竹久夢二伊香保記念館にて、スタインウェイの自動演奏機能再生計画が進んでいます。
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小江戸モダニズム川越 時空を超える美意識 https://collaj.jp/枯露柿 2025 川越は洋館の宝庫 川越といえば蔵造りの街並みが有名ですが、大正から昭和初期に建てられた洋風建築も見逃せません。商店やカフェ、病院や住宅まで、レトロモダンな川越をご案内します。 大正浪漫通り 大野屋洋品店 大正浪漫通りと立門前通りの交差点に建つ大野屋洋品店は昭和5年の建設。大正浪漫通りは以前は銀座商店街と呼ばれるアーケード街でしたが、平成7年にアーケードは撤去され、大野屋洋品店の外観もリニューアルしました。石造り風の木造3階建で、ショーウィンドウの上には花束のレリーフをあしらい、3階の屋根は半切妻屋根になっています。 大正浪漫通りの「シマノコーヒー大正館」は、昭和8年築の木造2階建で、もとは呉服店でした。軒下には歯のように並んだ「デンティル」と呼ばれる飾りがあり、2階部分にはドリス式の飾り柱と三連のアーチ窓を配しています。19世紀はじめヨーロッパで流行した新古典主義の影響が見られます。三連アーチ窓やスワッグなどのモチーフは他の洋館風店舗にもよく見られ、異なる建て主・大工たちが同じモチーフを扱った所が面白いです。 大正浪漫通りの伊勢亀本店は 3代続く洋品店で、大正3年築。左隣の「カニヤ」は明治から続く眼鏡店です。通りに並ぶ洋風建築は、ファサードだけを洋風に仕立てた看板建築で、その奥には瓦葺きの日本家屋がつながります。右隣の「小川菊(おがぎく)」は、文化 4年(1807)創業のうなぎの名店として知られ、大正初期に建てられた店舗は川越では珍しい木造 3階建です。明治元年創業の酒店「伊勢源」との間に立ったレンガ壁には、火災の延焼を防ぐ役割があります。大正浪漫通りの入口にあたるT字路に、ドーリア式列柱を並べたギリシャ神殿を思わせる建物が見えます。昭和 2年武州銀行川越支店として建造された川越商工会議所です。設計者の前田健二郎は、武州銀行各支店のほか、高島屋日本橋店、京都市立美術館、銀座資生堂本社などの設計を手がけました。大阪市美術館、早稲田大学大隈記念大講堂、東京都慰霊堂、パリ万国博覧会日本館など数々の建築コンペで一等案をとったことで知られますが、設計者が変えられたり設計案を変更されたり不遇だったそうです。川越商工会議所の向かいには、橋本雅邦など山崎家の日本画コレクションを展示した「山崎美術館」があります。 街灯をともす月を星を雲がかくした暗い道をあなたの家まで Vol.77 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 大正2年に建てられた歯科医院兼住宅で、医院として110年以上の歴史をつないできました。建主は埼玉県歯科医師会会長を務めた目黒虎三郎氏。地元の棟梁印藤順蔵が建設を手掛けました。昭和6年、中野清氏に譲渡され、跡を継ぐはずだった中野克明氏が大学在学中に急逝したため、昭和 50年にいったん歯科医院の歴史を閉じます。平成 14年、孫の中野文夫氏によって最新の歯科医院にリニューアルされたそうです。建物はハーフティンバー様式、屋根は天然スレートで葺かれ、縦長窓は1階が左右開き、2階が上げ下げ窓となっています。 手打そば 百丈(旧湯宮釣具店)川越ホーム(旧オカダ洋服店) 川越市役所近くの「手打そば百丈」(昭和5年築)は、緑青色の銅板に覆われた元つり具店です。2階の窓はギリシャ風の付け柱を添えた重厚なデザインで、3階は半円をあしらったやや小ぶりの窓です。複雑な形状を銅板で張った当時の職人技が感じられます。一番街の「川越ホーム蔵のまちコンサルティングオフィス」は、路地の奥へとつづく五軒長屋です。昭和5年に渡辺家により建てられ、その後、様々な店舗として使われ建築当初の姿を失っていたところ、川越ホームの松ケ角紘一さんが購入し、建築士の守山登さんと共に古い写真や聞き込みによって当時の姿を調べ、セセッション風の長屋を復原し継承されました。 モダン亭 太陽軒 モダン亭 太陽軒は昭和4年築。セセッション風のデザインで、木造2階建の外壁は漆喰塗。窓にはステンドガラスを嵌め、角の入口の上にはギリシャ風円柱を立てています。店は大正11年の創業で、1階のアールデコ調大広間や大正浪漫を感じさせる2階個室など、創建当時の姿をよく残しています。太陽軒となりの「スカラ座」は、明治38年に開業した寄席「一力亭」がルーツです。昭和20年に現在の映画館へ転業。平成19年に休館しましたが、NPO法人プレイグラウンドにより運営が続けられています。川越では珍しいレンガづくりの建物は、大正10年竣工のプロテスタント教会「日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂」です。設計は立教大学の礼拝堂で知られる米国の宣教建築家 ウィリアム・ウィルソン。四角い鐘楼を建てたチューダースタイルで、3つ並んだ礼拝堂正面の縦長窓は、三位一体を表すといわれます。フランス積みされたレンガは深谷の日本煉瓦製造製で、色ムラを組み合わせバランスをとっています。外壁に付随するバットレス(控え壁)が特徴的です。 天井小屋組の梁は中央でクロスした「シザーストラス」になっており、左右にかかる荷重をバットレスで支える構造です。レンガ壁は外壁と内壁が一体で、断熱材も使われていません。 AREAが「DNA Paris Design Awards」 ダブル受賞 インテリア部門 AREA Paris プロダクト部門 sideboard HASHIRAMA / chair A-10 フランス・パリを拠点に開催される国際デザインアワード「DNA Paris Design Awards 2025 」にて、AREAのヨーロッパ旗艦店「AREAParis」が、インテリアデザイン部門の WINNER(最優秀賞)を受賞しました。さらにプロダクトデザイン部門でも「sideboard HASHIRAMA」と「chair A-10」が Honorable Mentions(特別賞)に選出され、インテリアとプロダクトでのダブル受賞となりました。両作品を手掛けたエクゼクティブブランドディレクター・家具デザイナーの野田豪さんは「AREA Parisで表現した日本の精神性や、家具プロダクトに込めた伝統的な美意識と現代的な機能の融合といったコンセプトが、国際的なアワードで理解されとても嬉しく思います。侘び寂びといった日本特有の価値観が、世界のデザインシーンでも共感を生むことを証明できたと感じています」と、パリで開催された授賞式でコメントしました。 BAMBOO EXPO 24 12月11日から2日間開催2025年12月11日(木)12日(金)都立産業貿易センター浜松町館5階展示ホール 24回目を迎える BAMBOO EXPO が、2025年12月11日(木)・12日(金)の2日間、東京都立産業貿易センター浜松町館 5階展示ホールで開催されます。約 60社が参加し、建築・内装・家具材料をはじめ、化粧ボード、水まわり機器、伝統素材、石材、ガラス、CGパース制作、植栽、金属加工技術、ファブリック、照明、建築金物など、建築家やデザイナーを満足させる質の高い展示で定評のあるBAMBOOEXPO。会期中は、各界のプロによる講演も開催され、11日には世界的ホテルの資材調達を担う 紙透大悟さん(クロスリンク代表)や建築家・山.健太郎さんと家具産地・大川の皆さんが登壇。12日には、伝統素材を建築に生かす榊..田倫之さん(新素材研究所)のほか、BAMBOO AWARD受賞者によるトークセッションも行われます。仲町交差点近くに建つ保刈歯科醫院(昭和 11年築)は、かつて山吉百貨店という鉄筋コンクリート造3階建てのデパートでした。当時まだ珍しいエレベーターを備え、イオニア式の円柱やアカンサスのレリーフを掲げる新古典主義の堂々とした姿は、建築家 保岡勝也の設計です。川越の「川越貯蓄銀行本店」、「第八十五国立銀行」、「山崎家別邸」、 「山吉百貨店」を手掛け、保岡の川越四部作といわれています。1階にあしらわれたステンドグラスは、別府ステインド硝子製作所の作品で、近くの山崎家別邸にも同社のステンドグラスが使われています。保岡勝也の代表作である「第八十五国立銀行」(大正 7年)が、りそなコエドテラスとなり活用されています。第八十五国立銀行は埼玉ではじめて設立された銀行で、菓子匠の山崎家をはじめ、繊維・米問屋など川越藩の御用商人たちが中心となり、明治11年に開業(その後の埼玉銀行、現在は埼玉りそな銀行)。創業時の建物は川越大火で消失したため、保岡勝也に設計が託されました。外観は新古典主義風で、八角形の塔には緑青色のドーム屋根を乗せ、窓と窓の間にサラセン縞の控え壁を配し、外壁に凹凸感を与えています。保岡は明治 41年から1年の欧米視察に出かけており、その際の経験が生かされたと思われます。!階は地産地消のセレクトショップやカフェ、2階はイタリアンレストラン、3階はスタートアップを支援するコワーキングスペースに利用されています。 2020年まで埼玉りそな銀行として現用されていましたが、2024年から複合施設「りそなコエドテラス」としてリニューアルオープン。厚いレンガ壁に囲まれた旧金庫室は、ギャラリーに変わりました。構造は鉄骨と鉄筋コンクリートをあわせたSRC造で、外壁の装飾にタイルを貼っています。まだ珍しかった鉄筋コンクリート造を採用できたのは、保岡が丸の内赤煉瓦街計画を主導した経験があったからと思われます。窓に鉄扉を設けるなど、最新の防火対策が施されていました。 ▲ 外壁は1階が吹付モルタル仕上げ(ドイツ壁)、2階は細い横目地の磨き壁です。左手に見えるのは土蔵です。 旧山崎家別邸は、天明 3年(1783)から続く和菓子舗 「龜屋」五代目 山崎嘉七の隠居所として、保岡勝也の設計により大正14年に建てられました。四代目の父は、第八十五国立銀行の設立など川越商工会の近代化に尽くした人物で、五代目嘉七がわずか14歳で家督を継ぎます。明治 26年の川越大火を乗り越え、街の復興にも貢献した五代目は、川越名物となる芋煎餅「初雁焼」を考案し、明治39年、いち早く洋菓子の製造販売を始めています。 玄関ホールを入ってすぐの階段の踊り場には、小川三知の代表作のひとつ「泰山木とブルージェ」が見られます。五代目嘉七と保岡の出会いは、嘉七が懇意にしていた榮太樓本鋪の社長宅を訪れたときでした。保岡の技量にみせられた嘉七は、取締役をつとめていた川越貯蓄銀行や第八十五国立銀行の設計を依頼します。そして自らの隠居所として山崎家別邸を依頼したのです。明治10年東京に生まれた保岡勝也は、明治〜大正へと、大きく変化する建築界を生き抜いた人物でした。東京帝国大学では辰野金吾から建築を学び、卒業すると岩崎久彌が社長を務める三菱に入社し、曽禰達蔵のもとで丸の内赤煉瓦計画に参加すると、わずか 29歳で技師長となり、一丁倫敦と呼ばれた赤煉瓦街の総指揮を任されます。三菱8号館〜 21号館までの設計を行い、特に14号館は日本最初期の鉄筋コンクリート造でした。三菱での将来を嘱望された保岡でしたが、35歳で独立すると銀座に事務所を構え、住宅建築へと舵を切り小・中住宅を設計します。旧山崎家別邸は、洋館と和館を接続した和洋館並列型住宅です。大正になると「和洋折衷」への疑問が建築界で議論され、住宅改良運動など新しい日本人の暮らしが模索されます。洋館部客室の家具は竣工当時からのものです。 洋館部の食堂(6畳)には、黒漆喰壁の準備室(3畳)が接続され、家族は普段、準備室で食事をしたそうです。ステンドグラスは宇野澤辰雄の後継者、別府七郎の作と伝わります。洋館部は主に、私設迎賓館として使われました。川越の名士である山崎家のもとには、軍事訓練の視察に訪れた梨本宮、秩父宮、朝香宮はじめ皇族が宿泊しています。 北側には2個所の水洗トイレ、洗面脱衣所、浴室が配置され廊下の左側には女中部屋があります。天井や出入り口には数寄屋風のつくりを施し、床には竹むしろが敷かれています。畳廊下の庭側部分を板敷きにして、鉢植えなどを置けるよう工夫されています。 和館部は洋館部に比べ広々したつくりで、南面した明るい広縁にそって客間、居間、サンルームが並んでいます。保岡勝也は三菱時代から伝統的な数寄屋や茶室を独学で学び、清澄庭園(旧岩崎家深川別邸)の「涼亭」も手掛けました。数寄屋の要素が盛り込まれた客間(9畳)は、柱や鴨居に吉野の杉丸太をそのまま使い、建具の方をすり合わせるなど凝ったつくりです。また珍竹を多用し、欄間には太く曲がった竹、竿縁には四角い竹と使い分けています。▼ 北側に設けられた児童室。孫が遊びに来たときの部屋です。 家族のための居間(8畳)には洞床の左側に扉のついた神棚を据え、炉を切った茶室のような設えです。独立した保岡は大正4年『理想の住宅』をはじめ住宅論やプラン集などを出版し、一般にも広く読まれました。住宅は大工が建てることが普通でしたが、建築家も中小規模の住宅を手掛けるようになり、保岡は建主の好みや生活環境に応じたプランを提案するため、分かりやすく彩色したパースやプラン図を描き、現代の住宅設計に通じるプロセスを確立させました。 サンルーム(4畳半)は板張りの部屋で、ガラス戸を外すと半屋外的な空間としても使えました。 やがて保岡は自邸に茶室を建て、茶道と茶庭の研究に没頭します。旧山崎家別邸では庭の設計も手掛け、大正 13年開校の東京高等造園学校(東京農大の前身)講師として、茶室と茶庭の講義も行いました。昭和 2年には講義の内容をもとに『茶室と茶庭』、昭和3年『茶室と露路』、昭和 5年『数奇屋建築』を出版しています。『茶室と茶庭』は茶道史に始まり、歴史的茶室を写真と図面で紹介し、茶道の流れにそった茶室・茶庭設計の重要性を説きました。 茶室は、京都仁和寺遼廊亭「我前庵」の写しと考えられています。我前庵は織田有楽斎による「如庵」の写しなので、この三室はよく似た作りです。保岡は特に母屋と茶室の関係性を重視し「亭主の使い勝手を反映しながら、景観をいかに構成するか大切」と言っています。母屋の2階にはベッドの寝室、書斎、写真の暗室などがあります。 ▲『茶室と茶庭』から遼廊亭「我前庵」を紹介したページ。 ▼ 保岡の作例をまとめた『日本化したる西洋小住宅』から。 土庇や袖壁の窓は遼廊亭に似て、席中の畳の敷き方は床框に平行で如庵に似ています。向こう切りの炉の中柱は独特です。保岡勝也と同世代の建築家には伝統建築を見直し、欧米とは異なる日本人なりの暮らしを模索する機運が高まっていました。保岡もその潮流の中にあり、大資本に安住せず生活者と共に歩んだ建築家の一人といえるでしょう。 柱と継ぎ手 . 日本の自然と伝統を受け継ぐ象徴 2025年10月31日〜 11月23日 Time & Style Atmosphere (東京・南青山) 長さ4m、42cm角の巨大な角柱が並ぶ展示会場は、東京・南青山 根津美術館そば Time & Style Atmosphereです。11月23日まで開催中の「柱と継ぎ手 . 日本の自然と伝統を受け継ぐ象徴」は、福島の製材所とTime& Styleのコラボレーションによって実現しました。角柱には「台持ち継ぎ」、「鎌継ぎ」、、 「尻挟継ぎ」「婆娑羅継ぎ」など伝統的な継手が刻まれ、寸分の狂いもなく連結されています。42cm角の角材はベンチとして利用でき、継ぎ手によって二分割することで建物に搬入しやすくなるメリットもあります。福島の製材所では真空乾燥方式を採用し、低温乾燥により木の風合いを保ちながら含水率を 20%まで下げることが可能ですスギやケヤキの角材(42センチ角)は、直径70〜100センチほどの大径木から製材されます。近年では、大径木を扱える製材工場が減っており、せっかくの大木がパルプやバイオチップとして処理されることが増えています。この展覧会は、百年以上前に先人たちが植え、後世の人々が大切に育てた大径木を正しく活用し、その価値を現代に生かすことを目的に企画されました。樹齢 100年近い圧倒的な存在感を放つ木々に触れると、先人たちが遺したこの財産を活かすことは、この国に生まれたものの責務かもしれないと感じました。本町の長屋は「札の辻」交差点から本町通りを市役所方面に約 60m進んだ場所にある、四軒長屋の一軒です。 いお 江良潤「天の魚」公演会 @ 川越「本町の長屋」 秋の恒例となった俳優・江良潤さんによる「天の魚いお」公演会。今年は狛江エコルマホール、神奈川・藤野倶楽部、東村山の図書喫茶カンタカを巡回し、初の川越公演が実現しました。会場は NPO法人川越蔵の会事務局「本町の長屋」です。 今回の公演は、会場選びを手伝った平山友子さんが、本町の長屋オーナーで初期からの「蔵の会」メンバーである荒牧澄多さんに江良さんを紹介したことがきっかけでした。 川越では1980年代から地元商店街の有志や建築家、まちづくりの専門家、市役所職員など幅広い人たちが集まり、一番街商店街周辺の活性化や蔵の町並み保全をテーマに勉強会を重ね、「蔵の会」が結成されたそうです。現在はNPO法人川越蔵の会として、「本町の長屋」で毎月定例会を開き、まちづくりの助言や伝統的建造物の調査・保全・清掃、街を活性化させるイベントやシンポジウムの開催など、40年以上にわたり多様な活動を続けていらっしゃいます。 「本町の長屋」は川越大火(明治 26年)ののち、明治 30年前後に建て直され、元々はお茶を扱う店だったそうです。俳優・江良潤さんは 40年以上上演が続けられてきた一人芝居「天の魚」を引き継ぎ、全国公演に取り組んでいます。原作は、小説家・石牟礼道子さんが水俣病を全国に伝えた『苦海浄土』。主人公の江津野老は、水俣病に苦しむ息子や孫を抱え、自らも病に侵されながらも生活のため漁に出ます。その家を訪れた女性(石牟さん)に向かい、海の恵みを受けてきた生涯を語るのです。古い町家のつくりを残す「本町の長屋」が、江津野老の家そのもののように感じられました。公演が終わるとすぐに椅子や舞台を片づけ、建具を元に戻して打ち上げの準備をしました。建具によって部屋の広さを変えられる、町家の優れた構造がよく分かりました。 水俣病は過去の出来事ではなく、現在も認定や補償を巡る訴訟が続き、70年を経た今でも新しく病を発症する方がいます。世界に目を向ければ、工場や鉱山からの廃液により海や川や土地が汚染され、生活の糧を奪われ健康を害する住民はいまだ後を絶ちません。江良潤さんは「天の魚」の公演が、こうした課題を知り、考えるきっかけになってほしいと語ります。 まずは写真を御覧ください。「星の王子様」です。その昔イスタンブールに旅した時、町工場がある地域の安宿に泊まった。職住混在の職人町という感じで、小学校高学年から中学生くらいの男の子たちが、大人に混じって平日の昼から働いている姿をあちこちで目にした。トルコじゃ子供が働いていると驚いたが、我が国だって戦前は、それほど珍しいことじゃなかったはずだ。ある日宿の近くで、まるで星の王子さまのような格好をした可愛い男の子の姿を目にした。歳の頃なら7〜8歳くらい。たぶん、イスタンブールの一流ホテルが立ち並ぶような街ではなく、町工場が並ぶ下町だったから出会うことができた幸運だったのだと思う。父親に手を引かれ、子供はちょっと照れくさそうな顔をして歩いていた。父親もまたよそ行きの格好で、うれししそうだった。その姿を見て、これは学芸会の帰りに違いない、と思った。今日はこの子が主役で王子様の役だったのだろうと。 ところが、である。その数日後、また別の星の王子様に出会うことになった。さすがに疑問に思った。今は学芸会のシーズンで、どこでも同じ演目なのかと。で、宿に戻って聞いてみた。宿のフロントが微笑みながら教えてくれた「あれは学芸会なんかじゃありません。トルコの男の子にとっては、一生に一度のとても大切な儀式の一環です」。その詳しい説明を聞いて驚いた。それこそ腰が抜けるほどビックリした。そして正直、日本男児に生まれて良かったと思った。 父親に手を引かれて道を行く星の王子様は、「これでいっぱしの男になる準備が完了したぞ」と世間にお披露目をしていたのだ。では、一体何のお披露目なのか。男児の割礼(S.nnet)手術が完了したことのお披露目なのだ。「割礼手術」とは何か。ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞ辞書を引くなりネットで調べるなりして下さい。男性の大事なところに行う外科的な手術を意味します。イスラーム教徒の男子であれば、世界的にほぼ例外無く経験する手術で、彼らにとっては人生の重要な通過儀礼ということになる。 なぜその手術を完了することが「いっぱしの男になる準備が完了した」ことになるのか。それは、その外科的な手術の痛みを我慢して乗り越えることで「男として育つ最初の関門を乗り越えた」と捉えられてきたからだという。男なら誰にとっても、人生で一度の大切な経験だ。だから、その手術を乗り越えたあとは、これを祝う宴スネッドューヌ( S.nnet D...n.)が開かれる。男児割礼手術の実施は、広くイスラーム世界に共通して行われている。が、それをどのような形で祝うかについては、国や地域でかなり異なる。世界で最もイスラーム教徒を多く抱えるインドネシアの場合、その祝宴はホテルやレストランで派手に行われる。一方、インドネシアに次ぐイスラーム圏の大国エジプトでは、むしろ家庭で祝うのが一般的だという。 では、イスタンブール(トルコ)の場合はどうか。これはもう、伝統的に各家庭の財力のゆるす限りで派手に祝う。世紀初期のイスタンブール、オスマントルコ帝国のスルタンの宮廷では、王子の割礼を記念する祝宴が、3週間近くに渡って盛大に祝われたというから凄い。ここまでくると、王子のお祝いというより 18 もむしろ、その父親であるスルタンと、その家門の権勢の興隆と永続性を誇る一大行事となっていたと解釈される、というのが昨今の歴史学者の間での通説だ。では、現代の星の王子様の場合は、どうか。私が出会った「星の王子様」のような衣装は、実は、オスマントルコ帝国のスルタンの王子の衣装を模したものなのだ。 「いつかは王子様に」というよりも、「いつかはスルタンのように偉くなれ」とい う願いが込められているわけで、伝統の 根幹は、いささかの揺るぎもない。 例えば、中流家庭なら親族を筆頭に、両親の友人知人、近隣の親しい家族、会社の同僚や部下まで招いて、百人くらいのパーティーは当たり前とのこと。これが企業のオーナーや大会社の上層部、有力政治家や社会的な著名人一家ともなれば、男児の割礼記念の祝宴(スネッドューヌ)への招待客が千人を超える規模になることも珍しくないという。招待客が千人! この祝宴にかける費用は、各家庭の財力に応じてピンキリで、その金のかけ具合と招待客の数が、その家の力を計る目安となっているという。要するに、確かに男児が主人公の祝宴であることは間違いないが、その実質は、将来の継承者たる男児一家の財力・社会的な地位・その永続性を世間的に訴える重要な場となっているのだ。一方、宴席への参加者は、贈り物(祝い金)としてリボンを掛けた金貨を持参するのが通例だという。この割礼記念の祝宴は、別名「男児の結婚式」とも呼ばれている。子女の結婚披露宴と割礼記念祝宴は、トルコ人の家庭にとって最も重要な行事なのだ。これすなわち、トルコ人の社会では、「一家・一族・門閥」が現代の日本よりもはるかに社会的に重要度が高い、ということの反映なのではないだろうか。 かつて、サウジアラビアの外交官と知り合い、奥様とも言葉を交わすようになった。その夫人が私の妻に対して、初対面の挨拶の後、初めて妻に話しかけてきた言葉が忘れられない。「奥様はどちらのご出身でいらっしゃるの?」。「横浜です」と妻が答えたら、夫人は「ああ、奥様は横浜のほうのご一族のご出身なのね」と納得した様子だった。初対面の相手に最初の会話で「その出身地を尋ねる」とい うのは、我が国では特別な場合を除いて考えられない。なので、そのときはちょっと驚いた。だが、すぐにピンときた。サウジアラビアでは、相手の生まれた土地を聞くことが、「どこの一族なのか」という手がかりを知ることにつながる重要な意味を持つらしいと。初対面の相手に対しては、まずは相手が属する「族」を知ること。それが重要なのだ。たぶん、トルコ同様サウジアラビアにおいても「一家・一族・門閥」という絆が、我が国よりもはるかに重要なのだと思う。 割礼記念の祝宴(スネッドューヌ)が開かれる会場は、結婚披露宴が開かれる会場でもある。そのため、会場となるホテルや大レストランなどの施設では、割礼記念の祝宴を開いてもらうために各社様々な工夫をこらして、客寄せに余念がない。室内のホールだけではなく、イスタンブールの市街と海を見下ろす丘の斜面に作られた会場や、木々に囲まれて木漏れ日の美しい公園のような会場もある。そこで開かれる祝宴の演出も各会場で競い合っている。オスマントルコ帝国の果敢なるイェニチェリ軍団の兵士の姿をした男たち数人に、その荘重な調べで知られる行進曲を演奏する楽隊が付き従い、場合によっては、主人公たる男児が星の王子様の姿でポニーに乗馬して引かれて登場するという演出まで行われている。バブル時代日本の結婚式みたいだ。 では、この祝宴では、どのような料理が出されるのか。 まず主客たる星の王子様の前には、超豪華なお子様ラン チのようなものが用意される。対して招待客には、結婚 披露宴の時とほぼ同様の料理が準備される。その代表的 な例をご紹介してみよう。赤レンティル豆のスープ、牛 肉と豆のシチュー、凝ったピラフ、セモリナ・ハルヴァ(デザート)。ざっとこんな感じだ。いずれも手間がかか るものばかりだ。特にデザートのハルヴァなど、その作 り方を見ると、ものすごく手間がかかる。 今はホテルやレストランで料理が出てくる。だが、かつては各家庭で料理とデザートを準備して、家にお客を招いて祝っていた。その料理作りには親族や近所の女性たちが手伝いながら、皆で料理を準備した。絆が生まれる原点だった。それが今は、すべて金を支払うことで外部(宴会場)にアウトソーシングされ、かつて手伝った招待客は、手伝いの代わりに祝い金を持参する。我が国と全く同じ流れだ。確かに絆は途切れてはいない。でも、何かが大きく違ってしまった、とトルコの年配者も感じているようだ。手づくりの料理だからいいのではない。皆で協力して作り準備することに意味があったのだ。伝統的な祝宴料理に秘められた重要な要素だ。だいいち金で絆は買えない。昔から言うではないか、金の切れ目が……。 思い思いにオリーブを収穫し、2時間で 100kgほどのオリーブが集まりました。瑞々しい青色の実です。 ▼ オリーブの新漬けを作るため、今年からステンレスの大型タンクが採用されました。 ▲ 収穫のあとは、お楽しみの昼食会。 オリーブの搾油 2025年10月 26日 待望のオリーブの搾油が、今年から真鶴オリーブ園で始まりました。 高い場所のオリーブは、クマデを使って収穫します。2025年10月 26日、オイル搾油用のオリーブ収穫のため、沢山の方が集まりました。10月1日の収穫祭に比べてオリーブの成熟が進み、色も黒みをおびてオイルの含有率も上がっています。午前・午後をあわせて 180kgほどを収穫しました。収穫した実はすぐにオリーブ搾油小屋へ運びます。▲ 牛山喜晴園主はこの秋、70歳を迎えました。 ▲ 新漬は粒が大きくなり、年々美味しさを増しています。 ▲ 新登場の「タプナード」(南仏の万能オリーブペースト)。 ▲ 作業の前に搾油機の紹介をしました。 搾油小屋に設置されたイタリア製オリーブ専用搾油機「Oliomio80」。1時間あたり70〜80kgのオリーブを搾油する能力をもっています。オリーブの実は収穫するとすぐに酸化が始まるため、時間をおかずに搾油することが理想といわれます。それを実現するため牛山喜晴園主は、搾油小屋の建設と搾油機の導入に踏み切ったそうです。フレッシュなヴァージンオリーブオイルは、果実のジュースともいえます。加熱などは行わないため。衛生管理には気を使います。搾油の大まかな流れは、実の洗浄 → 粉砕 → 撹拌 → 遠心分離です。 収穫したオリーブを「ホッパー」に投入します。 取りきれなかった葉っぱや茎を取り除きます。 ホッパーの下の水槽で、オリーブの実が洗浄されます。 撹拌機は「マラキサー」と呼ばれ、回転する刃でオリーブのペーストを練り込んでいきます。オリーブの細胞から遊離した小さな油滴が結合し、大きな油滴になります。回転の速さ、回転時間、温度管理などでオイルの品質や風味、味が大きく変わります。 洗浄された実が、粉砕機に自動的に投入されます。 あらかじめ遠心分離機(デカンタ)の調整をしておきます。 デカンタが高速で回転し、ペーストを水分と油分、残渣に分離し、 オイルを抽出した残渣(カス)は別に排出されます。マラキサーからデカンタへオリーブペーストが送られます。 分離したオリーブオイルが出てきます。 市販のオイルはこの残渣から再搾油する場合もあります。 180kgのオリーブから、約9リットルのオイルが抽出できました。時間をかけて不純物を沈殿させ上澄みのヴァージンオイルだけを無濾過で使うことで、最上級のオリーブオイルを目指しています。 ドラゴンシリーズ 133 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) ジャズと僕 小学校の年生くらいだったと思う。『マイルス・デイビス』のトランペットがラジオから流れてくる。それがマイルスだったかどうかも定かではない。曖昧な自分の記憶に残るトランペットは、マイルスの音色『 Kind of Blue』だったのではないだろうか。今でも確信はないものの、小さな頃にラジオから流れてきたマイルスの泣くような音色。その記憶が小さな僕の頭の 4 深い場所に、その頃から今でもずっと同じ場所に静かに居座っている。小さな頃に記憶の奥深くに佇む音の残像は、僕らの全ての人生に何かしらの強い影響を及ぼしているのだ。 それから随分と時間が経った中学年生の頃、ラジオから流れてきたメランコリー漂う静かなファンファーレのようなトランペットの柔らかな音色。どこか遠い国のモノクロな都会のノ 3 スタルジーを感じさせるような美しく切ない音色。もう中学年生だった僕は、その音色をその場で記憶しようとした。誰が演奏している何という曲なのかも分からなかったが、僕は何という曲で、何というミュージシャンがその曲を吹いているのかを知りたくて、近所のレコード 3屋さんに行き、トランペット奏者のレコードを必死で探した。しかし、そのレコード屋さんでは手掛かりさえも見つけることができなかった。 毎日のようにラジオで流れる様々な音楽を聴きながら、ついに再びその曲がラジオ番組で流れるチャンスに出会うことができた。必死にラジオのナビゲーターの曲紹介で『ライズ』という曲名と『ハーブ・アルパート』という演奏者の名前を記憶し、その記憶を元にして自分でレコード屋さんに行き、トランペットのレコードをワクワクした気持ちで探した。しかし田舎のレコード店では取り扱っていなかった。それから店主が取り寄せてくれて、僕は何かに勝利したような気分で嬉しくて、家に帰るとすぐにレコードをプレイヤーに乗せ、回転するターンテーブルの上に自分で針を置いて、何度も何度も繰り返して聴いた。僕はハーブ・アルパートのライズが吹きたくて、クラスの吹奏楽部の男の子が持っている YA M A H Aの金色のトランペットを数日間だけ無理やり借りた。しかし、マウスピースに口を付けて思いっきり息を吹きかけても、スースーと息が抜けていくだけで全く音色と言える類の音を出すことができなかった。それで僕はトランペット奏者の夢を一瞬で諦めることができた。それから色んな楽器に挑 20 戦したが無駄な試みだったようだ。 僕が歳で日本からドイツに移り住み、それからドイツ文化研修生としての1年間と、その後風来坊の時間を経て、歳か歳の頃、シュバルツバルトからフランクフルトに職を探しにやってきた。当初はユースホステルに泊まりながら、ボロボロの上下の皺くちゃのスーツを着てフランクフルトで仕事を探した。その時に「トランスヨーロッパ」という日本人の写真家が経営する会社を見つけて、アルバイトとして雇ってもらった。年代後半のフランクフルトはハイデルベルクやロマンチック街道などの起点となり、多くの 21 日本人旅行者の大型ツアーがひっきりなしだった。 22 僕は空港から市内までの送迎やフランクフルト市内の観光ガイドのアルバイトをしながら、何とか生きていくことができた。そんな中で時々、フラン 80 クフルトからハイデルベルクを経由してローテンブルク、アウグスブルク、ミュンヘン、そしてフュッセンなどのロマンチック街道を経由して、スイスのバーゼル、チューリッヒ、グリンデルワルド、そしてローザンヌからジュネーブまでの道のりを 4〜5日間程度の旅程で案内するツアーガイドをするようになった。当時は体力があり気立ての良い若い男性の現地ツアーガイドは何かと役に立つということもあって、日本のヤクザのグループが夜のクラブのお姉さん達を連れてくるツアーとか、バブルで儲けた下世話な不動産会社の社長達が妾のお姉さん達を連れてくるツアーとか、本当にどうしようもないツアーや、政府、地方自治体の代議士、議員達の視察ツアーなど、どんな相手でも対応可能なタフで愛想の良い若者のツアーガイドとして活躍した。 その虚しいツアーで体力を使い果たし、日本からの旅行者をジュネーブからパリへ向かう新幹線 T G Vに送り込んだら、夕食を食べて、ジュネーブから空っぽになった大型の貸切観光バスに運転手と僕の 2人だけで 8時間くらいかけてフランクフルトに車を走らせる。バスの一番前の運転席よりも高いシートに座り、真っ暗な中に対向車のヘッドライトが流れる景色と、ラジオから流れてくる音楽とナレーションを聴きながら、景色と音楽が一体となった空間の中で色々なことを考えた。 そして時々、 J a z zの音色が真っ暗な中を流れるヘッドライトや交差す J a z 30 20 いジャズボーカルとトランペットの演奏が行われるベルリンのライブハウス『Quasimodo』に安志と謙哉くんと三人で行った。暗いライブハウスのステー ジに、生意気な空気を纏い仁王立ちし、客席には目を向けずにうつむいたま まトランペットを吹く男。そして顔を上げると、目を瞑ったままで若々しい けれど低音のボイスで絞り出すように歌うその男の音楽は、僕らの代から 代の時代を写すシンボル的な存在となった。 あのライブハウス Quasimodoでの Vince Jonesのトランペットとジャズボ ーカルは、今でも忘れられない。 Vince Jonesの音楽は、僕の 20代の若い乾い た空気とジャズとタバコとお酒の真っ暗なライブハウスの空間、そしてその 変化する時代の空気を思い起こさせる。 年に東京に戻り、ドイツで聴いていた音楽に加え、お店で開催するようになったジャズライブで素晴らしいジャズミュージシャンと出会うことになった。お店には大きな空間があって、そして床や壁、天井、柱などの素材に z に飢えていた僕らはナケナシの るアウトバーンの景色と一つとなった、ライブ演奏のような空間を幾度か体験した。僕はそんな時間の中でいくつもの素敵な音楽と出会った。ビル・エヴァンス、キース・ジャレット、チック・コリア、パット・メセニー、オスカー・ 26 ピーターソン、アーマッド・ジャマル、ゲイリー・バートン、ジム・ホール、ジョン・コルトレーン、ジョン・マクラフリン、セロニアス・モンク、チェット・ベイカー。ジャズだけではない。ジェームス・テイラー、スティーリー・ダン、ジョージ・ベンソン、エリック・サティ、グレン・グールドやマルタ・アルゲリッチもその頃初めて聞いた音楽だった。アウトバーンの真っ直ぐに真っ暗に続いて行く高速道路の景色と、その時に聞いた音楽は一体となって僕の中に染み込んでいる。その曲が流れると、景色はその時へと一変する。 それから歳でフランクフルトからベルリンに移り住んで今の会社を設立して、しばらくして弟の安志と友人の謙哉くんとのサバイバルな日々が始まっている頃、設立した会社と住居が一緒になったアパートの階で僕らは仕事がなくてオロオロとしていた。ラジオから流れてくる音楽を聴きながら日々 1 を過ごしていると、またもやラジオからトランペットの唸るような音が流れ、チェット・ベイカーよりももっと低音の渋いボーカルの歌声が聴こえてきた。 仕事もなくて苦しい出口のない毎日の中で僕らの残高は底をついていたが、食事よりもタバコよりも音楽に、 50 マルクを握って、その低音の渋 加えて、柔らかなソファーやラウンジチェア、テーブル、椅子などが存在するが、何だか空虚感が漂っている。そこに人間が存在して初めて空間全体が成立するように感じるものだが、しかしそれだけでは何か大切なものが欠如 25 している。それが音楽なのだと思い始め、年にオープンしたそのオープニ 97 ングの初日からギタートリオを入れたライブを無意味に敢行した。多分、ス az 98Style Style Time & Home Time & Existence タッフもその時オープニングに参加してくれた人々もジャズライブの意味が 理解できなかったようで、ギタートリオの演奏を聴いている人はほとんど存在しなかった。 H 25 o それから友人となり、そして仕事を共にする仲間となったブラジル人のマ a ルコがタブロイドサイズのジャズ雑誌を持ってやってきた。自分が取材して 97 写真も撮って、編集もして、印刷もするジャズの専門誌を、友人のマルコが自分で作ってしまったのだ。そのジャズマガジン『 JA ZZNIN』のミュージシャンへのインタビューの手伝いをすることがきっかけとなり、ジャズマガジンの編集者としてデビューした。同時にお店で始めていたジャズライブのミュージシャンをマルコと一緒に決めたり、ライブの計画から準備までを共にすることとなる。 これが年以上続いている Time & Styleでのジャズライブ「Jazz at Home」なのである。これは元々は、年頃から自由が丘にあったお店の Time & Style Homeで行っていたライブということもあって、自宅( m e)でジャズを聴くように楽しめるライブという意味を込めて命名した。 マルコと僕の間では Time & Style で25年以上継続してきた Jazz at Homeは僕らが Jzとインテリア空間で生み出した「最高に素敵な発明』だと思っている。 その中でも 2 0 0 0年ごろから年以上ライブを継続しているのが、僕の最も敬愛する音楽家の K e i A k gi(ケイ赤城)率いる『 Kei Akagi Trio』だ。毎年クリスマスの時期には必ず、ケイさんの音楽、 Kei Akagi Trioのライブをの時代から、そして今年も Time & Style Midtownで開催する。そのたびに僕はこれまでの偉大な音楽家達の素晴らしさに触れて、自分のちっぽけな存在を再確認させていただく。そこには壮大な時空が流れるのだ。今年も 12月25日、 Kei Akagi Trioの音楽でこれまでの時間の意味を味わい、そしてこれからの希望と夢と目標を見つめることができる。 10月 30日〜 11月 9日まで東京ビッグサイトでジャパンモビリティショー(計 49回目)が開催され101万人が訪れました。2035年の未来をうたった 「Tokyo Future Tour 2035」に設けられたステージには、TechShare の小型ヒューマノイドロボットUnitree G1、4足歩行ロボットUnitree Go2 、VISIONOIDのアニマノイド FOXが登場。コミュニケーションクリエイターの EYE VDJMASA(武藤将胤氏)がゲスト出演し、脳波でアームロボットを作動させ、視線で音と映像を奏でる未来の舞台を繰り広げました。実用化目前の「SKYDRIVE」は、空飛ぶクルマと鉄道の連携を提案。近鉄とコラボした伊勢志摩遊覧ルート、 OsakaMetroとの大阪市内4カ所(梅田、森ノ宮、天王寺、大阪港)をつなぐダイヤモンドルート、JR東日本との盛岡と小岩井をつなぐ遊覧ルート、JR九州との大分空港、別府、湯布院などをつなぐルートが紹介されました。陸空両用電気自動車を展示したのは、徳島大学発のベンチャー企業 TSUNAGIの山中健二さん。徳島大学高等教育研究センターの助教をつとめながら、空飛ぶ車の研究開発を進めています。企業の規模や資金力にとらわれず、大きな夢を実現する気持ちの大切さを伝えていきたいそうです。商船三井が進める「ウインドハンタープロジェクト」は、風の力で水素をつくる船の開発計画です。航行しながら水中のプロペラを回転させて発電し、安定した水素キャリアであるメチルシクロヘキサン(MCH)を生成します。こうした仕組みにより、離島周辺の海で水素を生み出し、クリーンエネルギーとして島へ供給するなど、多様な展開が期待されています。モビリティショーにあわせ、東京湾でヨット「ウィンズ丸」を用いた実証実験が行われました。トヨタ自動車が進める「マザーシッププロジェクト」は、凧の力を利用した新エネルギーの開発計画です。凧につながったワイヤーを上下させることで発電機を動かし、電力を生み出します。グループ長の板倉英二さんは「将来は高度 1万 m上に全長 100mの巨大凧をあげ、偏西風の膨大なエネルギーを活用したい」と語りました。日本上空には安定した偏西風が吹き、どこからでも10km圏内で利用可能なエコエネルギー源になると期待されています。 自動車部品メーカーのフタバ産業は、技 術力を応用した農業向け機器を紹介。 「レーザー除草ロボット」は畑のウネを自動走行し野菜の芽と雑草を判別すると、雑草だけにレーザーを照射させて枯らします。また「ハウス栽培用 CO2貯留・供給装置」は、温室の暖房で発生する排ガスからクリーンな二酸化炭素を抽出したのち、温室内に戻すことで生育を促進させます。フォークリフトなど産業用機器で知られる豊田自動織機は、人協調運搬ロボットコンセプトモデル「LEAN」を発表。2輪で走行するため狭い場所でも小回りがきき、人にぶつかっても力を受け流すことで衝撃が緩和され安全に運用できるそうです。工場の生産ラインで部品を運んだり、人と並んで荷物を運ぶなど、様々なシーンで活躍してくれそうです。 マツダの展示で注目されたのは、コンセプトカー「MAZDA VISION X-COUPE」に搭載された CO 2回収技術「マツダ モバイル カーボンキャプチャー」でした。これは車のマフラーから排出する CO 2をゼオライトに吸着させて左右のタンクに貯める仕組みで、タンクから純度の高い CO 2が得られます。これを油を生成する植物プランクトン(ナンノクロロプシスなど)に与えることで、自動車の燃料にも使えるオイルを生み出せるのです。「車が走るほど CO2を減らせる社会を目指します」とマツダ技術研究所所長の山本寿英さんはいいます。 ROIDZTECHは、プラットフォーム型モビリティ「Raptor」の新デザインユニットを公開。同社は杉原行里さん(RDS代表)と、古田貴之さん(千葉工業大学未来ロボット技術研究センター fuRo所長 )が創業したスタートアップ企業で、高度なものづくりと AI、ロボティクス技術を融合したモビリティやロボットを開発しています。 「Raptor」は三輪のベースユニットと上部のデザインユニットをワンアクションで分離・交換出来ることが特徴です。上部ユニットを付け替え、荷物を運んだり、乗り心地の違うユニットに変えたりが簡単にできます。ベースユニットの共通化によって、デザインの異なる機種をローコストで開発することも可能にしました。 トヨタグループの入口には、同社の原点を示す歴史的な織機や車両が展示されました。無停止杼換式豊田自動織機 G型 (1924年)、トヨダ G1型トラック(1935年)、トヨダAA型乗用車(1936年)で、名古屋のトヨタ産業技術記念館から運ばれたものです。またトヨタグループではレクサス、ダイハツに加え、新たに「センチュリーブランド」が誕生しています。子供だって自由に移動したい! 一人の時間もほしい!という願いを叶える「未来な相棒」として開発中の Kidsmobi。子供を見守りながら話し相手となり、自動運転で登下校を安全にサポートする。あわせて一人になる時間を作る。動く秘密基地のような役割が期待されています。 トヨタ自動車のブースで異彩を放っていた「IMVオリジン」。これはアフリカなどに向け、安全な輸送手段を提供するため開発されました。太田博文さんたち開発チームはアフリカを訪れ、バイクに大きな荷物を積んで長距離を走ったり、古い車を切ったり溶接したりする修理工場を見て、現地に必要なのは用途に応じた改造のベース車両と考えたそう。改造や修理が簡単で、荒れた路面を走破し、低価格であること。この要件を形にしたのが、あえて「完成させない車」でした。 LEXUS LS MICRO CONCEPT(一人乗り自動運転車) 「One of One この世界にひとつを、この国から。」をテーマに、センチュリーがブランドとして独立しました。センチュリークーペの助手席ドアは変則観音開きで、助手席はロングスライドのフルリクライニング。オーナーが運転手と並んで助手席に座り、その間を布で仕切ったレイアウトになっています。レクサスはLEXUS LS MICRO CONCEPTを公開。1人乗りのラグジュアリーな自動運転車で、着飾った女性が自邸からパーティ会場に乗り付けるシーンをイメージしています。 日産は電気自動車を活用した「Vehicle toHome(V2H)」を提案。従来は、住宅でした電力を電力会社に売電するケースが一般的でしたが、買取価格の低下に伴い自宅で直接利用する家庭が増えています。電気自動車があれば昼間に発電した電力を車に蓄え、夜間に使用することも可能。近年は温暖化でクーラーを一日中稼働させることも多く、電気自動車の利便性がさらに高まっているといいます。 スズキのブースでは、スタートアップ企業「Glydways」が提案する次世代オンデマンド都市交通システムが紹介されました。都市の中に専用レーンを設け、小型の電動ワゴンを隊列自動運転させることで、希望の場所にスムーズに移動できる交通システムです。スズキはこの計画に参画し、車両の開発や生産を担うそうです。 11月27日から約 2か月間、横浜のみなとみらい、 桜木町、関内などで日産の自動運転車を活用したモ ビリティサービスの実証実験が行われます。参加者 は専用アプリで自動車を呼び、自動運転で目的地ま で移動する仕組みで、約 300名が参加します。 日産は福島県浪江町と町づくりの協定を結んでおり、 地域支援の一環として、オンデマンド配車サービスの実証実験「なみえスマートモビリティ」や、イオンなどの店舗をリアルタイムで見ながら買い物できる「なみえバーチャル商店街サービス」、子ども向け送 迎サービス「スマモビきっず」などを展開しています。 子どもたちへの継承 自動車整備人材確保・育成推進協議会は「チャレンジ!未来の自動車整備士!」と銘打ち、エンジンの分解・組立体験や自動車整備体験コーナーを設置。各社からベテラン整備士が集まり、本格的な整備体験が行われました。 子どもたちに向けた車づくり体験が人気です。Out of KidZania in Japan Mobility Show 2025には今年も大手自動車メーカーが参加し、マツダのブースでは砂型を作り鋳造したモデルを塗装する本格的なワークショップがひらかれました。日本カーモデラー協会も、実物のクレイモデルを置きクレイモデラーの仕事体験を提供。イベントのため仕事の合間をぬって段取りを考えたり、シミュレーションしたり、子どもたちに仕事の楽しさをどう伝えるか工夫を重ねたそうです。 月で 89 老いを語るにはいささか早いが、いずれ行く先、学んでおいても損はない。ボランティア仲間がひょんなことから俳優の山本學さんと知り合い、認知症ケア講座で講演をされると聞 き、すぐに申し込んだ。山本學さんは3年前に軽度認知症の診断を受け、現在 歳)。以前テレビで、他の参加者と一緒に体操をしたり ウォーキングをする姿を見たことがある。高齢化社会、 5人に1人は認知症になるとさかんに報道もされていた時期である。後期高齢者になった途端にさまざまなケア通知が届くようになり、手厚い案内はありがたいと思う反面、先細りの中に押し込められていくようで、なんとなく不安にもなっていく。3つに1つは物忘れし、あれ?と思うことも多くなる。連続しての外出もしんどくなる。友人から送られる年寄り川柳は、共感する句がいくつもあり、スマホ相手に爆笑、みんな同じと思いながら複雑な気持ちにもなる。 1年前、友人が軽い認知症になったと聞き、驚き戸惑いながらも会いに行った。昔と変わらぬ笑顔にホッとしたが、彼女のために何かできることはあるだろうか、認知症の知識のないまま、何回か会って話をしたり、食事をして買い物もした。以前使っていた3年手帳が欲しいと彼女が言い、銀座まで一緒に探しに行ったこともある。その手帳に予定を書き込まれることはなく1年が過ぎた。自分でできるやり方で接してきたが、確実に身体の機能はお互い衰えている。 荷物を持つことも、スーパーの買い物も、 ともままならなくなった。エスカレーターに乗る彼女を後ろから支えきれなくなった時、初めて素人の恐ろしさを知った。これから彼女とどう関わっていけるか、何ができるだろうかとずっと考えていた。 そんな時の講演だった。山本學さんが認知症や老いをどう受け止め、日々の暮らしをどうしているのか、直にその話を聴けるとは思ってもいなかったが、ボランティア仲間が一役買ったことで、思いがけない機会を得ることができた。 88 歳(来 分一緒に歩くこ 30 講演はとても面白かった。話し上手ということもあるが、まるで舞台の一人芝居を観ているように、前のめりになる1時間半だった。どこが認知症?と思うほど、幼少期の頃のエピソードや兄弟のこと、そして大河ドラマ平家物語で共演した、滝沢修、仲代達也、八千草薫、当時の出会いをかざらず臨場感たっぷりと、役者の顔もドラマの場面も浮かんでくるようだった。 ピンマイクをつけての講演だったが、時折役者になって床に響くような声も出す。大谷翔平を絶賛しながら長嶋のピッチングの真似をする。役者も野球選手も日々鍛錬、自分でつくる。最後までやりきる。と、そして認知症になってからのご自身の日々の暮らしをありのままに語り、みんなと一緒にやっている体操を実際にやって見せてくれる。日常生活に体操を取り入れてから随分と変わったとのことで、使ったものは元に戻す、やりかけにしない、床を拭いたり、いつの間にか部屋が綺麗に片付けられるようになっているとのこと。耳が痛い ……年を取ることでできなくなるのは当たり前としながら、「老いを生ききる」とてらいなく話す。 認知症を売り物にするのはいやだが、せいぜい生 きても後2年、誰かが元気になるならやりましょ うと、講演を引き受けているとのことだが、いや なこと、意に反することは断固として、「できな い、話が違う」と言う。テレビの中の山本學、『白 い巨頭』の里見脩二医師そのもの、まるでドラマ を見ているようでもあった。「老いを生ききる」とは、覚悟が大事、ストンと 腹に落ちた。 最後に語ったのは「認知症は生活習慣病、治す薬はありません。治すのは自分、生活を見直す事が大事」とはっきりと言い切った。医者には言えない極意である。こういう認知症に対する認識が、本人にも介護する側にも必要ではないかと思う。學さんは認知症と診断されて一番大きなことは、「不安」だったとのこと。不安と自信がなくなること、このことがどんどん大きくなっていく。その結果、さまざまな言動が出てくる。安心して生活できることがわかれば、老いを受け入れて、生ききることも出来ると。参加者のみんなが励まされた感じだった。 お見送りしようと残っていたら、思いがけず話ができた。手短に友人の話をしたが「感情は残っています。出来ることは沢山ありますよ」とおっしゃってくれた。ものすごい勇気をもらった気がした。友人にまた会いに行こう!と思う。 ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館) 川越氷川神社近くの「ヤオコー川越美術館」は、伊東豊雄さんの設計。埼玉を中心に 200店舗近くを展開するスーパーマーケットチェーンヤオコーの創業 120周年を記念して建てられました。 ▲ 『コスモス』(1996) ▼『家族』(1955) 展示室には、長年にわたり蒐集された三栖右嗣(みすゆうじ)の作品が展示されています。ヤオコーとの出会いは、創業者である川野トモ名誉会長が展覧会で見た『コスモス』(1996)に感銘を受けたことからだそうです。展示室の中心には、柔らかな光を放つ柱が天井を包み込むように延びています。建物は4つの空間に分かれ、第一展示室は人工光のやや暗い空間、第2展示室は自然光の明るい空間と、画家の精神性の変化にあわせ空間を変えたと伊東豊雄さんは言います。このプランは、特定の作家を常設展示する美術館だからこそ実現出来たそうです。 『生きる』(1974) 三栖右嗣は1927年神奈川に生まれ、東京芸大で安井曽太郎に師事します。卒業後は一水会に連続入選して画壇に認められますが、1960〜70年まで一切の制作を絶った沈黙の10年を過ごします。その間に画家の精神性は深みを増し、キャンバスに広がる「生命 -いのち」への讃歌は、多くの人の心を揺り動かしました。1976年には老いた母親の裸像を描いた『老いる』で安井賞を受賞。『爛漫』シリーズなど、命ほとばしる作品を数多く残しています。カフェでは『爛漫』の大作を眺めながらお茶も楽しめます。 川越市立美術館「勝田蕉琴展」 2025年10月25日〜12月7日 月曜休館(11月24日、12月1日は開館)、11月25日(火)は休館 川越城址に近い川越市立美術館で、川越ゆかりの日本画家勝田蕉琴(かつたしょうきん/1879-1963)の展覧会を12月7日まで開催中です。福島県に生まれた蕉琴は、1886年に棚倉藩から川越藩に転封となった松平周防守家に仕えた父の縁で、川越の親族を頼って上京し、橋本雅邦に師事した後、東京美術学校入学すると、1905年の卒業直後に岡倉天心の推薦でインドへ渡り、タゴール家や現地の美術学校で日本画を教えました。 1918年に結成された後援会「蕉琴会」の名簿。川越の日本画家としては橋本雅邦が知られますが、その弟子である蕉琴を川越の豪商たちは応援し、作品を購入していました。 インドへの渡航理由は表向きは美術工芸に関する図案研究でしたが、真の目的は詩人 タゴール(ノーベル文学賞受賞)のもとで日本画を教えることでした。先行してインドにわたった横山大観や菱田春草の後任として、1906年にはカルカッタ官立美術学校でも教鞭をとります。蕉琴はインドの仏跡などに足繁く通いスケッチを重ねながら、仏教やインド神話を学びました。はじめてチベット入国を果たした僧侶 河口慧海とも交友し、一緒にダージリン地方を旅しています。 ダゴールや河口慧海たちと写った貴重な写真。蕉琴は写真や資料を蒐集し、日本に持ち帰っています。 インドからの帰国直後に描かれた『出城釈迦』(1907)。第一回文部省美術展覧会の出品作で、釈迦が深夜に城をでて、出家する姿を描いています。アジャンター壁画を参考にした意欲作です。 勝田蕉琴の代表作『曾根つたひ』(1915) トチやブナの森に若い鹿が姿を見せています。出品当時は目立たない作品といわれましたが、近年は評価が高まりました。 常設展示室では、勝田蕉琴の師である橋本雅邦や小茂田青樹など、川越に縁の深い日本画家の作品を紹介しています(この展示は12月14日まで)。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】