました。 築地本願寺など宗教建築を手掛けた伊東忠太は『法隆寺建築論』で法隆寺の価値を見出し、日本建築史の第一人者となり全国をまわり文化財保護を先導しました。1902年には3年に渡るアジア・欧米の建築調査旅行に出かけ中国、インド、トルコなどアジアの建築に日本のルーツがあると主張します。1909年には『建築進化論』を発表し、明治期の建築界を暗黒時代ととらえ、進化主義、折衷主義、帰化主義をあげ、和洋折衷や古代への帰化を否定したそうです。 Vol.76 原作: タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ ☆キキのドーナツレシピ ☆薄力粉はどっさり ふくらまし粉、卵、砂糖、バター うんテキトウに ミルクで全部をまとまるくらいに混ぜて ドーナツらしい形にして油でこんがり揚げる そして ココが好きなだけ砂糖をまぶして出来上がり ☆ 近衞文麿はクライスラーに乗り、毎日永田町に通ったそうです。食器棚の中には、当時使われたオールドノリタケが展示されています。 大きなテーブルがある食堂で入澤博士は来客をもてなしました。普段の食事は台所のダイニングテーブルで、お手伝いと一緒にとったそうです。ちなみに常子夫人は大正 4年(1915)の家庭博覧会で立ちながら料理を行う「一畳半の台所」を出品します。当時はまだ部屋に座り調理することが主流でした。壁紙は正倉院文様をモチーフにした伊東忠太のデザインです。 独特のデザインを施したガラス窓は F・L・ライトを彷彿とさせます。ちなみに伊東忠太とライトは同い年です。ライトの弟子・遠藤新は、荻窪に恩地孝四郎邸を建てています。 近衞文麿が気に入っていた椅子。庭にはスイレン池や東屋、藤棚、ゴルフ練習用バンカーがあり、遠くに富士山を望みます。入澤博士がこの地と出会ったのは、家族とのピクニックだったそうです。敷地は善福寺川の左岸の台地上にあり、高い位置に邸宅を置き、低地を庭とすることでダイナミックな景観を生み出しています。入澤博士は水田や松林のひろがる善福寺川までの一帯2万坪を購入し、武蔵野の景観を守りました。近衞文麿は 45歳の若さで首相となった昭和12年、入澤博士邸を訪ねます。首相の激務に疲れていた文麿は、都心の近くにありながら風光明媚なこの地を気に入り「この屋敷を貸してくれないか」と言ったそうです。椅子生活がベースで鴨居が高いことも身長 180cmを越える文麿には良かったようで、この土地の空気は文麿の健康に不可欠と考えた入澤博士は邸宅を文麿に売却。入澤家は敷地の西側で暮らしました。 ▼タブレットの VRを使って、往時の庭の姿が見られます。 建設当時の書斎は洋間でしたが、近衞文麿によって昭和18年頃和室に改装され書斎兼寝室「とのさまのへや」と呼んでいました。改修の設計は住友総本店の建築家長谷部鋭吉によるもので、その後、長谷部竹腰建築事務所は日建設計のルーツとなります。近衞文麿は米国との開戦に最後まで反対。戦争中も和平工作を何度か画策します。敗戦後はマッカーサーから憲法改正作業を委嘱され戦犯に問われることは避けられたかと思われましたが、GHQによりA級戦犯として追及されたことで、この部屋にて54歳で命をたちました。家族が集まり阻止を試みたものの、本人の意思は固く防げなかったといわれます。近衞家では、この部屋を当時のまま保管し続けて来ました。 居間 居間も洋室から和室に改装され、床柱には接ぎやほぞ穴の跡が残り、元々の柱をそのまま生かしたと思われます。立派な真塗りの床框や脇床との対比がユニークです。座卓は当時のものが置かれています。荻外荘には次男の近衞通隆さんが、2012年、89歳で亡くなるまで暮らしていました。通隆さんは父の死の前日に「自分は多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない」というメモを受け取っています。2014年には杉並区が取得し、池袋に移築されていた玄関、応接室などを再移築し2024年から一般公開されました。 荻外荘公園の隣には、隈研吾建築都市設計事務所の設計による展示棟がオープンしました。1階にはカフェがあり、2階は荻外荘や近江文麿関連の展示、荻窪に暮らした著名人の紹介など、無料の展示スペースになっています。 ドラゴンシリーズ 132 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 走りながら、未知に挑む いつまで、どこまでこの緊張感を保ち続けられるだろうか。いや、正確には「いつまで、どこまで緊張感を保ちたいと思い続けられるだろうか」と言うべきかもしれない。 人は後半に近づくほど、己の本性と向き合い、残された時間を意識しながら歩むようになる。これまでの足跡を振り返りつつ、目の前の景色と、その先に見える結末を見据えながら、限られた時間への焦りの中で生きていく。ゆったりと古い街並みを味わいながら人生を散策するような穏やかな時間など、自分には想像もできない。そんな余裕を持って散策している気分には、どうしてもなれない。僕は根っからの貧乏性なのだ。 これまでの長い年月、悩み、病や無力感に苛まれながらも、張りつめた緊張の時間の中を走り続けてきた。時に、芯まで疲れ、息が切れ、心が折れそうになり、立ち止まりたい誘惑に駆られる。けれど、一度止まってしまえば、再び立ち上がって走れなくなる気がして、心の弱さを押しのけるように走り続けてきた。若い頃は、この年齢になればもっと穏やかな日々を過ごしていると思っていた。だが現実は甘くない。 慌ただしさは増す一方で、時間をゆっくり味わう余裕などどこにも見当たらない。標榜しているコンセプトとは裏腹に、この滑稽で混沌とした迷走は、きっと最終幕まで続いていくのだろう。人生は、まさに笑えないコメディのようだ。 僕はこれまで、挑戦しては失敗を重ねてきた。というより、挑むしか術がなく、状況が休むことを許さず、前に進むしかなかった。これもまた、自分で走って飛んでは転び、滑って転げ回る、笑えない真剣な喜劇だ。もしそのたびに失敗の場で立ち止まっていたら、きっと一生そこから動けなかっただろう。だからこそ、無理やり失敗を置き去りにしてでも前へ進むしかなかった。 振り返れば、過去の時間は失敗の山で覆われている。だが、それら一つひとつこそが、痕跡であり記憶であり、現在へと続く道なのだ。 前に進むということは、まだ見ぬ道を歩くこと、そして不毛な未知を切り拓くことだ。目的を持って歩けば、迷い、遠回りしながらも、いずれどこかの土地に辿り着く。向かう途中で目的地が変わったり、遠のいたりすることもある。それでも歩き続けることでしか、未知である自分の行く先には到達できない。そして、ようやく辿り着いた場所に立ってみても、そこからまた導かれるように新しい道が延びている。 挑戦するということは、どこかで理由のない何かを信じることではないだろうか。そしてそれは、自分の中にまだ幼さ、あるいは精神の若さが残っている証でもある。自分の存在は、この「挑む」という行為によってしか支えられていない。挑戦を通して自分の状態を確かめ、その先にある遠い場所を目指す。 僕が走り続ける理由は、「まだ走れる」という事実を確かめるための作業であり、苦しくても走り続けることで、自分の体力と気力、可能性と限界を、身体で感じ取ることができるからだ。 だが、たとえその場所に辿り着いたとしても、満足や幸福が得られるわけではない。むしろ、満たされぬ渇きを抱き続けるような感覚だけが残る。その満たされない渇きの感覚こそが、自分を前へと進ませる原動力になっている。 そこには、「何も持たない者」の悲しみがある。何も持たぬ者は、虚無を紛らわせるために歩き、挑み続けるしかない。どこまで進んでも、虚無は満たされることがない。穴の空いたバケツが、決して水で満ちることがないように。それでもこぼれ落ちる分を補うために、水を注ぎ続けるしかない。もしその行為をやめてしまえば、そこに残るのは、空っぽで錆びついた、朽ち果てたバケツだけだ。何かを所有したくない。何者でもありたくない。ただ、どこかへと前に進みたいだけだ。 どこまでも、いつまでも、空っぽで、小さく、貧弱な自分であり続けたい。 軽井沢現代美術館フィナーレ! 17年の歴史を刻んだ軽井沢現代美術館が、この秋、幕を降ろしました。その軌跡をたどります。 2008年、軽井沢・離山の麓に開館した「軽井沢現代美術館」が 2025年 9月 23日、17年におよぶ歴史に幕を閉じました。最後の展覧会「海を渡った画家たちーフィナーレ!ー」では、草間彌生、白髪一雄、菅井汲、田中敦子、堂本尚郎、奈良美智、名和晃平、ロッカクアヤコの作品を展示。同館は 40名近い現代作家のコレクションを毎年テーマを決めて紹介し続け、現代美術の普及に大きく貢献されたのです。同館を運営したのは、東京・神田神保町すずらん通りの「海画廊」です。初代館長谷川憲正さんは美術系の編集者から画廊主に転身し、神保町の三省堂書店で 34年にわたりギャラリーを運営されていました。書店を訪れる多くの人たちに現代美術に触れてほしいというのが、谷川さんの願いでした。2008年には、その思いをさらに進め、軽井沢の保養施設をリニューアルして軽井沢現代美術館をひらいたのです。 現在営業中の神田神保町「海画廊」。 軽井沢の自然風景をとりこんだメイン展示室。東京では公開の難しい大型作品が、長さ約 50mの大空間に生き生きと展示されています。薪ストーブを中心にしたミュージアムショップにはカフェが設けられ、来館者はリゾート気分を味わいながらゆったりと寛げました。ショップにはオリジナルグッズや、地元工芸作家の手作りアクセサリー、布・革製品などが並び、紅茶やジュースがふるまわれました。軽井沢の思い出としてグッズを購入される方も多かったそうです。▼ テーブルには来館者が自由に描けるスケッチブックが置かれ、閉館を惜しむメッセージが沢山寄せられていました。 ショップには現代作家の作品をモチーフにした文具や美術書などが並び、気軽にアートに親しめる場所になっていました。美術館で作品を鑑賞する時間は意外と短いため「アートに囲まれながら時間を過ごすことで、生活の中にアートがある、一日中見ていられる、そういった作品との付き合い方を体感して欲しい」というのが、谷川さんの考えだったそうです。書籍コーナーには、貴重なレゾネ(作家の全作品を網羅した本)も揃っていました。 2代目館長の谷川美奈子さんと谷川華子さん。例年は展覧会の準備に忙しくゆっくり鑑賞する余裕はなかったそうです。 初代館長 谷川憲正さんは、日本から「海を渡った画家たち」の足跡をたどり、20世紀にパリ、ニューヨークなどで ▲1950年代、具体美術協会に参加し、国際的 活躍した日本人の作品を一点一点コレクションしていました。海外で高く評価されながらも、日本では知名度の低い に評価された田中敦子の作品。 作家を多くの人に知ってもらいたいと願った谷川さんは、そのための現代美術館を自ら作り上げたのです。 ▲ 2階では17年の歴史を振り返る動画が流されました。 ▼足で絵を描く技法を編み出し、具体美術協会の名を世界に知らしめた白髪一雄の作品。 今回、閉館を決めた理由について、2代目館長の谷川美奈子さんは「70歳までは続けたいという初代館長の目標を達成したため」といいます。初代館長は 2014年 63歳で亡くなりますが、美奈子さんはそれから11年間、自身が 70歳になるまで館の運営を続けました。「初代館長が思いを込めて蒐集した作品を、どうしたら来館者に楽しんで頂けるかを毎年考えてきました。個人の小規模な、知名度もあまりない美術館と思って運営してきましたが、毎年楽しみに来ていたという声を多く頂き、自分たちの想像以上に大きな存在であったことを知りました」と美奈子さん。▲2階へあがる階段には、来館者がスケッチブックに描いた絵を額装して掛けていました。 ▼2階には手頃な価格でアートポスターやシルクスクリーンを購入できるギャラリーがありました。 ▲ 菅井汲のオートルートシリーズなど。 2階に展示された菅井汲は、阪急電鉄でグラフィックデザイナーとして働きながら日本画を学び 1952年に渡仏。日本趣味的な初期作品がフランスで話題となり、国際的な作家として認められます。疾走する自動車を運転中に浮かんだビジョンを表現した「オートルート」シリーズなど、シンプルな図形を組み合わせた力強い作品が若い来館者にも好評だったそうです。初代館長が植えた桜の木が、17年の時をへて大きく生長していました。リノベーション計画には、ベステックスコンサルティング原田 直さんが参加しました。 リノベーションによって2階の部屋が取り払われ、自然光をとり入れる吹き抜けの空間になっています。鎌倉や箱根で建設地を探していた初代館長でしたが、軽井沢の自然にみせられ、この建物を美術館とすることを決意したそうです。「きれいな空気、緑、季節の花といった外部の自然と、人工物である現代美術の対比が面白かった」と谷川美奈子さんは振り返ります。軽井沢現代美術館の活動は東京・神田神保町の「海画廊」に場所をかえ、これからもつづきます。 角川源義は俳句を詠むため、400本ほどの樹木と四季 角川源義 旧邸「幻戯山房」 折々の草花を庭園に植えたといわれます。 荻窪三庭園のひとつ「角川庭園」は、角川書店の創業者で俳人として知られる角川源義旧邸「幻戯(げんぎ)山房」です。杉並区に寄贈され2009年より一般公開されました。角川源義は1917年富山に生まれ、古書店で折口信夫『古代研究』と出会ったことをきっかけに國學院大學へ入学。柳田國男、折口信夫、武田祐吉に国文学の指導を受けながら、折口の短歌結社「鳥船社」に入会します。戦時中は数回招集されるも戦後は角川書店を創立し、出版活動に力を注ぎました。1958年、俳句結社「河」を主宰。この書斎を俳誌「河」の発行所としました。現在も詩歌室や茶室は、区民の創作の場として使われています。 1949年には「角川文庫」が創刊され、1952年『昭和文学全集』のヒットにより新社屋を建設。落成式は川端康成はじめ1000人以上集まりました。そんななか源義は少年時代に目覚めた俳句に熱中すると俳句総合誌『俳句』を創刊。数寄屋風の角川邸は俳句仲間の建築家加倉井昭夫によって設計され、1955年に完成します。まだ珍しい2階バルコニーを備え、ガラス戸を引き込み式にするなど数寄屋モダン住宅の先駆けとなりました。2025年10月23日〜11月3日には角川源義没後 50年、幻戯山房創建 70年を記念するため、普段は非公開の 2階が特別公開される予定です。 Roche Bobois OSAKA 大阪淀屋橋の新ランドマーク 「淀屋橋ステーションワン」 に 2025年10月31日オープン フランス発のインテリアブランド Roche Bobois(ロッシュ ボボア)が、2025年10月31日、大阪・淀屋橋の新しい超高層ビル「淀屋橋ステーションワン」1階にオープンします。関西エリアでは初めての出店で、モダンなデザインと伝統的家具づくりを融合させたブランドの哲学“アール・ド・ヴィーヴル(暮らしの芸術)”を体感できる新たな拠点となりそうです。出店と同時に、これまでロッシュ ボボアを運営してきた㈱ NODA JAPANは、ブランドのさらなる発展とサービス向上のため㈱ RB Japanを設立しました。今後は㈱ NODA Holdingsがグループ全体を統括し、㈱ NODA Japan、NODA North America Inc.、NODA Europe EURL、NODA Furniture Asia Pte.、㈱ RB Japanがそれぞれの事業により専念する体制を整えるそうです。 2026年2月の Ambienteは、家具業界向け企画やデジタルプラットホームが充実 2026年 2月 6日から10日まで、フランクフルト国際見本市会場で開催される「アンビエンテ」「クリスマスワールド」「クリエイティブワールド(9日まで)」の最新企画を紹介するプレス発表会が、2025年10月14日、東京・日本橋で行われました。今回は消費財見本市の総責任者ユリア・ユーレック氏とフィリップ・フェルガー氏が来日し、各見本市の新たな取り組みを紹介。アンビエンテではホスピタリティ分野やコントラクトビジネスを強化し、デザイナーのカティ・シーベック氏による没入型展示を展開します。さらにリビングゾーンには世界の家具・照明・インテリア用品メーカーが揃いトータルインテリアを提案、有名家具ブランドが集う「インテリア・ルックス」など、デザイナーや建築家に向けた展示も充実します。また見本市終了後も、バーチャルショールームなどデジタルプラットフォームを通じて製品情報の閲覧や商談を継続できるよう、デジタルサポート体制を拡充していくそうです。 わが子らが 白き二階の窓ごと 出だせる顔も月の色する 寛 ほがらかに家の内そと物なくて ガラスを透す 青芝の色 寛 ▲ 昭和 54年ころの遙青書屋。1階は応接間、食堂、台所、書斎、与謝野夫妻の部屋で、2階の個室が子ども部屋でした。遙青書屋(ようせいしょおく)は与謝野晶子自らが図面を描き、西村伊作が設計した2階建ての大きな洋館でした。クリーム色の壁に赤い屋根のカラフルな家で「鶯.台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台があり、富士山や箱根の山々を望むことができたそうです。西村伊作は文化学院の創立者で、与謝野夫妻は西村に協力し文学部の責任者として教育にあたります。茶室「冬柏亭(とうはくてい)」は唯一残る与謝野邸の建物として、京都の鞍馬寺に移築されました。 2025年11月30日まで、第一回『ひろしま国際建築祭』が広島県福山市・尾道市の7会場で開催中です。安藤忠雄さん設計の尾道市立美術館では、プリツカー建築賞受賞の日本人 8組(丹下健三、槇文彦、安藤忠雄、妹島和世・西沢立衛 /SANAA、伊東豊雄、坂茂、磯崎新、山本理顕)を紹介した『ナイン・ヴィジョンズ|日本から世界に跳躍する 9人の建築家』を開催しています。神勝寺禅と庭のミュージアムでは、東京・成城にあった「丹下健三自邸」の1/3模型を展示し福山での再建計画を発表するほか、『NEXT ARCHITECTURE建築でつなぐ新しい未来』展では、藤本壮介さん、石上純也さん、川島範久さん、VUILD/秋吉浩気さん、Clouds Architecture Officeのプロジェクトが紹介されています。展覧会だけではなく、堀部安嗣さん、石上純也さん、中山英之さんの移動型キオスクも登場。スタジ オ・ムンバイがリノベーションした尾道のホテル「LOG」ではUMA/designfarmによる体験型展示『Architecture Voice from LOG|「建築の声」を聞く』、サポーズデザインオフィス設計の複合施設「ONOMICHI U2」では『「ZINE」から見る日本建築の Now and Then』が開催されています。 ふくやま美術館の『後山山荘(旧・藹然荘)の 100年とその次へ|福山が生んだ建築家・藤井厚二』は、 聴竹居で知られる藤井厚二が兄・与一右衛門(豪商くろがねや12代当主)のため、聴竹居のサンルームの 写しを鞆の浦の別荘に増築したといわれる物語を紹介。旧藹然荘は 2013年、建築家前田圭介さんにより 後山山荘として再生されました。他にも日帰りツアーや講演会、ワークショップなど盛りだくさんの建築祭です。 大田黒公園は、音楽評論家・大田黒元雄の約 2700坪の屋敷跡を中心とした回遊式日本庭園で、1981年に開園しました。樹齢 100年を超えるイチョウ並木が有名で、紅葉の季節は多くの人でにぎわいます。大田黒元雄は、二葉亭四迷の親友で『浮雲』のモデルとなった大田黒重五郎の長男として1893年に生まれました。東芝を再興し水力発電で成功した父のもと、元雄は音楽評論家の先駆けとなり、自らの研究に一生をささげました。 セミを獲りに侵入する子どもに対して「玄関までは来ないでね」といって、やさしく迎えたと言われます。 大田黒元雄の住居兼仕事部屋とした洋館が公開され、愛用したスタインウェイのピアノ(1900年製)を用いた定期的なコンサートがひらかれています。東京音楽学校で H・ペツォルトに師事した元雄は、1912年、19歳でロンドン大学に留学します。オーケストラ、オペラ、バレエの舞台に通い詰め、ロイヤルアルバートホール、クイーンズホール、エオリアンホールなどで、日本では耳にできない生演奏を聴いたといいます。ドビュッシー、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、フォーレなど、同時代の作曲家に触れた元雄は楽譜や書籍、演奏会の最新情報を持ち帰り、彼らの音楽を日本で初めて紹介しました。大田黒邸を「公園にして欲しい」という元雄の遺志によって、遺族から杉並区に寄付されました。 帰国した元雄は 22歳のとき『バッハよりシェーンベルヒ』を刊行すると、自宅で定期的にドビュッシーなどのピアノを披露します。音楽と文学社を設立すると雑誌『音楽と文学』を発行しながら、演奏会や評論の執筆・刊行に尽力。1918年に声楽家・広田ちづゑと結婚し渡米すると、プロコフィエフと親交を結びます。荻窪に暮らし始めたのは1933年 40歳のときで、戦後は NHKのラジオ番組「話の泉」に出演するなど、茶の間の人気ものとなります。大正から昭和を縦横無尽に過ごした元雄は「大正リベラリズムが生んだひとつの典型」ともいわれ、著作・翻訳をあわせ100冊を超える著書を出しながら「僕の音楽評論なんて偶然から生まれた全くの道楽仕事さ」と語る、生涯を懸命に遊びつくした稀有な人物でした。 サルーンの女たち 今回のミニシリーズ「西部劇映画の酒場サルーン」の中で、これまで積極的に触れてこなかった重要なポイントがある。それは、サルーンで働く女性たちのことだ。最初はバーのメイド的な役割から始まり、やがて歌と踊りで男たちを引き付けるショーガール的な女たちが登場する。そしていつしか、サルーンの2階に並ぶ個室に男たちと消えていくことが当たり前の女たちが待ち受ける店も出てくる。酒・料理・賭博・歌と踊り・夜の女たち。サルーンを形作るこれらの要素の中で、どの要素を「店の売り」として打ち出すか。それは、そのサルーンが置かれた土地と客層の個性により様々だった。 特に、砂金掘り、金山・銀山・銅山・炭鉱・港湾そして大都市など、荒くれ男が多く集まる場所は、夜の女たちが待ち受けるサルーンがつきものとなっていく。開拓初期の素朴なサルーンが、時に子供連れの主婦や家族も立ち寄るような場所であったことを思えば、常に夜の女たちが待ち受ける店は、同じ「サルーン」という名称でも、全く別のものだった。そして、開拓が進み町の経済が伸びるに従って、「博打」と「夜の女たち」を売りにするサルーンも大きくなっていった。当然のことながら、その手の店に対しては、一般女性から強い反感が生まれる。また、プロテスタントの牧師たちからも宗教道徳の面から非難が浴びせられるようになっていく。 サルーン=悪場所。飲酒を止めよ! こうして「サルーン」=「悪場所」というイメージが出来上が り、やがて、「飲酒=悪行」というところまで事態は進行していく。もちろん、そこに至るまでには、実に様々な歴史的要素が複雑に交錯している。だがこうして「飲酒=悪行」という道徳観念が広がりはじめた結果、全米各地で禁酒運動(特に女性たちが男に断酒を求める運動)が徐々に力を得ていく。1869年(明治2年)には禁酒の法制化を求める政治団体「禁酒党」(Prohibition Party)が設立され、1874年には「キリスト教婦人禁酒連盟」(The Woman's Christian Temperance Union「WCTU」)が誕生することで、禁酒の法制化を求める動きが大きな社会的な広がりを見せ始める。さらに 18 9 0年頃からは、その名もズバリ「反サルーン連盟」(Anti-Saloon League)という組織が活発に活動し始める。ここに至って「飲酒を国禁にせよ」という主張が、もはや無視できない大きな社会運動となっていく。やがて第一次世界大戦を経て、「ドイツ的なるもの=ビール=悪」というイメージ 18 70 アメリカの禁酒法に先立って、欧州では、 世紀中頃からイングランドとオランダで安くてアルコール度数の高いジンで酔いつぶれる貧民が社会的に大問題となっている。また、その後1911年には、フランスで「緑の魔酒アブサン」が製造販売禁止となっている。これも少し探ると、禁酒法を生み出すに至ったアメリカとの共通点を見出すこともできる。さらに現代では、当時の「酒」が「薬物」というより強力なものに入れ替わったと見ることもできて、問題はより深刻化している。 ところで、禁酒法の施行という驚くべき強硬策が実施されるにあたり、最も強力な役割を果たした政治団体のひとつが、先ほど触れた「反サルーン連盟」だった。そのため禁酒法施行( 1920年)後、全米でサルーンは次々と営業停止に追い込まれることになる。ゴールドラッシュの頃( 18 4 8年頃)から広がり始めたサルーンという形式の飲食店は、こうして約年間の歴史を閉じることになる。もちろん、禁酒法施行後も、闇で酒を飲ませる場所は大繁盛し、密造酒作りも産業化され、これを仕切るアル・カポネに代表されるヤクザ組織が大いに勢力を増していったことは皆様よく御存知の通り。しかし、そうした闇の酒場は、もはやサルーンとは呼ばれなかった。と、禁酒法をめぐる当時の動きと、共通していると感じられるのだ。 皆様御存知のように、イスラーム圏では、禁酒が厳守されている国々も少なくない。しかし、キリスト教圏では、泥酔はともかく、飲酒そのものを悪として、これを全面的に禁ずるという例は、ほとんどなかったのではないだろうか。実際、「7つの大罪」の中に「大食いの罪」は挙げられているが、飲酒はその中に含まれてはいない。ただ、が政治的に浸透したことがあったり、これに対して「度数の高いウィスキーこそ諸悪の根源」という反論が出たりで、移民の母国文化をも巻き込む悪口の言い合いも起きている。こうした議論錯綜の末、ついに1920年1月、「%以上アルコール分を含む飲料をすべて規制の対象とする」という「禁酒法」が施行されるに至る。 10 禁酒法施行〜サルーンの終焉 「自由の国アメリカ」で酒を飲むこと自体が法律の力によって全面的に禁止されたというのは驚くべきことだ。だが、禁酒法が施行された後でも、違法の密造やこれを密かに(場合によっては堂々と)飲ませる店が横行し、アル・カポネに代表されるギャングの資金源となっていく。こうして、社会的な大混乱を巻き起こした末に、施行から年を経た 1930年12月、株式市場崩壊という大恐慌のさ中に、禁酒法は廃止される。それにしても禁酒法とは一体、なんだったのか。その一連の歴史的な経緯を調べていくと、現代に通じるアメリカ社会の様々な断面が見えてくる。例えば現代アメリカの根強いヴェジタリアン志向、牛肉忌避運動、薬物の過剰摂取の社会問題化などをめぐるアメリカ社会の様々な動きを見ている キリスト教婦人禁酒連盟の女性たち。 オクラホマ北端のサルーンでの出来事 今でも店の名に「サルーン」という呼び名を使う店も、無くはない。しかし、それはもはや懐古趣味的に使われる場合がほとんどだといっていいようだ。私自身、オクラホマ最北部の町で、西部開拓時代から続く、かつてはサルーンだった店のバーでお酒を飲み、その2階に並ぶ部屋の一室に「一人で」泊めてもらった経験がある。そこはかつて、開拓時代伝説の悪漢ガンマン、ジェシー・ジェームズも泊まったことがあるとのことで、部屋の家具調度も当時の雰囲気を再現していて、まるで西部劇映画の中にいるような感じになったくらいだ。地元の男たちが集まる1階のバーには、大きな格子柄のシャツにカウボーイブーツ姿の客が並 び、客の誰もが腰に拳銃を下げていてもおかしくない雰囲気が一杯だった。アメリカの中西部は、奥地に入っていくと、建物だけではなく人の気質も、ついこの間まで西部開拓時代だったという雰囲気が濃厚に感じられる場所が珍しくない。 そのサルーンのバーで隣に座った地元客から驚くべき話を聞いた。日本の明治中頃、このサルーンに泊まって、更に奥地(コロラド)へと向かっていった日本人がいて、その日本人のことが、その珍しさ故に長らく言い伝えられてきたという。更に驚くべきは、私が滞在した十年ほど前に、その日本人の出身地である四国の田舎から、お坊さんがその人の足跡を訪ねてやってきて、その日本人の亡くなった地を訪ねて弔いの儀式を行ったとのこと。その時のことは当時、ちょっとしたニュースになったという。おそらくは、明治中頃にカリフォルニアに農業移民としてやってきて、様々な事情(差別や政治的迫害)でカリフォルニアを後にして、内陸の奥へと新天地を求めて行った日本移民の一人なのではないだろうか。一瞬、そのバーの外を彼が歩いてゆく姿が見えるような気がした。 今回まで4回に渡って西部劇映画に登場するサルーンとその変遷について、あ れこれ語ってきたが、これだけ語っても、サルーンをめぐる様々な逸話や歴史のほんの一部に触れたに過ぎない。禁酒法施行前後の大混乱時代は、ジャズ・エイジと呼ばれる。サルーンが消えゆく中で新たに登場したのは、どのような世界だったのか。禁酒法と博打と夜の女とジャズ。この時代、若き才能あふれるアメリカ人たちが自由を求めてパリを目指している。その結果、何が起きたか。 ついてはまたいつか、回を改めてお話してみたい。 ジャズ・エイジは違法酒場から全米・ヨーロッパに広がった。1920年代違法酒場でカクテルを楽しむ若い女性たち。 これに ▲ キックオフセレモニーに登壇した港区区長 清家愛さん。▼ 《デリバリー・ダンサーズ・アーク: 0度のレシーバー》を六本木ヒルズアリーナで上映したキム・アヨンさん。ソウルの街と様々な次元を舞台に、若い女性配達員達の旅を描いています。 2025年9月26日〜28日まで開催された六本木アートナイト。「都市とアートとミライのお祭り」をテーマに、六本木ヒルズ、森美術館、東京ミッドタウン、国立新美術館、六本木商店街ほか六本木の各所にアート作品やパフォーマンスが展開しました。昨年の台湾に続き、今年は韓国のアーティストがフォーカスされました。 六本木ヒルズアリーナに展示されたカン・ジェウォンさんの作品は、見た目は硬い金属のようですが、実際は風船でできていて空気が抜けると形を保つことができなくなります。 シャオ・シュアン・タン&メーガン・タンのインスタレーション《Takea walk through the meadow with me》は、廃棄されたアクリルから作られた花を、作家自らが六本木ヒルズの庭に植えました。 キックオフセレモニー後に上演された TAGO《韓国の鼓動 ドラム・シャーマン》。伝統的な太鼓の演奏に武術の要素をとり入れた、アクロバティックなパフォーマンスです。 奥山太貴さんの《現在地 feat.六本木アートナイト》は、六本木 台湾出身のフォン・チェン・ツォン(范承宗)さんは、600年以上の歴史ある六本木天祖神社を舞台として《六本木帆城》を展示。 交差点に六本木アートナイトの文字を浮かび上がらせました。 天祖神社、国立新美術館、東京タワーなどの輪郭を組み合わせた木造インスタレーションとして構成されました。 インドネシアのアリ・バユアジさんが進める「Weaving the Ocean(海を織る)」プロジェクトでは、浜辺に打ち上げられたロープや網 麻布消防署仮庁舎建設用地に展示された島田正道さんの《Birds などのプラスチック廃材を、色鮮やかな糸にアップサイクルし、伝統的な織り職人の協力を得て手織物などに仕上げています。 fly around with you》。 東京ミッドタウンでは、TOKYO MIDTOWNAWARDのファイナリスト 6組の作品が先行展示されました。幼少期に右目を失ったRibさんは独学で義眼の技術を学び、瞳に星をデザインしたり光る義眼を制作。「義眼アーティスト」として世界に認められています。 東京ミッドタウンに現れたイム・ジビンさんの《You Are Not 小林万里子さんの《世界の心臓》は、水辺に集まる様々な動物 六本木ヒルズのカフェスペースに飾られたのは、川原隆邦さんのAlone》。他に《HELLO》や《JOY》も展示されました。 の命の循環を布、和紙、粘土、刺繍によって表現しています。 《量子の共鳴》。10mを越える手漉き和紙に描かれた水墨画です。 井伏鱒二は1987年、60年余り暮らした荻窪の記録を『荻窪風土記』にまとめます。左は井伏鱒二、右は太宰治。 中央線の主要駅として賑わう荻窪駅。明治 22年に甲武鉄道が立川〜新宿を結び、明治24年には荻窪駅が開業します。甲武鉄道は甲州街道沿いに敷設される予定だったものの、農家に反対され数キロ離れた場所に真っすぐの線路をひき、駅の開業当時は田圃や畑、クヌギ林が広がっていました。駅前の青梅街道は徳川家康が江戸城を築くため漆喰壁の材料を運ぶ道としてつくり、多くの荷馬車が行き来し、馬子が集まる蹄鉄屋と一膳飯屋がドライブインのように並んでいたそうです。農家は荷車で名産の大根や白菜、ごぼう、人参、からし菜、山椒の芽などを一晩かけて都心の市場まで運びました。▲みずほ銀行(旧第一勧銀)が建つ教会通りの入口。昭和8年から太宰治が暮らしたのは教会通りに近い、東京日日新聞記者・飛島定城一家が借りた家の2階でした。 井伏鱒二の『荻窪風土記』によると、教会通り(弁天通り)にはかつて新川運送店、佐藤自転車店、真々田書籍店、朝日堂薬局、西沢洋服店、やなぎや豆腐店、のんき屋カフェー店、近江屋酒店、松屋肉店、浅倉八百屋、備前屋家具店、備中屋蒲団店、飯田生花師匠、製材所、煙草屋、魚茂西部市場が並び、稲荷神社の奥には徳川夢声邸がありました。昭和のはじめ4人の文学青年、太宰治、伊馬春部(劇作家)、中村地平(小説家)、神部雄一(詩人)がここに移り住んできます。農家が副業で建てた下宿が多く、家賃を滞納しても文句をあまりいわれない、文士が暮らしやすい街でした。 ▲「朝靄の荻窪田甫」。横山大観の朦朧体を取り入れることで朝もやを表現しています。▼石山太柏画伯の休々窟。 井伏鱒二が牛込から荻窪に越したのは昭和2年の夏で、関東大震災以降、中央線沿線には三流作家が移り、世田谷には左翼作家が移り、流行作家は大森に移ったと井伏は書いています。井伏が暮らした清水一帯は朝鮮原と呼ばれたクヌギ林で、開拓により麦畑になりました。井伏は天沼教会から麦畑にでると、鍬をもった農夫に「この土地を貸してくれないか」と頼みます。兄から建築費を借りた井伏は原稿用紙の裏に自ら図面を描き、欄間や床の間をつけた 8畳間、4畳半の離れに書棚のある書斎、台所を配置して『文芸戦線』の青年に紹介された大工に現金を渡すとすぐに建設が始まりました。しかし棟梁は博打打ちで建設費を使い込み、建前が終わった所で仕事を投げ出しました。坪75円の上質な普請をすると棟梁はいいましたが、土台は米スギで、柱と梁もひどいものでした。井伏は追加資金を高利貸から借り、自邸をなんとか完成させます。 手術をきっかけに薬物中毒となった太宰治は、治療のため一時荻窪を離れ、昭和 11年11月荻窪へ戻り、光明院、白山神社近くの「照山荘」に入ります。ここは太宰の再出発のため初代と井伏夫人が探したアパートです。心配した兄・津島文治も上京し、井伏と一緒に荷物をアパートに運びました。しかしアパートを気に入らない太宰は、数日でここを出てしまいます。 ▲ 「ゆふいん文学の森」に移築された「碧雲荘」。1階はカフェ。2階には太宰の暮らした部屋が再現されています。 「照山荘」を出た太宰と初代は井伏邸を訪れ、翌日には四番目の家となる「碧雲荘」を見つけます。棟梁夫妻が建てた家で、2階のひと間を借ります。太宰と初代はここに8カ月暮らしますが、入院中の初代の過ちを知った太宰は谷川温泉で初代と心中未遂を起こし関係は終わりを迎えました。その後太宰はひとりで井伏邸に近い天沼の下宿「鎌滝」で1年以上暮らします。「今月は、初代が、いよいよ、くにの母のもとに帰ってしまひ、私は夜具一そろひ、机、行李一つ、にて下宿屋にうつり、あとの家財道具すべて初代にやって、餞別の三十圓、すくないけれども、私ひとりの力では、とてもそれ以上できぬ有様ですから、そんな、わびしい別れ方をいたしました。」 (太宰治から平岡敏男宛書簡より) 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間44時間目写真&文 大吉朋子 2025年11月は「11」の月。ヨガ数秘学でいう “スピリチュアル ”なエネルギーが流れる一か月です。 “スピリチュアル ”とは、『目に見えないものとの繋がり』を表します。 「11」は、1.10までの要素をすべて内包する、果てしなく広がる大きな世界。宇宙、空、神、自然、大いなる流れといった、形のない、日々私たちが感じている世界です。これらの非現実的なエネルギーの中では、流れに任せ、大いなる力に委ねることで、進むべき方向へと向かっていきます。 「流れに任せる」とは、導かれる世界。「私は人生の流れに乗っている?」と自分へ問うことで、映し出される世界でもあるかもしれません。”スピリチュアル ”とは、とても個人的な問題で、物質的な世界の外側にある、自分の深い部分にある感覚や気づき、今の自分へ確実に働いてきた力でもあります。 日々、多くの時間は目に見えるものとの繋がりに意識が向かいます。けれど、私たちには、目に見えな い世界を想像することで得られる ”何かとの繋がり ”も確かにあります。私は人生の流れに乗っている? 空を見上げて、その先に広がる世界に意識を向けて、現実と非現実の間を想像する。いつもの景色の中に、今の自分という存在が違う形で浮かび上がってくるかもしれません。 見えない世界を想像する。 父は 70代後半で視力を失いはじめ、80歳を迎えるころ全盲になった。若い時から視力は弱く、分厚いレンズの眼鏡が体の一部みたいだった。眼鏡をはずすとほとんど認識できないと言っていたが、60代になり複数の病が発生し、不治の症状はゆっくり進行していった。 体の大事な部位は2つあるという。私たちが受け取る情報の9割近くは、目からだ。日々をあたりまえに過ごしていると、その重みを忘れてしまうが、視力を失うことがどれほどのことか、父を見て毎度思い知る。 視力の喪失は、読書好き、勉強好きの父にとって、日常の楽しみを手放すことであると同時に、身体的機能への影響もとても大きい。全盲になってからも同行援助を受け、5kmほどの散歩を続けていたが、夏になると食欲が落ち、体力も落ちる。ここ数年の、恒例の出来事だった。 元来とても健脚な人で、父が 40代の頃はちょっと不気味なくらいだった。一緒に山登りをすると、父は登山道を走るように頂上まで登る。そして、我々が遅いと待ちくたびれて走って下って来る。当時小学生の私は「なんなんだこの人は……」と、子ども心になんとなく恥ずかしく、父が奇妙でならなかったが、今思えば凄いの一言。仕事は合理的にこなし、ほとんど残業せずに成果を上げる外資系金融サラリーマン。毎朝出勤前のランニングを欠かさず、休日は趣味として英語や数学の勉強をするという、なかなか大した人だったと思う。 そんな父だが、今大きな変化の中を静かに進んでいる。今年の夏も容赦ない暑さだったが、もれなく父は例年以上に食欲を落とし、ほとんど食べずに寝ている日々が続いた。さすがに見かねて救急病院に連れていき入院。一旦は回復したものの持病も重なり、自宅に戻るも体力が十分に回復しない。そして、目が見えないことでさらに回復を遅らせているのだと、父の様子を見てよくわかった。 毎日様子が違う。良い日もあれば、一段階沈むような日もある。大人になると、日々の変化を大きく感じることは少なくなるが、毎日が一枚一枚確かなレイヤーになっているのだと、見てとれるほど明らかな変化を繰り返している。そして、あんなに嫌がっていた認知症の世界へ、父は足を踏み入れた。じわじわと滲むように入り込んでいった。 もう驚きはしないが、情報で知る世界と実際の世界はまるで違う。想像していたつもりでも、父の個性との掛け算で想像を超えてくる。混乱をきたした際、普段は母がそばにいるが、度を越えてきたときは私が代わる。父が安心できる場所へ着地するにはどのルートが良いのか。静かに脳内を高速回転させ、見えない道を探っていく作業がはじまる。 父の見えない世界はどうなっているのか。通常から離れた思考回路で繰り広げられる世界は、現実の世界とまったく違う。想像に想像を重ね、あたかもリアルな世界にあるようなやり取りにもっていく。その時は集中しているから深く考えこむ感覚はないが、少し時間をおいた頃、表現しがたいものが浮かび上がる。 たくさんの人たちが関わる中での一時の出来事ながら、父の世界に触れるたび、想像することの大きさを本気で感じる。そして、今の自分だからできることもあるのだと、人生の流れを深く感じる瞬間がやってくる。 荻窪から中央線で3つめの三鷹駅。駅前には太宰治が入水した玉川上水が流れて 太宰治が生きた 三鷹います。昭和14年〜23年まで、太宰は三鷹下連雀の家でいちばん永く暮らしました。 天下茶屋から甲府へ 新婚時代に通った甲府の喜久乃湯温泉。15時まで執筆し温泉に浸かり、豆腐をさかなに晩酌する日々をおくりました。 太宰治は荻窪の暮らしに別れを告げ、昭和13年9月〜11月の3カ月にわたり富士山を望む天下茶屋(山梨県御坂峠)に逗留し執筆に没頭します。井伏鱒二のすすめで甲府に暮らす石原美知子と見合いをすると、翌年に井伏邸で式を挙げ、甲府駅北口に近い朝日町へ移り美知子の実家・石原家の近くに小さな貸家を借り新婚生活を過ごしました。この頃が人生の中で「かすかにでも休養のゆとりを感じた一時期」だったと太宰は回想しています。三鷹市下連雀の「井心(せいしん)亭」は、茶室を備えた三鷹市営の和風文化施設です。その向かいの路地に、かつて太宰一家の家がありました。甲府から東京へ戻りたいと考えた太宰は荻窪周辺の家を探し、三鷹に新築される貸家を見つけ、完成前に借りることを決めました。美知子夫人の『回想の太宰治』によれば、太宰は9時〜15時まで1日 5枚(2000字)を限度に執筆したそうです。地理学者石原初太郎の四女として生まれた美知子夫人は東京女子高等師範学校を卒業し、甲府の女学校で地理や歴史を教えました。太宰の口述筆記やスケジュール管理を行い、没後は全集の編集から展覧会の監修、資料収集までを担い、1997年 85歳で亡くなるまで力を尽くしています。 書棚はなく、資料や本はりんごの木箱に入れていたそうです。 三鷹駅前の「三鷹市美術ギャラリー」には太宰治展示室があり、三鷹の家が再現されています。約 12坪ほどの小さな家で、一番大きな6畳間を仕事場としました。太宰は健康を取り戻すと『走れメロス』、『駆込み訴え』、『女の決闘』、『女生徒』、といった代表作を次々と発表します。床の間の掛け軸は美知子夫人の父 石原初太郎の遺品で、 『東京八景』江戸時代の儒学者 佐藤一斎の書です。この部屋には多くの文人や編集者が訪れ、昭和 15年には長女・園子さん(津島雄二元厚生大臣夫人)が誕生し、流行作家として、家庭人として太宰は充実した日々を送りました。 昭和 20年、東京の空襲が激しくなると、美知子夫人と 2人の子どもは甲府の実家に疎開し、太宰治もほどなく後を追いますが甲府の空襲で実家も焼けおちます。一家は太宰の実家、青森県金木の津島家に身を寄せ、戦争が終わると太宰は兄・津島文治の選挙運動(戦後初の衆議院選)を手伝いました。三鷹に戻ったのは昭和 21年のことで街の姿はすっかり変わり、青森で名の知れた旧家だった津島家も、農地解放によってその力を失っていきます。新潮社から小説の依頼をうけた太宰は没落する旧家をモチーフにした代表作『斜陽』の執筆を始めると、三鷹駅近くの仕事場を転々とするようになりました。最後をともにする女性、山崎富栄に出会ったのはその頃です。 ▲ 昭和21年11月からの仕事場「中鉢家」(1997年まで現存)。建築家中鉢運作邸の 2階で『斜陽』のヒロインかず子のモデルとなった太田静子が訪ねています。 最後の仕事場となった小料理屋「千草」(左側)の向かいに山崎富栄が暮らす野川家(1999年まで現存)がありました。富栄の父・山崎晴弘は日本初の美容学校「東京婦人美髪美容学校」の創設者で、富栄は銀座に自らの店を構えるほどの人気美容師となります。YMCAやアテネ・フランセで語学を学び、豪華客船に店を持ち世界を旅することを夢見ていました。昭和 19年、三井物産のエリート社員と結婚しますが、夫はマニラ赴任中に戦死。銀座の美容室や御茶ノ水の美容学校も空襲で焼けました。戦後、三鷹の美容室で働くなか出会った太宰は、本宅と富栄の部屋を行き来しながら創作を続け、昭和 22年末に刊行された『斜陽』は戦後日本初のベストセラーとなります。しかし肺病を悪化させ富栄の部屋で喀血。富栄は太宰にビタミン注射を打ちながら『人間失格』の執筆を支え、開店資金を貢いで献身的に看病します。 ▲ 二番目の仕事場は「田辺肉店」のアパートで『斜陽』の執筆を続けました。▼編集者たちと集った屋台「うなぎ若松屋」の跡。店主は太宰や井伏の作品に登場し、太宰の連絡係も務めていました。現在は国分寺に店を構えます。伊勢元酒店(『十二月八日』に登場)の跡地にある「太宰治文学サロン」は、太宰治の生誕 100年を前に 2008年オープンしました。期間限定の予定でしたが世界各国からファンや研究者が訪れ、現在も運営が続けられています。書棚には太宰治研究で知られる山内祥史の「山内祥史文庫」や長女・園子さんの蔵書が並び自由に閲覧できます。三鷹の家の模型や解説パネルもあり、Dazai COFFEEを飲みながらガイドボランティアの方のお話も伺えました。 昭和 23年 6月13日、太宰と富栄は遺書を残して三鷹駅近くの玉川上水に入水しました。「千草」が捜索本部となり、警察や友人知人による大捜索が行われましたが、発見されたのは 6月19日、奇しくも太宰39歳の誕生日でした。ふたりが入水したと思われる地点には、金木町産の玉鹿石が置かれています。戦後ベストセラー作家となった太宰は、昭和 23年の文学者高所得番付で4位、百万円(現在の一千万円以上)を得ましたが、大半は知人、編集者との飲食に使われ高額の税金は美知子夫人に引き継がれました。生前から制作が始まった八雲書店の全集は倒産によって頓挫しますが、夫人たちの尽力により昭和 30年筑摩書房版全集 12巻が刊行され、作品は永遠のものとなります。玉川上水と太宰治 撮影 田村茂 重要.化財「黒き猫」修理完成記念「永青.庫 近代日本画の粋 .あの猫が帰って来る!.」 永青.庫(.京区目白台) 前期:10月4日〜11月3日 / 後期:11月7日〜11月30日 永青文庫(文京区目白台)にて、同文庫の設立者・細川護立(もりたつ)が愛した菱田春草「黒き猫」の展覧会がひらかれています。菱田春草は横山大観、下村観山と並ぶ近代日本画の天才と期待されましたが、「黒き猫」を描いた翌年、腎臓病が悪化し 36歳の若さで亡くなりました。4階展示室は細川護立が昭和11年、研究者を招いてこの場所でひらいた座談会を彷彿とさせる構成です。護立は「黒き猫」、「落葉」、「平重盛」、「六歌仙」など春草の代表作を披露して「頤 菱田春草「黒き猫」(1910年)は前期の展示です。後期には の線がボウとなつているのが非常に面白い。これはとても難しい仕事で餘程うまいと大観なども云って居た」と語ります。 同じく春草の「落葉」 (1909年)が展示されます。 ▲ 菱田春草「平重盛」(1894年前期展示)には、細川護立による「書付」が添えられていました。それによると「平重盛」という作品名を付け箱書きしたのは横山大観だったことが記されています。平重盛が関わった殿下乗合事件(1170年)を描いた作品と思われます。 今回の展覧会は、永青文庫がすすめるクラウドファンディング「文化財修理プロジェクト」第1弾の成功を記念してひらかれました。同文庫では「黒き猫」修理費用をクラウドファンディングで公募し、943人から想定を上回る14,755,000円の寄付が集まりました。修理は半田九清堂(東京都渋谷区)で行われ、制作から100年を経て生じたシミや絵具の剥離、表装の痛みなどが直されました。 ▲ 重要文化財 菱田春草「落葉」(1909年後期展示)。「黒き猫」や「落葉」を最初に入手したのは、生前の春草を最も支援した秋元洒汀(しゃてい)でした。千葉流山で醸造業を営んでいた洒汀は眼病に苦しむ春草の暮らしを支え、文展出品作の「落葉」、「黒い猫」を出品前に購入していました。家業が傾くと蒐集品を手放しはじめますが、春草の作品を確かな人に継承したいと横浜の原三渓、松坂の小津與右衛門、細川護立が選ばれ、熟考ののち護立に定められたといわれます。 細川護立は、作品の由来を説明した「書付」を自ら書き、作品の箱に入れていました。その多くは第二次世界大戦末期、東京から熊本へ作品を疎開させた時に書かれたものです。下村観山「春日の朝」(1909年頃前期展示)の書付には、観山に頼まれて京都の別荘を貸した際、本作を持ち込み補修を依頼したことが書かれ、一連の書付は貴重な研究資料となっています。 長年にわたり護立と親しくした横山大観の大作「柿紅葉」(1920年前期展示)。護立は1900年、17歳のとき上野公園でひらかれた日本美術院の展覧会で大観、観山、春草の作品と初めて出会い、1908年には水戸の展覧会で、それぞれ 30円(現在の10数万円)で3人の作品を購入しています。その時はまだ東京帝国大学の学生でしたが、彼らの作品を購入したのは護立だけだったと言われます。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】